第4話:霊峰の秘薬
「……本当に、行くのかい? クリス」
老医師の重く静かな問いかけが、薄暗い部屋に響いた。
村の診療所から持ち込んだ解熱と鎮痛の薬湯を飲ませ、アラが少しだけ落ち着いた呼吸を取り戻した頃。クリスは自宅の壁に掛けられた、父の残した古い狩人用の背負い袋を手にとっていた。
「ああ。座して母さんが弱っていくのをただ待つなんて、絶対に嫌だ」
クリスの瞳には、揺るぎない強い意志の光が宿っていた。
老医師はしばらくクリスの固い表情を見つめていたが、やがて諦めたように大きく溜め息をつき、持ち込んできた一冊の古びた羊皮紙の書物をめくり始めた。
「……ワシが若かりし頃、都の薬師から聞いた古い言い伝えがある。この村から北へ数日、雲を突くようにそびえ立つ『霊峰アトス』を知っておるな?」
「アトス……あの、一年中猛吹雪が吹き荒れてるっていう山か?」
「そうだ。険しい山道と猛吹雪に阻まれ、めったに人が寄りつかん極寒の山じゃ。伝承によれば……その山頂付近の万年雪の下には、あらゆる万病を癒やし、狂った生命力を鎮めると言われる神話の薬草『万霊草』が咲くという」
老医師は真剣な眼差しでクリスを見つめ直した。
「正直に言おう。おとぎ話の類かもしれん。それに、あそこは苛烈な自然環境に加え、凶暴な魔獣が蠢く危険な地じゃ。生半可な気持ちで行けば命を落とす。それでも行くというか?」
「行くよ。一%でも母さんが助かる可能性があるなら、俺は迷わず行く」
迷いは一切なかった。
クリスは背負い袋に数日分の干し肉と水筒を詰め込み、腰に頑丈なナイフを差した。
ベッドへ近づき、横たわるアラの側にひざまずく。
薬湯のおかげで熱は少し引いたものの、左胸の小さな青い紋様は、今も脈動するように妖しく明滅している。
「ん……く……っ……クリ……ス……?」
うわ言のように名を呼ばれ、クリスは母の痩せた手をそっと握り返した。
「母さん、俺だよ。今から母さんの病気を治すお薬を取りに行ってくるからね」
「だ……め……よ……。アトスは……危険……すぎるわ……っ。私なら……大丈夫だから……」
苦しい息の下から、必死に止めようとするアラ。しかしクリスは「大丈夫、俺の腕力なら絶対に負けないよ」と優しく微笑んだ。
アラは涙を浮かべながら、弱々しい手つきで自分の首元へと手を伸ばした。
そして、昨日クリスに見せたばかりの、あの雷の意匠が刻まれた古いペンダントの革紐を外し、クリスの手に握らせた。
「これ……を持っていきなさい……。あの人の……お父さんの護り身よ……。きっと……あなたの力に……なってくれるから……」
「母さん……。わかった、大切にお守りとして持って行くよ。絶対にお薬を持って帰ってくるからね」
ペンダントを固く握りしめ、首にしっかりと巻きつける。金属の冷たさの中に、どこか微かに温かい、父の残香のような不思議な感覚が手から伝わってきた。
そうして立ち上がり、力強く足を踏み出した——その時だ。
「待って待って〜〜っ!!」
バタバタと激しく羽を羽ばたかせ、トトがクリスの額に思いっきり飛びつんのめってきた。
「痛っ……トト、なにするんだよ!」
「なにするんだよ、じゃないよ! クリス、僕を置いていく気!?」
トトはクリスの鼻の頭にちょこんと乗り、涙目になりながら小さな拳でクリスの額をポコポコと叩いた。
「クリス一人で行ったら、また力加減を間違えて崖を崩したり、魔物を粉々にして道に迷ったりするに決まってるもん! それに……」
トトは一瞬、寂しそうな顔をしてクリスの首元——父親のペンダントに顔を寄せた。
「……クリスと、このペンダントの甘い匂いがしない場所なんて、僕、退屈で死んじゃうよ。アラを助けるんでしょ? なら僕も行く! 僕の鼻があれば、吹雪の中でもヘンテコな薬草だってすぐに見つけられるんだから!」
「トト……」
小さくても頼もしい相棒の言葉に、クリスの心がじんと温かくなった。
険しい道のりになることは分かっている。それでも、一緒に来てくれる存在がいることが、どれほど心強いか。
「……ありがとな、トト。頼むぞ」
「ふふん! 任せておいて!」
トトは誇らしげに胸を張り、クリスの右肩の上を自分の定位置としてきっちりと陣取った。
「クリス、これを」
老医師から手渡されたのは、霊峰アトスへのルートが書かれた手書きの地図と、防寒用の厚手のアノラックだった。
「アラさんのことはワシと村の者たちで責任を持って看病する。病状の進行を抑える薬湯も作り続けよう。……だからお前は、焦らず、必ず生きて戻ってきなさい」
「ありがとう、先生。母さんを……頼みます!」
クリスは深く頭を下げると、固く閉ざされていた家の扉を押し開けた。
外は、雲一つない秋晴れの空が広がっていた。
だが、遥か北の空を仰ぎ見れば、雲を切り裂くようにそびえ立つ雄大な山脈の影——霊峰アトスが、冷徹な威容を誇っている。
胸元のペンダントを一度握りしめ、クリスは踏み出した。
「行こう、トト!」
「おーっ!」
母の命を救うため。
十五の少年の、果てしない冒険と闘いの旅が、今ここに始まった。




