第5話:銀世界への踏み出し
開墾村をあとにしたクリスとトトは、母アラの命を救う秘薬『万霊草』を求め、北にそびえる霊峰アトスを目指して足を進めていた。
村を出てから三日。
つい先日までクリスを包み込んでいた秋ののどかな景色は完全に姿を消し、視界のすべてが冷酷な白銀に支配された険しい山道へと様変わりしていた。
見上げるほど高く巨大なアトスの山体は、半ばから上が激しい雲海と吹き荒れる吹雪の中に呑み込まれ、頂の姿を伺うことすら叶わない。足元に転がるゴツゴツとした岩肌には凶悪な氷柱がびっしりと張り付き、生半可な歩みを拒むかのように立ち塞がっていた。
ヒュオオオオ……ッ! ザザザッ!
「ひゃあぁあっ!? む、むりむりむり! 寒すぎるよクリス〜〜っ! 凍っちゃう、僕のお耳が凍っちゃうよ〜!」
突然の突風に煽られ、トトが泣きそうな悲鳴を上げながらクリスの襟元へと潜り込んできた。
クリスは老医師からもらった防寒用のアノラックのフードを深くかぶり直し、吐く息を真っ白に染めながら前を見据える。
「大丈夫か、トト? 風をよけて襟の中にしっかり引っ込んでな」
「うう……極寒の山なんて聞いてないよぉ……。あ、でも……クリスの首元、アラのペンダントのおかげでなんだかポカポカしてあったかいや……」
トトが寒さに震えながら呟いた通り、服の下で首から下げた父親のペンダントは、この氷点下の環境にあっても冷たくなるどころか、まるで微かな鼓動を打つ生き物のようにほんのりと柔らかな温もりを放っていた。
(父さんも……かつてこの過酷な山を越えたんだろうか。母さんと出会う前に……)
ペンダントを服の上からそっと握りしめると、胸の奥からじわじわと力が湧いてくるような気がした。クリスは一歩一歩、ひざ下まで深く降り積もった新雪を踏みしめて前進する。
常人であれば足を取られ、体力を奪われて数時間で凍死してしまうような雪道。だが、生まれつき規格外の筋力と骨格を持つクリスにとっては、この豪雪地帯の足場すらも大した障害にはならなかった。雪を蹴立て、力強く傾斜を登っていく。
(母さん、待っててくれよ。どれだけ険しい山だろうと……俺が絶対に万霊草を持って帰るから!)
だが、標高が上がるにつれて吹雪はさらに猛烈さを増し、立ち枯れた木々すら姿を消した。視界全体が真っ白に染まる「ホワイトアウト」が視界を奪い、方向感覚を狂わせていく。
◇
「クリス、止まって! 何かヘンな匂いが混ざってきたよ!」
クリスの胸元からちょこんと顔を出したトトが、ピクピクと小さな鼻を動かし、鋭い警戒の声を上げた。
「匂い……? 風上の獣か?」
「ううん、獣じゃない! もっと嫌〜な匂い! 腐ったお肉と、冷たい鉄が混ざり合ったみたいな……あっ、上!! クリス、上から来るよっ!!」
トトの金切り声と同時に、クリスは頭上の空間に走った強烈な殺気を察知し、咄嗟に後ろへ大きく跳躍した。
ドガァァァンッ!!
ほんの一瞬前までクリスが立っていた雪原に、巨大な影が頭上から牙を剥いて飛びかかってきた。
大量の雪と氷の破片が爆風のように舞い散る。その雪煙の中から姿を現したのは、村で見かける狼の三倍以上はある巨躯と、全身を青白い氷の結晶で鎧のように覆った凶暴な魔獣——『フロストウルフ』だった。
「グガアァァァッ!!」
真っ赤に濁った瞳でクリスを睨みつけ、鋭い氷の爪で雪を滑らせながら威嚇の咆哮を上げる。
さらに、カチカチと牙を鳴らす不気味な音が周囲から響き渡った。吹雪の白闇の中から、同様の巨躯を持つ魔獣が二匹、三匹と姿を現し、クリスたちを取り囲むように円を描き始めた。
「うわあぁっ! で、でっかいワンちゃんがいっぱい出てきた〜〜っ! しかもみんなお腹すかせてそうな顔してるよー!」
「トト、振り落とされないようにしっかり掴まってろよ!」
クリスは腰の背負い袋の横に差したナイフへ手を伸ばしかけたが——すぐにその手を止めた。
この極寒の地で鍛え上げられた魔獣の肉体と、表面を包む分厚い氷の鎧。村の採掘用ナイフなどで斬りつければ、一撃で刃が木っ端微塵にへし折れてしまうのが目に見えていたからだ。
「仕方ない……武器もないし、素手でいくしかないか。力加減……できるかな」
クリスは足幅を広げ、低く深く腰を落とした。
右拳を固く握りしめると、身体の奥底……全身の血潮からメリメリと常理を逸脱した腕力が湧き上がってくる。
「グオッ!!」
群れの中で最も巨大なフロストウルフが、力強く雪を蹴って跳躍した。クリスの喉元を噛みちぎらんと、巨大な顎を開いて踊りかかる。
目の前に迫る鋭い氷の牙と、凍てつく吐息。——だが、常人離れした集中力を発揮したクリスの目には、その殺気立った動きすらも緩やかな微振動のように見えていた。
「ふんっ!!」
クリスが放ったのは、武術の型でも何でもない、ただの素直で愚直な右の正拳突き。
ドッ!!——ズゴォォォンッ!!
空気が爆発したかのような凄まじい衝撃波が、前方の吹雪を丸ごと丸く吹き飛ばした。
クリスの拳がフロストウルフの額に触れた瞬間、魔獣が誇っていた厚い氷の鎧は一瞬で木っ端微塵に砕け散り、その巨躯はまるで大砲の砲弾で射抜かれたかのように背後の巨大な岩壁へと一直線に吹き飛んだ。
激しい落雷のような音と共に岩山へ激突し、ガラガラと崩れ落ちる巨岩の下敷きとなってピクリとも動かなくなるフロストウルフ。
「ガ……ギ……!?」
残された二匹の魔獣は、目の前で起きたあまりにも異常な光景に、威嚇の声すら忘れてその場に凍りついた。
自分たちの倍以上もある群れのリーダーが、目の前の小さな人間の一撃で、存在ごと肉塊へと変えられたのだ。
「……あ、やっぱり力加減間違えたかも。死んじゃったかな……」
自分の右拳を見つめ、困ったように頭をかいて溜め息をつくクリス。
その圧倒的な「怪異」としての存在感を前に、フロストウルフたちは恐怖に尻尾を股の間に巻き上げると、けたたましい悲鳴を上げて脱兎のごとく吹雪の奥へと逃げ出していった。
「ふい〜……助かったぁ。クリス、相変わらず無茶苦茶で怖いくらいの馬鹿力だねぇ……」
「これでも手加減したつもりなんだけどな……。でも、これでハッキリしたよ」
クリスは自分の右拳をもう一度強く握り締め、雪の舞う空を見上げた。
「この山は、生半可な気持ちで登れる場所じゃない。……でも、母さんを助けるためなら、俺はどんな魔獣だって吹き飛ばして突き進む」
少年の力強い誓いに応えるかのように、胸元のペンダントが服越しに一瞬だけ、青白く神々しい光を強く放ったのだった。




