第8話:山頂の死闘と予期せぬ遭遇
「グルルルルル…………ッ!」
地鳴りのような重低音の咆哮が、霊峰アトスの山頂を揺らし、降り積もった万年雪を爆風のように吹き飛ばした。
身の丈十メートルを越える伝説の魔獣——『グリフォン』。
鋭く研ぎ澄まされた猛禽の頭部と、黄金の毛並みを誇る巨大な翼。そして、丸太のように太い筋肉の塊であるライオンの胴体が、白銀の世界で圧倒的な死の威圧感を放っていた。
「ひ、ひぃぃ……っ! だ、だめだよクリス、あんなのと戦ったら一瞬で食べられちゃうよぉ……!」
トトが恐怖で全身を小さく震わせ、クリスの髪の毛の奥深くへ潜り込む。
だが、クリスの視線はグリフォンの巨体ではなく、その足元——万霊草の群生地の手前に倒れ伏している『一人の人物』に注がれていた。
「……トト、あそこに人が倒れてる!」
「えっ……!? 嘘、こんな雲の上の世界に……!?」
白銀の雪の上で、鮮やかな褐色の肌と引き締まった体躯を持つ見知らぬ少女が倒れていた。
背中には精巧な作りの長弓と矢筒を背負い、獣皮をあしらった本格的な狩人装束を纏っている。しかし、その全身には鋭い爪で引き裂かれたような痛々しい傷跡があり、周囲の雪を赤く染めていた。浅い呼吸を繰り返しており、かろうじて息はあるものの意識を失いかけている状態だ。
(あんな深い傷……ほっておいたら、寒さと出血で命が持たない! それに、あの大きな足で踏まれたら一たまりも……!)
「グオオオオッ!!」
クリスたちの侵入、そして自身の縄張りを侵す者どもへ激怒したグリフォンが、前脚の巨大な鉤爪を振り上げた。倒れている少女もろとも、二人を押し潰そうと容赦なく振り下ろす!
丸太ほどもある鋭い爪が、空気を引き裂く凶悪な風切り音を立てて迫る。
「させない……っ!!」
クリスは雪を蹴り、弾丸のような速度で少女のもとへ踏み込んだ。
そして、上空から振り下ろされたグリフォンの巨大な前脚に対し、下から己の左拳を真っ向から突き上げた。
ズドォォォォンッ!!!!
山頂に凄まじい爆音が響き渡り、発生した衝撃波によって周囲の万年雪が円状に激しく吹き飛んだ。
「な……ッ!?」
激痛と衝撃音に、意識を失いかけていた倒れていた少女は、薄っすらと目を開けた。
朦朧とする視界の中で彼女が目にしたのは、絶対に信じられない光景だった。
凄腕の狩人である自分が手も足も出ず、絶望の底へ叩き落とされた山頂の絶対者、グリフォン。
その巨大な爪を受け止め、一歩も膝を折らずに片腕だけで支えている、自分より年下の少年の背中だった。
「ガ、ハ……ッ……!? グアァッ!?」
グリフォンが驚愕に目を剥く。
踏み潰そうとした前足から伝わってきたのは、山そのものを持ち上げるかのような、理不尽極まりない規格外の「腕力」だった。
「トト! あの人を安全な場所まで連れていけるか!?」
「うんっ! 任せて! むー……っ、トトちゃんの秘術……ふわふわ魔法〜〜っ!!」
トトは小さな身体を精いっぱい膨らませると、全身からほのかな光を放った。トトの魔力が倒れている少女を包み込み、その身体がふわりと宙に浮き上がる。トトは小さな手で一生懸命に彼女を誘導し、グリフォンの攻撃が届かない巨大な岩の陰へと避難させた。
「ひぃ〜……持ち上がったぁ……っ! クリス、安全なところまで運んだよ!」
「助かったぞ、トト!」
見知らぬ少女を岩陰へ避難させたことで、クリスは躊躇なく戦闘に集中できる位置に立った。しかし、少女を守る配置になった以上、クリスはここから一歩も後ろへ引くことができなくなった。
「あ……あなた……は……? なぜ……こんな……」
岩陰で少女がかすれた声で、信じられないものを見る目でクリスを見上げる。
「喋らない方がいい! かなり深い傷だ……! そこでじっとしててくれ、すぐに終わらせるから!」
「ギィァアアアアッ!!」
脚を押し返され、獲物を奪われたグリフォンは金色の瞳に激毒のような殺意を宿し、巨大な黄金の翼を力強く羽ばたかせた。
フッ……ゴオオオオオッ!!
一瞬で猛烈な暴風が巻き起こり、山頂の超低温の空気がグリフォンの口元へと一気に集束していく。
あらゆるものを一瞬で凍結・粉砕する、霊峰の主の必殺の吐息——『アイス・ブレス』だ。
「クリスっ!! 逃げてぇぇぇっ! それを喰らったら凍りづけになっちゃうよーっ!!」
トトの悲鳴が響く。
絶対零度の白い光線が、視界を埋め尽くすほどの密度と質量でクリスへ向けて放たれた。直撃すれば肉体ごと砕け散る絶対の死。
避けることは容易かった。だが——直撃を避ければ、背後の岩陰にいるトトや、動けないあの少女にブレスが牙を剥く。
「逃げられるかよ……! 俺の後ろには、守らなきゃいけない人がいるんだ!!」
胸元の父親のペンダントが、これまでで最も眩い青白き雷光を放ち、アノラック越しに強く発光した。
クリスの全身の血潮に稲妻のようなエネルギーが駆け巡り、その瞳が神々しく煌めく。
クリスは腰を極限まで落とし、右拳を限界まで引き絞った。
狙うのは、洞窟の蜘蛛戦で身につけた「衝撃の集束」。威力を周囲に拡散させず、前方から迫る極大ブレスの渦、そしてその奥に潜むグリフォンの核へ向けて——
「ハアぁぁぁぁっ!! 『撃砕』——ッ!!」
咆哮とともに繰り出された右の正拳突き。
放たれた見えない拳圧は、押し寄せる絶対零度のブレスを正面から真二つに叩き割り、そのまま一直線にグリフォンの巨体へと突き抜けた。
ドドドドドォォォォンッ!!
「ギィヤアアアアアアアッ!?」
ブレスを破られたグリフォンは、胸部に目に見えない超衝撃を叩き込まれ、身の丈十メートルの巨体が宙へと吹き飛んだ。背後の巨大な氷壁に激突し、ガラガラと崩れ落ちる巨岩と氷塊の中に埋もれて動かなくなる。
静寂が、再び山頂に戻ってきた。
「ハァ……ハァ……っ! やった……か……?」
息を荒らげながら拳を下ろしたクリスの前には、完璧に静まり返った山頂と、その中央で静かに青い光を放つ秘薬『万霊草』の群生だけが残されていた。




