第7話:過酷な霊峰登頂
「ギチチチチ……ッ!」
狭い洞窟の中に、甲高い悲鳴と肉塊が砕け散る不快な音が響き渡る。
クリスは洞窟の岩壁を傷つけぬよう、完璧にコントロールされた凄まじい衝撃を指先や拳から叩き込んでいた。跳びかかるアイスタランチュラを正確に一撃で叩き割り、天井から迫る脚を最小限の動きでいなして破壊していく。
「トト、しっかりしがみついてろ! 振り落とされるなよ!」
「う、うんっ! クリスの背中から絶対に離れないよー!」
トトがクリスの襟元を小さな手で必死に掴む中、最後の一匹が粘着性のある毒糸を吐き出しながら襲いかかってきた。クリスは冷静にその巨体を受け流し、腹部へ寸勁(短い間合いからの打撃)を叩き込む。
ドガァンッ!
内側から破裂した毒蜘蛛は動かなくなり、洞窟の中に静寂が戻ってきた。
「ふぅ……なんとか洞窟を崩さずに済んだな」
額の汗を拭うクリス。短時間の戦闘ではあったが、全開で殴るよりも「力を敵の体内に抑え込む」という極限のコントロールは、精神的にかなりの集中力を要した。だがそのおかげで、クリスの戦闘感覚はより一層研ぎ澄まされていた。
「クリス……君、どんどん人間離れした動きになってない……?」
トトが呆れと感嘆の混ざった顔で首を傾げる。
「母さんを助けるためなら、なんだってやるさ。外の吹雪も少し弱まってきたみたいだし、今のうちに上を目指そう」
◇
洞窟を出ると、先ほどまでの荒れ狂う猛吹雪は幾分か和らいでいた。しかし、標高はすでに雲海を遥かに超えている。空は息をのむほど澄み切った深遠な群青色に染まり、足元には一面の雲の絨毯が広がっていた。
だが、ここからが霊峰アトスの本当の試練だった。
斜面はもはや「道」と呼べるものではなく、垂直に近い氷の壁と化した岩肌が立ち塞がる。風は刃のように冷たく、空気は極限まで薄くなっていた。
「くっ……息が……うまく吸えないな……」
肺いっぱいに息を吸い込んでも、酸素が胸に行き渡らない感覚。一歩踏み出すごとに、太ももが鉛のように重くなる。生まれつきの怪力を誇るクリスであっても、高山病のような息苦しさと削られていく体力を誤魔化すことはできなかった。
「クリス、大丈夫……!? 顔色が真っ白だよ……!」
首元から顔を出したトトが、心配そうにクリスの頬を小さな手で撫でる。
「大丈夫……これくらい、母さんが耐えてる痛みに比べたら……っ!」
クリスは歯をくいしばり、目の前に立ちはだかる氷の壁に素手を突き刺した。
メリメリと音を立てて氷岩に指先を喰い込ませ、その規格外の腕力だけで己の身体を強引に引き上げていく。登山道具など使わない。ただ己の肉体と、母を救うという執念だけがクリスを突き動かしていた。
その時、胸元のペンダントが服越しにじわりと温かな熱を帯びた。
微かな雷気が全身の血流を巡るように走り、薄い空気で失われかけていた体力が、不思議と内側から底上げされる感覚が湧き上がる。
(父さん……見守ってくれてるのか……?)
父親の面影を感じながら、クリスはついに垂直の氷壁を登り切った。
「ハァ……ハァ……っ! 登り、切ったぞ……!」
崖の縁に手をかけ、豪快に這い上がった先——そこは、雲の上に突如として現れた巨大なカルデラ状の「山頂台地」だった。
そこには、下界の猛吹雪が嘘のように、神々しいほどの静寂が広がっていた。一面を覆う白銀の万年雪。その中央に、青く澄んだ光を放つ小さな群生地区域が見えた。
「クリス、見て! あそこ……!!」
トトが飛んで指差し、叫んだ。
万年雪を押し分けるようにして咲き誇る、透き通った瑠璃色の花々。これこそが、あらゆる病を鎮めると言われる神話の秘薬——『万霊草』だった。
「あった……! 万霊草だ! これで……これで母さんが助かる!」
クリスは歓喜に目を輝かせ、秘薬へ向かって駆け出そうとした。
——しかし。
ズウゥゥゥゥン…………ッ!!
突如として、山頂全体の空間が押し潰されるような圧倒的な重圧に包まれた。
雪原の奥、万霊草の群生を守るように鎮座していた巨大な岩塊が、ズルリと動いた。
「グルルルルル…………ッ」
地鳴りのような低音の威嚇音が、クリスの鼓膜を直接揺らす。
降り積もった万年雪を爆風のように吹き飛ばしながら姿を現したのは、身の丈十メートルを越える伝説の魔獣。
猛禽の鋭い鷲の頭部と巨大な翼、そして百獣の王たる凶暴なライオンの胴体を持つ、霊峰の絶対的支配者——『グリフォン』だった。
その金色の鋭い瞳が、クリスたちを「命を狙う侵入者」として冷酷に捉える。
「ひっ……! ク、クリス……あいつ、さっきのクモさんやワンちゃんとはワケが違うよ……!! 匂いだけで身体が固まっちゃいそう……!!」
トトが恐怖で顔を蒼白にさせ、クリスの髪の毛の中に隠れる。
「……ああ、わかってる」
クリスは静かに、しかし力強く足幅を広げた。
眼前の魔獣から放たれる圧迫感は、今までのどんな獲物とも比較にならない。だが、クリスの瞳に怯えの色は微塵もなかった。
「目の前に万霊草があるんだ。相手が山の主だろうと神様だろうと……俺は絶対に引き下がらない!」
万霊草を巡る、霊峰山頂での死闘が幕を開けようとしていた。




