第3話:突如の発症
「〜〜〜♪」
翌朝。秋の爽やかな風が吹き抜ける開墾地には、昨日と変わらぬ活気が満ちていた。
巨大な切り株の根を軽々と掘り起こし、汗を拭ったクリスは、ふと自宅の方角を振り返る。
(……やっぱり、少し気になるな)
いつもと変わらぬ優しい笑顔で見送ってくれた母だが、朝食の最中、ほんの一瞬だけ辛そうに胸元を押さえていた。クリスが尋ねても「なんでもないわ、少し冷えただけ」と笑っていたが、どうにも胸騒ぎが消えない。
「……よし! トト、ちょっと家に戻ってみよう」
「え〜? まだお昼ご飯の時間じゃないよ、クリス? お腹減ってないよ?」
「いいから付き合えって」
作業の合間の休憩時間を利用し、クリスは自宅へと向かった。常人の何倍もの脚力を持つクリスが本気で走れば、開墾地から村外れの自宅までなどほんの数分だ。
「母さん、ただいま! ちょっと忘れ物しちゃって——」
元気よく木扉を開け、土間へと踏み込んだクリスは、その場に凍りついた。
「くっ……あ……っ……!!」
リビングの床に、母アラが崩れ落ちていた。
倒れた身体を必死に支えようと壁に手をかけているが、力が入らず、激しく肩を揺らして呼吸を乱している。
「母さん!!」
クリスは駆け寄り、倒れ込むアラの身体を慌てて抱き起こした。
手に触れた瞬間、尋常ではない熱がクリスの手のひらを襲う。服の上からでもはっきりと伝わってくる、灼熱の鉄に触れたかのような狂おしい高熱だ。
「あ……ぐ……っ、クリ……ス……? なんで……戻って……」
「なに言ってるんだよ! 一体どうしたんだ、急に!? 顔色が真っ青じゃないか!」
アラはクリスに心配をかけまいと必死に笑おうとするが、激しい痛みに顔を歪め、言葉を続けることすらできない。
「ひっ……! なにこれ、なにこれクリス!?」
遅れて部屋に飛んできたトトが、悲鳴を上げた。
アラの苦しそうな身振りに合わせて乱れた着物の胸元から、白く細い肌があらわになっていた。アラの胸元——左胸の心臓の上のあたりに、昨夜は影も形もなかった『小さな青白い幾何学模様の紋様』が浮かび上がり、不気味に淡い光を放ちながら明滅していたのだ。
さらにトトは、青ざめた顔で自分の鼻をぎゅっと押さえた。
「う、うそ……アラから、クリスと同じ『あの甘くて不思議な匂い』がする……! でも、すごく刺さるみたいで嫌な匂い! アラの身体を内側から焼き焦がしてるみたいな匂いだよ!!」
「そんな……! 母さん、ちょっと待ってて! すぐに先生を連れてくるから!!」
クリスはアラを慎重にベッドへ寝かせると、弾かれたように家を飛び出した。
◇
「頼む、先生! 母さんを診てくれ!!」
村で唯一の医者である老医師の腕を引っ張り、クリスは息を切らせて自宅へと戻ってきた。
老医師はゼーゼーと息を乱しながらも、クリスの必死な様相に事態の重さを察し、すぐに鞄を開いてベッドのアラのもとへ向かった。
「アラさん、聞こえるか? どこが痛む……む、これは……」
アラの額に手を当て、手首の脈を測る老医師。だが次の瞬間、胸元に浮かび上がる青白く光る幾何学模様を目にした途端、老医師の表情が凍りついた。
「これは……いったい何じゃ……! 脈が支離滅裂に跳ね上がっておる。いや、それだけではない……身体の奥底で、恐ろしいほどの熱とエネルギーが渦巻いておるぞ……!」
「先生、母さんは!? 急にこんな風に苦しみ出して……なんの病気なんだ!?」
詰め寄るクリスに対し、老医師は険しい顔で首を横に振り、アラの顔を痛ましそうに見つめた。
「……いや、クリス。これは『急に発症した』のではない」
「え……?」
老医師はアラの乱れた息遣いと、青白い紋様をじっくりと観察しながら静かに語った。
「肌の乾き具合といい、脈の乱れ方といい……この異常な熱は、昨日今日で急に生まれたものじゃない。彼女の身体の奥深くで、何ヶ月も……いや、もっと前から静かに、だが確実に蝕み続けていたものじゃ。アラさんは……お前に心配をかけまいと、この激痛をずっと一人で我慢しておったのじゃな」
「母さんが……ずっと……!?」
クリスは絶句した。
毎晩、笑顔で美味しいスープを作ってくれていた母。昨日も見ぬ父の思い出を優しく語ってくれていた母。その裏で、母はクリスに悟られまいと、どれほどの苦痛を耐え忍んでいたのだろうか。
「先生、薬はあるんだろ!? 熱を下げる薬とか、痛みを止める薬草とか!」
「……試してみるが、気休めにもならんかもしれん」
老医師は悲痛な面持ちで首を振った。
「はっきり言って、これはワシの知るどんな病とも違う。まるで……彼女の華奢な肉体が、内側から溢れ出す強大な力に耐えきれず、じわじわと焼き切られようとしているかのようだ。幸いにも、今はまだ左胸の一部に小さな紋様が出ている段階じゃ。だが……このまま病状が進行し、紋様が全身に広がってしまえば、命の保証はない」
「そんな……っ! あとどれくらい持つのだ!?」
「彼女の体力がどこまで持つか、そしてこの異常な熱の広がり次第じゃな……。我慢強い彼女のことだ、数ヶ月、あるいは半年ほどは持ちこたえるかもしれん。……だが、人間の医術やそこらの薬草では、進行を遅らせるのが関の山じゃろう。根本的な治療法は、ワシには皆目見当もつかん……」
老医師は重い溜め息をつき、頭を下げた。
「嘘だろ……母さん……」
静まり返った部屋。
ベッドの上で、荒い息を吐きながら苦しみに耐える母。左胸の青白い紋様は、まるでアラの生命力を少しずつ喰らい尽くすかのように、静かに、そして絶え間なく明滅を繰り返していた。
「あ……く……っ……クリ……ス……」
薄く目を開けたアラが、震える手を弱々しく持ち上げる。
クリスはその手を両手で強く握りしめた。いつも温かく自分を包み込んでくれた母の手は、今は狂おしいほど熱く、そして儚いほどに小さかった。
「母さん……なんで言わなかったんだよ……っ! ずっと一人で苦しかったろ……!?」
「ごめん……ね、クリス……。あなたの……笑顔を、消したく……なくて……」
弱り切った声で、それでもクリスを気遣う母。
握りしめたクリスの拳から、ミシッ……と骨の軋む音が鳴る。
(治す方法がない……? 医者でもわからない……!? そんなので母さんを死なせてたまるか!)
自分の無力さへの悔しさと、母を襲う理不尽な運命に対する激しい憤りが、十五の少年の胸の中で黒く燃え上がり始めていた。




