第148話 魔法なき戦い
エイデンが檄を飛ばした瞬間、帝国軍残党は、一糸乱れぬ精密な時計仕掛けの機械のように駆動を開始した。
鉱石ラジオのクリスタル・イヤホンから漏れるリオの声を直接聴いたのは、シオンとエイデン、そしてごく一部の指導者層だけだ。だが、それで十分だった。全体の状況を把握した彼らから、全軍へ向けて容赦のない物理の命令が下される。
「工兵隊は地上の神殿を爆破、撤去しろ! 爆弾が天へ昇るための経路を空ける! 主力部隊は私に続け、地下へ突入する!」
シオンの怒号が、マナを失って静まり返った戦場に響き渡る。
ルミナスの神殿――かつて「星」が浮上した跡のクレーターの辺縁部に再建された神の箱庭は、すでに満身創痍だった。リオとセレニティの激戦、そして空中潜水戦艦『ネオ・ノーチラス』による強襲によって、絶対防御壁は消失し、白亜の構造物はあちこちが引き裂かれ、半壊状態にあったのだ。
大気中のナノマシンが沈黙した今、強制的に開花を維持されていた中庭の白亜の花々は一瞬で枯れ果て、物理法則を無視して幾何学的な紋様を描いていたクリスタルの噴水も、ただの濁った水溜まりへと成り下がっている。
「邪魔な残骸をすべてひっくり返せ! 爆薬を敷き詰めろ! 陛下のご命令だ、遠慮はいらない」
地上の工兵隊たちは、神への恐れなど微塵もなく、当たり前の作業として手際よく動いた。崩落しかけた大理石の柱や、通路を塞ぐ巨大な瓦礫の基部に、科研製の黒色火薬の物理爆薬が次々と設置されていく。
神殿を壊すことに躊躇などない。彼らが崇拝する混沌の聖女。リオの命令は既に下っているのだ。
地上で次々と導火線に火が放たれ、連続的な爆音と共に半壊していた神殿のドームが内側から吹き飛んでいく。ガラガラと音を立てて白煙が立ち上り、神殿の中央には、天を真っ直ぐに仰ぐ巨大な「風穴」が遮二無二こじ開けられた。
それと同時に、エイデン、セラス、モルトケが率いる主力部隊は、地下の大階段へと突入していた。
「突撃! 立ち塞がる障害はすべて排除しろ!」
地下通路は、拠り所としていた神の加護を失い、ただの困惑する人間の集団に変貌した狂信者たちで溢れかえっていた。彼らは暗闇から迫り来るエイデンたちの足音に怯えながらも、必死に指先を突き出す。
「わ、我が神よ! 侵入者に天罰を――魔雷!」
「光の障壁よ、我らを護れ!」
だが、いくら口呪を叫ぼうとも、その指先から火花すら散ることはない。世界を満たしていたナノマシンのネットワークは完全に沈黙している。無敵を誇った魔導障壁も、肉体を鋼に変える強化魔法も、この新世界では、ただの哀れな妄想だった。
「指先から火花も出せない神官風情が、戦場に立つな」
参謀としての、モルトケの冷酷な声が響く。
最初から物理法則の天秤の上でのみ鍛え上げられていた兵士たちのマスケット銃が、一斉に火を噴いた。
パン、パン、と乾いた破裂音が狭い地下通路に反響し、障壁の加護を失った狂信者たちの胸を、鉛の弾丸が容赦なく穿っていく。肉体強化のない生身の身体など、高速で運動する金属塊の前にはただの柔らかい肉塊に過ぎなかった。
「がはっ……な、なぜ、神の御力が……消え果た!」
血を吐いて崩れ落ちる神官たちを、兵士たちは踏み越えて進む。銃剣が鈍い光を放ちながら閃くたびに、神の盲信者たちが泥のように処理されていった。
「くっ……これが魔法のない、ただの泥臭い物理の戦い……!」
第二王子セラスは、自らの自慢の魔術が一切発動しないことに、一瞬だけ悔しげに唇を噛んだ。かつて天才と持て囃されたプライドが、物理法則という無慈悲な平等の前にへし折られかける。だが、彼はすぐに割り切った。魔法が使えなくとも、己の戦術眼と、この五体までは奪われていない。
「兄上、前衛の防御が薄い! 私が防盾になる!」
セラスは転がっていた机――急造の物理防盾を両手で掲げると、前線へと躍り出た。魔法の障壁が張れないならば、物理的な質量で敵の投石や決死の白兵攻撃を防ぐだけのこと。まだ若いだけあって頭の切り替えは速い。
机に敵の突き出す槍や打撃が激しくぶつかり、ガキィィンと重い金属音を立てる。その衝撃がセラスの腕の骨に直接響いたが、彼は歯を食いしばって一歩も退かない。
「助かる、セラス! 突撃――!」
エイデンが剣を翻し、セラスの防盾の影から滑り出すように飛び出して、残敵を文字通り叩き伏せていく。兄弟の歪な、しかし確実な連携が、地下の防衛線を驚異的な速度で食い破っていった。
数分間の容赦のない蹂躙を経て、混成軍はついに神殿の最奥、無機質な意匠が不気味に混ざり合う円形の爆弾室へと到達した。
室中央の金属的な台座に設置されていたのは、わずか数十センチの、不気味に明滅する金属の球体だった。
これこそが世界を滅ぼす対消滅爆弾。この小さな球体の中に、大きな山脈一つ分に匹敵する「反物質三千億トン」が、恐ろしい密度で縮退されているのだ。
エイデン達は知らないだろうが、通常、それほどの莫大な質量をわずか数十センチの極小空間に圧縮すればどうなるか。答えは単純だ。
自重による重力崩壊を引き起こし、周囲の空間ごと全てを呑み込む極小のブラックホールが形成される。近付くどころか、この地下室の構造すら一瞬で引き千切られて圧壊するほどの、凄まじい重力場が発生するはずなのだ。
だが、近づいてきたエイデン達が吸い込まれることはないし、目の前の金属球は不気味なほどに静まり返っている。
リオが解説する通り、内部に展開された『重力偏向フィールド』――すなわち完璧に制御された反重力技術によって、自らが放つ莫大な引力を相殺し、この空間に物理的に「固定」しているからだ。
重力という宇宙の基本相互作用すら完全にねじ伏せ、三千億トンもの反物質を手のひらサイズにパッケージングする。
まさに「星」の叡智がもたらした、神の御業としか言いようがない狂気の物理制御技術であった。
そして、この爆弾が一度起動すれば、地球そのものを吹き飛ばす威力をもつ。
爆弾の構造を詳しく知らなくても、その事実だけで、エイデンの手は汗ばんだ。
「理屈は後だ。リオの言う通りにやるぞ」
エイデンが剣を構え、爆弾の右側の装甲板に向けて、思い切り叩きつけた。
ガン! と硬質な音が響き、歪んだ装甲が火花を散らして剥がれ落ちる。さらにモルトケが剣の柄で抉るようにして叩き壊すと、剥き出しになった制御基盤の奥、禍々しく輝く赤い結晶体の隣に、リオが告げた通りの「銀色のスライダー」が固定されていた。
シオンがそのレバーを掴む。皮膚に伝わる金属の冷たさ。
彼は一言も逃さずに記憶していたリオの声を脳内で復唱し、そのレバーを一気に、最上部へと引き上げた。
「重力の枷を外し――負の質量を、無限大へ!」
スライダーが限界に達した瞬間、爆弾の内部から「キィィィン……」という、空間そのものが軋むような凄まじい高周波音が響き渡った。
「全員、退避しろ! 巻き込まれるな!」
エイデンの叫びと同時に、一同が台座から猛烈な勢いで飛び退く。
重力制御の設定値が完全にオーバーフローし、地球の引力を拒絶した爆弾は、推進力を持たないにもかかわらず、真上に向けて猛烈な勢いで「逆落下」を開始した。
数十センチの金属球は、凄まじい速度で地下室の天井を突き破る。
地上ではすでに、先ほどの爆破作業によって神殿の天井が綺麗に取り除かれていた。何一つ遮るもののない空間を、三千億トンの「負の質量」と化した爆弾は、白銀の流星となって、宇宙へと向かって超高速で上昇していく。
それは、神が仕掛けた絶対の秩序を、単純な物理の書き換えでひっくり返した、鮮やかなカウンターだった。ルミナス神殿地下の対消滅爆弾は、完全に宇宙へとパージされたのだ。
崩壊した神殿の底から、大気圏の彼方へと消えていく白銀の光を見上げる一同。
エイデンが大きく息を吐き出し、剣を鞘に収める。
だが、その傍らで、シオンだけは手元に残されたガラクタのイヤホンを静かに見つめ、冷徹な内政官としての表情を険しくさせていた。
「ルミナスは終わった。……だが、帝都ガラド、王都アルビオン、アイアンポートは、陛下のこの無理難題なマニュアルを遅滞なく実行できているだろうか」
シオンの呟きが、静まり返ったルミナスの平原に冷たく響く。
世界中へ同時に仕掛けられた、神の最終清算プロトコル。たった一箇所でも失敗すれば、その瞬間にすべてが瓦礫へと変わる。
全体最適を冷徹に計算する彼の脳裏に、地上に残された他の拠点への懸念が過っていた。
地球破壊爆弾の爆発まで、残り二時間半。
世界の命運は、電波の向こうの人間たちへと完全に委ねられた。
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