第153話 魔法の終焉と人類の勝利
視線の端で点滅していた最後の不気味な赤が、鮮やかな緑色へと反転した。
ロキヌス帝都ガラド:重力反転確認・パージ成功。
カウントダウンの数字は、臨界まで残り5分を切っていた。まさに紙一重、極限の滑り込み。地球を宇宙の塵へと変えるはずだった四つの対消滅爆弾は、すべて人間の意志によって地球の引力を拒絶し、遥か虚空へとパージされたのだ。
「ガラドのパージを確認した」
肺に溜まった灼熱の空気をすべて吐き出すように、私は呟いた。
「ああ、爆発5分前でやっととは、焦らせやがるぜ」
と、アノン。その声はどこか誇らしげだった。
「みんな、やってくれたんだわ。ちゃんと私の声は届いていた!」
あの急ごしらえの、ただマニュアルを叫ぶだけのラジオ放送を、今まで魔法に飼いならされていた地上の人々が完璧に受け止め、自らの手で重力スライダーを引き絞ったのだ。これなら、魔法が無くてもやっていける。私は確信にも似た予感を感じ取っていた。
「とりあえずは、我々人類の勝利ってわけだな」
アノンの呟きに、私は動かない装甲の中で、深く、深く安堵の息を吐いた。そこに、ゲーレン総帥が、冷徹な、しかしどこか愉快そうな口調で言葉を繋いだ。
「これからが、人類の本当の地獄かもしれんがな。星の破壊によって、異星文明の本隊による侵略がいよいよ始まるかもしれん。これから先、人類の科学力の大幅な底上げが必要となるだろう、忙しくなるぞ、破星。人類の真の独立のために、これから、ますますお前の力が必要だ」
ゲーレンの言葉は、かつて私を戦場へ駆り立てたあの「生存技術」の授業そのものだった。
(……はぁ。またブラックな機関で働けってことね。今度は心があるのだから、昔みたいなデスマーチは、もうごめんだわ)
神を殺し、数千年の時を超えて世界を救ったというのに、その先に待っているのが国家規模、いや地球規模の超過勤務だなんて、つくづく割に合わない人生だ。まったく、異世界に来てもブラック労働から逃れられないとは、私の中にいるリオが泣くよ。
けれど、私の口元は自然と歪な形に釣り上がっていた。
(おいしいものでも奢ってもらえれば、まぁ、いいか……)
ここまで泥を啜り、物理法則の冷徹な力で神の奇跡を蹂躙してきた。そのプロセスのすべてが、今、確かな達成感として私の胸を満たしている。ナインとしての合理主義を動機としながらも、その本質は「大切な人たちとの不自由な、しかし自由な明日を守るため」という、リオとしての極めて個人的でエゴイスティックな感情に根ざしていた。
だから、ここまで来れたことが、私は何よりも嬉しかった。
レイラ、私達はついにやったよ!
私は真っ先に、この成功を、この戦いの一番の功労者であるレイラに送った。
彼女の遺した不合理な意志が、この最高のハッピーエンドを導いたのだ。
そして、この思いを、すぐにでも地上で待つ私の生存圏の住人たちへ共有したかった。
「早く作戦の成功を知らせてあげないと! みんな、いつ地球が爆発するか、気が気じゃないはずだわ」
私は再び、地上へと、電波の送信を開始した。
かすかなノイズを伴いながらも、私の声が、再び地球の大気へとブロードキャストされる。
『……地上の勇敢なる人々よ。……聞こえるかしら。私は、リオ』
『作戦は成功よ。我々はついに神の爆弾の排除に成功した。みんな。本当にありがとう』
私は一息つき、つづけた。
『そして、今、この瞬間を以て、魔法という名の奇跡は終わります。私達はこの「星」の心臓を破壊しました。……これから、あなたたちの生活は一変するでしょう。傷はすぐには癒えず、農作物は魔法では育たず、不自由で残酷な明日がやってきます。……でも、絶望には及ばないわ。私達はもともと、そんなものに頼らず生きていたのだから、ここからは、私達人間の力で、もっと素晴らしい明日を創り上げるのよ』
私は、地上の青い空を思い描き、剥き出しの真実と、未来への希望を告げる。
『魔法をもたらした星は決して神などではなく、その甘い毒を送り込んだのは、遥か銀河の彼方にある異星の文明です。奴らは私達を家畜へと作り変えようとした。……けれど、私たちが星を砕いたことで、奴らは知ったはずです。この星の人間には、まだ強い「意思」があるということを』
私は、レイラへの思いを胸に秘めながら、さらに、言葉を繋いだ。
『奴らの大艦隊が地球にやってくるかもしれない。……それまでの時間は、私達が自らの知性と意志で立ち上がるための猶予です。魔法という杖を捨て、自らの足で歩き、科学という武器を磨くための。だから、どうか、みんな……私が地上に帰ったら力を貸して』
◆
ロキヌス帝都ガラド、中央神殿の地下最深部。
対消滅爆弾がパージされ、完全に機能を停止して崩れ落ちたキマイラ2号機の残骸の横で、メアリーは旧型ヴァルキリーのハッチを押し開け、油と煤にまみれた顔で地上を見上げていた。
ヴァルキリーの無線機から流れる主の声を、彼女は一字一句聞き逃さずに、その胸に刻み込んでいた。
「お嬢様……『力を貸して』、だなんて、そんなこと、言われずとも最初からそのつもりですわ」
メアリーは、ふぅ、とメイドとしての誇りに満ちたため息をついた。
「神様にお祈りして奇跡を待つだけの哀れな神官たちは、今頃上で泣き叫んでいます。ですが、お嬢様のメイドは違います。お嬢様がこれから宇宙の果てまで戦いに行かれるというのなら……私は、お嬢様とお揃いのヴァルキリー2号機を仕立てて、宇宙の果てまでついていきますとも!」
彼女は油染みのついた前掛けをきつく結び直し、リオを迎える準備のために、足取りも軽く地上へと歩き出した。
◆
ナブラ王都。王宮のテラス。
にわかに騒がしくなった街を見下ろしながら、サンジェルマン公爵は、ラジオを前に、不敵な笑みを浮かべていた。
魔法の灯火が消え、暗闇に包まれた王都。だが、彼の目は未来を見ていた。
「ワシの目に狂いはなかったな。あの娘、本当に世界を根底からひっくり返しおったわい」
「お父様、リオとアノン様は、本当に神様を……」
隣に立つラナが、消え去った自らの聖属性の光を惜しむように胸に手を当て、しかし、その瞳には涙ではなく、確かな覚悟が宿っていた。
「アノン様が選んだ世界。不自由で残酷だとしても、私も私の足で歩いてみせる。お父様、メサリアの科学研究所《科研》の予算をもっと増やさないと!」
「そうだな、国家予算の半分では足りんか! これからは血筋ではなく、技術と資源の時代じゃ。すぐにナブラ全土の職人を集め、国家プロジェクトとして『科学』を推し進めるぞ!」
サンジェルマン公爵は即座に国政の主導権を握るべく、次の一手を指示し始めた。
◆
サパー共和国、アイアンポート。
崩壊した神殿の片隅で、職人たちがラジオを囲み、湧き上がっていた。
「おい、職人ども! のんびりしている暇はないぞ! あの、おっかねえ、お嬢が帰ってくるんだ、旋盤を回せ! 蒸気圧を上げろ! グズグズしていると、どやされるぞ!」
『おうよ! 遂に俺たちの時代が来たんだ! 魔法なんて頼らなくたって、俺たちの歯車と蒸気が、世界を動かしてやる! お嬢と一緒に最高の機械を作ってやるぜ!』
アイアンポートの職人たちが、ネジや工具を手に、かつてない熱気で叫び返した。
◆
そして、聖都ルミナス。神殿跡。
大気中のナノマシンが完全に沈黙し、ただの巨大な瓦礫の山と化したその中心で、シオンは鉱石ラジオのイヤホンを耳に押し当てたまま、狂気と歓喜に満ちた笑みを浮かべていた。
周囲には、魔力を失った帝国軍残党の兵士たちが、息を詰めて彼を見つめている。
「……クク、フハハハハ!」
シオンの口から、抑えきれない笑いが漏れ出た。
「聞いたぞ、諸君。陛下は、我らが救世主は、ついに神の檻を破壊されたのだ! 魔法という名の家畜の檻は壊された! これより、第二段階《世界改造》へ移行する。全軍、工業地帯の復旧を急げ!陛下のご帰還は近いぞ」
「シオン宰相、静かにしてくれ。リオの声が途切れる」
その狂信的な怒号を遮るように、一人の青年が静かに立ち上がった。
ナブラ王国第一王子、エイデン。
彼は剣を泥に突き立て、耳を澄ませていた。
彼の指先からも、これまで苦闘を共にしてきた貧弱な魔法の気配は完全に消え去っていた。だが、彼の胸を占めていたのは、喪失感などでは到底なかった。
激しい、震えるような、圧倒的な歓喜。
(生きて、帰ってくる――。リオが、彼女が本当に神を殺して、生還する)
エイデンの脳裏に、彼女が宇宙へと飛翔する直前の、あの悲痛な別れの光景が鮮明に蘇る。
あの時、リオはいつものように冷徹な仮面を被り、生存確率を計算し、あたかも人類のための冷酷なパーツとして、自らを死地へ投げ出すような目をしていた。
エイデンは、彼女の手を握りしめながら、その華奢な背中を見送るしかできなかった。二度と戻らないかもしれないという、胸を引き裂かれるような絶望に耐えながら。
だが、今、ラジオのノイズの向こうから響いたのは、紛れもない、彼女自身の生き生きとした声だった。
『みんな、地上に帰ったら私に力を貸して』
生き残りたかったら私を助けなさいと、彼女は地上の全人類に向かって傲慢に、不条理に命じているのだ。
「ああ……本当に、君は」
エイデンの目から、熱い涙が溢れ、泥に汚れた頬を伝った。それは悲しみの涙ではない。愛しい人が、約束通り、自らの意志で明日を掴み取り、自分の元へ帰ってくると宣言したことへの、魂からの安堵と喜びだった。
「兄上、あのとんでもない女が帰ってくるからといって、みっともないぞ。泣いている暇などないはずだ」
隣で、第二王子のセラスが、魔力の消え去った自らの手を屈折した表情で見つめながら、しかしその口元を不敵に歪めていた。
彼らの背後では、老将モルトケが、シオンの狂気につき合いながらも、すでに軍事ロジスティクスの再構築について、慌ただしく伝令を飛ばしている。
「セラス、君には分からないさ。……リオが、ついに帰ってくるんだ。やっと僕は……彼女を抱きしめ、妃に迎えることができる」
「あのとんでもない女が、大人しく王宮で妃なんかやっているものか。だいたい、兄上の妃になるなんて、一言も言っていなかったじゃないか。だとすれば、僕にもまだアプローチするチャンスはいくらでもあるはずさ」
「いいじゃないか、彼女が生きて帰ってくるのだから、なんだって。でも、彼女が選ぶのは、絶対に僕だと確信しているけれどね」
エイデンは、喜びながら、涙を流すのだった。
その横では、バーンが泥にまみれた衣服を気にも留めず、鉱石ラジオに聞き耽っていた。
「世界征服の次は、宇宙戦争か。本当に、人使いの荒い聖女様だ。でも、僕の聖女様が宇宙の果てまで戦いに行くっていうなら、その兵站は僕がやるしかない!」
地上のあらゆる場所で、人々は戸惑い、怯え、しかし確かに、自らの足で歩き出そうとしていた。
イヤホンから流れる、少女の冷徹で熱い意志が、人類という種そのものに、強力なバグ《エゴ》を植え付けたのだ。
◆
私はそっと目を閉じた。
通信機の向こうから、地上の喧騒と、微かな機械の稼働音が、きこえてきそうだった。
不自由で、残酷で、けれど、愛おしい人間の明日が、今、産声を上げたのだ。
「アノン。ゲーレン総帥……私たちの、次の仕事の準備を始めましょうか。さぁ、地球へ帰還するわよ」
暗闇のなか、私は冷徹な微笑みを浮かべ、まだ見ぬ銀河の敵へと、その思考を巡らせ始めた。
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