余波 (薛劉波)
気づいたのは、花水宮で薛婕妤が倒れた、その報告が入った時だ。
既に皇帝の元は辞していたが、劉波は己の不覚に頭を抱えた。
義弟こそ、怪我はしていたがなんとか歩ける程度だと確認して安心していたら、突然の凶報を告げられたのだ。
彼の姪は……薛花琳は、その少し前から体調を崩していたらしい。そこに実父捕縛の報だけを聞いて、倒れてしまったと。
皇帝に呼び出されこそしなかっだか、完全に自分の責任だと劉波は自らを責めた。
せめて、解放されてから知らせていれば……。
またその後、今度は劉葉皇子が亡くなったという衝撃が宮中と後宮を駆け巡り。
劉波は花琳に面会することも出来ないまま、皇子の葬儀に関することで忙殺された。それは程度の差こそあれ、皇帝も同様だった。
皇子の死を悼み、実母である夏充容を気遣い、養母となっていた宋賢妃と葬儀について話し合ったりする必要があり、花琳を気にかけながらも花水宮を訪れられていないという話を聞き、隆波は皇帝もまた不自由な身の上だなと同情しないでもなかった。
皇子が亡くなって間もないというのに、後宮の宮女を訪れることは憚られたのだろう。
立太子されていた訳でもなく幼い皇子だったため、皇族にしては簡素に葬儀が執り行われ、短い喪に服すこととなった。
そんな忙しい日々の中で、やけに自分に人目が集まることに劉波は気づいた。
最初は気のせいかと思っていたのだが、今はもうあからさまに見てくる者がいる。目をやれば、ひそひそと何かを話しながらこちらを窺う官吏の姿は随分と多かった。
そ知らぬふりで近づきながら、彼らが何を話しているのか聞き耳を立てた。
「殿下を池に落としたのは薛婕妤さまだって話は、本当か?」
「分からん。薛婕妤さまが狙われたという話もある。だが、その場に一緒におられたのは間違いないようだな」
「……薛婕妤さまといえば、殿下の快癒祈願にはついぞ一度も参加されなかったと聞く」
「やはり、殿下の御身を害されたのは薛婕妤さまなのでは」
劉波は耳を疑った。
なんだその話は、と言いたかった。
皇子が池に落ちた時に花琳が同じ場所にいた、というのは知っていた。だがそれはそもそも花琳が狙われていたからであり、皇子はただのとばっちりだ。快癒祈願に出なかったのも体調を崩していたからであり、皇帝に止められたからに他ならない。
事実無根の噂話だ。だが、この噂が彼の姪である花琳──薛婕妤を害する目的をもったものであることは間違いない。
「おのおの方、何を話しておいでか」
劉波は自ら、ひそひそ話しをしていた官吏たちに話しかけた。官吏たちも、劉波に聞かれていることは承知していただろう。あえて、聞かせて反応を窺ったように見えた。
「いえ、何も」
「くだらぬ噂話ですよ、噂話」
「そうですかな? 薛婕妤さまを疑うような内容が聞こえましたが……」
官吏たちが劉波から顔をそらした。劉波はわざとらしくはあっとため息を吐いた。
「無責任な噂話はなさらぬことですな。申し上げますが、皇子は深澄園で事故に遭われましたが、確かに薛婕妤さまもその場におられました。当然ですな、皇子を池に突き落とした黄采女は……そう、黄德妃の、黄家の縁戚の方ですな。この方は薛婕妤さまを狙っていたのですからな」
「黄德妃、さま……?」
ここで、官吏たちの顔に焦りが浮かんだ。まさか知らなかったということはなかろうが、と劉波は呆れながら続ける。
「皇子の快癒祈願に参加されなかったのは、陛下が薛婕妤さまが体調不良であられたため禁じられたせいであって、薛婕妤さまに二心があるからではござらん。祈願の際の供え物は贈っておられたのだから、無責任な噂はご自分の首を絞めますぞ」
じろりと睨む。
「……そ、そうでしたか。事実を知らず、申し訳ありません」
「薛殿、そのようにお怒りにならず。ただの噂でございますよ、くだらぬ噂でございます」
「ですがそのように、ありもしないことをさもあったように吹聴されては、薛婕妤さまの名に傷がつきますでしょう。今や唯一陛下のお子を身ごもっておられる御身。陛下の寵愛も深い薛婕妤さまに事実無根な上不名誉な噂など流されたら、陛下のお怒りがどれ程のものか。つい最近そのような例もございましたな」
そこまで口にすると、官吏たちはすっかり顔色を失っていた。
張婕妤の宮からは毒物など一切発見されなかった。それについて、危険だから処分したのだと張婕妤は主張したが、捕らえられてすぐに彼女の侍女や女官たちが真実そのようなものはなかったと白状した。彼女たちは拷問される同僚の姿に震え上がって泣き、許しを請うた、らしい。
残されていた塩甕にも毒の反応はなく、女官たちの話は事実であると判断された。
大理正は尋問という名の拷問を受けた上で罷免され、財産を没収された。張婕妤は偽罪で寵妃とその実父を陥れようとしたとして、ただちに冷宮送りとなった。関与した侍女、女官や宦官たちは全員処刑された。
今回の事は皇帝が早く動いたからこそ無事にすんだが、万が一義弟が拷問に負けて偽罪を一言でも認めていたなら、皇帝でもかばうことは出来なかった。だから、劉波は路頭に迷うだろう大理正たちにまったく同情しない。
そして黄家。
度重なる失態で、宮中での声望をほとんど失った。黄将軍とも黄采女とも違う家の者たちは、彼らをかばうことも減刑を望むことも、しなくなった。巻き添えになることを恐れたのだろう。祖先を同じくしていながら、冷たいものだ。
「またも薛婕妤さまや父君に偽罪を着せる輩がでたのかと思いましたが」
劉波が睨みながら見回すと、官吏たちは慌てた様子で首を振る。
「そ、そのようなつもりは毛頭ござらん」
「誤解でございますよ」
「その通り。劉葉殿下が亡くなられた今、薛婕妤さまにはなんとしても元気な皇子を産んでいただかねばならんのだしな」
「そうだそうだ。劉波殿、我々は敵ではなく味方にございます」
怪しいものだ、と心中で呟きながら、それでも劉波は笑顔で答えた。
「ありがとうございます、そのように言っていただけるとわたしも姪も心強い」
途端に阿るような表情を浮かべた官吏たちを心底から軽蔑しながら、こっそりため息を吐く。
後宮に限らず、宮中もまた、まだまだ問題が多いように感じた。
劉波が帰宅して同じように出仕している息子たちに尋ねてみると、やはり薛婕妤に対する不確かな噂話は広く出回っていたらしいるようだ。彼らは真実を話して否定して回ったと言うが、人の口に戸は立てられない。これはきっちり皇帝に奏上して、釘を刺してもらった方が良いのではないだろうか。
放っておいては危険だと判断し、劉波はその日のうちに草稿を書き上げ、翌日奏上した。
薛婕妤の貴妃冊立とそしてこれまでの功を理由に、この後、薛劉波は中書舎人から中書侍郎に出世を果たした。
体調を崩して投稿が遅れました。すみません。
まだ本調子でないので次もちょっと分かりません。




