第2話:名もなき旅人の面影
「ごちそうさまでした!」
クリスが木皿を綺麗に空けると、トトも自分のお腹をポンポンと叩いて満足そうに息を吐いた。
「ふは〜っ、美味しかった! アラのご飯を食べると、体の中まで温かくなるねぇ」
「トト、口のまわりにシチューがついてるぞ」
クリスが指先でトトの頬を拭ってやると、トトは嬉しそうに目を細めた。アラは二人のやり取りを微笑ましく見つめながら、手際よく木皿を下げていく。
食後の静かな時間が訪れた。
開拓村の夜は早い。窓の外からは、冷たい夜風が木々を揺らす音と、遠くで鳴く夜鳥の声だけが聞こえてくる。暖炉の薪がパチパチと爆ぜる音を聞きながら、クリスはふと、前々から胸に引っかかっていた『疑問』を口にしてみることにした。
「ねえ、母さん……俺の父親って、どんな人だったの?」
アラの手が、水桶の上でピタリと止まった。
これまでも何度か聞いたことはあったが、幼かったクリスにアラは「大きくなったらね」と笑って誤魔化すだけだった。しかし、十五を過ぎ、村一番の働き手として大人顔負けの身体つきになったクリスを見て、アラは愛おしそうに目を細めた。
「そうね……クリスももう立派な大人だものね。話してあげようかしら」
アラは布巾で手を拭うと、暖炉の前の椅子に腰掛け、膝の上で静かに手を組んだ。どこか遠い目をして、懐かしい記憶の糸をたぐるように語り始める。
「昔……まだ私が今よりずっと若くて、毎日のように山へ狩りに入っていた頃のことよ。深い森の奥で、恐ろしい魔獣に襲われてしまってね。もう駄目かと思ったその時、一人の『旅人』が私を助けてくれたの」
「母さんが……助けられた?」
「ええ。身なりは風来坊のようだったけれど、言葉では言い表せないほど綺麗で、堂々としたお方だったわ。驚いたことに、襲いかかってきた巨大な魔獣を、その人は一回の手振りだけで吹き飛ばしてしまったのよ」
アラの唇に、温かな笑みが浮かぶ。
「助けていただいたお礼にと、私は自分の狩人小屋へお招きして、精いっぱいの料理でもてなしたの。そうしたら……その人は私の作ったご飯をとても気に入ってくださってね。そのまま半年から一年近く、ずっと山の小屋で一緒に暮らすようになったのよ」
「一年も……!?」
クリスは驚いて身を乗り出した。それほど長い間、母と共に生活していた男。それこそが、間違いなく自分に血を与えた父親だ。
「ええ。その人は自分の名前すら語らなかったの。『名乗るほどの者ではない』って。でも、とっても優しくて、立ち振る舞いには気品があって……一緒にいるだけで、まるで全身が温かな光で包まれるような、不思議な人だったわ」
狩りや薪割りを助けてもらいながら、四季の移ろいを共に過ごした日々。言葉数は少なかったが、彼が見せる穏やかな眼差しと包み込むような包容力に、アラは深く惹かれていった。
「でも……あなたが私の身体に宿り、もうすぐ生まれるという季節になったある朝。あのお方は黙っていなくなってしまったの。引き止める隙も与えずに、まるで煙のように消えてしまった。あとに残されていたのは、これだけだったわ」
そう言って、アラは首元から一筋の革紐を引き抜いた。
その先についていたのは、古びた、けれど不思議な光沢を放つ金属製のペンダントだった。複雑な雷の意匠が刻まれた聖印のようなものだ。
「……名前も、どこから来たのかも分からないまま。でも私、後悔は一度だってしていないわ。だってあのお方は、私に……世界で一番大切なクリスを授けてくれたんだもの」
アラはペンダントを愛おしそうに撫で、クリスの顔を見つめた。
「あなたのその強い力も、真っ直ぐな心も……きっと、あの素敵な父親から譲り受けたものなのよ」
母親の純粋な愛と、見ぬ父親への想いを聞き、クリスはどこか誇らしく、胸が熱くなるのを感じていた。
——だが、その時だった。
「んんっ……!? なにこれ……!?」
それまでクリスの肩でウトウトしていたトトが、突然飛び起きた。
小さな羽を激しく羽ばたかせ、トトはアラの首元に下がっているペンダントへ吸い寄せられるように急接近する。
「トト? 急にどうしたの?」
「これ……これすごいよ、アラ!!」
トトは目を丸くし、ペンダントの周囲をグルグルと飛び回った。
「このペンダント、すっごく神秘的な感じがする! クリスから漂う『甘くて美味しそうな匂い』と、まったく同じ匂いがビンビン漂ってるよ!!」
「クリスと同じ匂い……?」
クリスとアラは顔を見合わせた。
トトはいつもクリスのことを「美味しそうな甘い匂い」と表現していたが、まさかその匂いが母親の持っているペンダントと同じだとは思ってもみなかった。
「トト、それってどういう意味だ? 俺の父親が持ってたものだから、同じ匂いがするのか?」
「そこまでは僕にも分かんない! でも、普通の人間が持ってるモノからは、絶対にこんな匂いしないよ! なんというか……すっごく特別で、とびきり綺麗で、吸い込まれそうな匂いなんだもん!」
トトはペンダントに抱きつこうとしたが、ペンダントからかすかに弾けるようなパチッという静電気(微細な雷気)が走り、「痛っ!」と手を引っ込めた。
「もう……トトちゃんたら、お話に夢中になりすぎて空想が膨らんじゃったのね」
アラはトトの言葉を少女の戯言のように受け止め、くすくすと優しく笑った。
「あのお方は確かに不思議な力を持った人だったけれど、そんな大層なものじゃないわ。ただの、少し風変わりで男前な旅人さんよ」
「本当なんだってばぁ〜! クリスと同じで、すっごく神秘的なんだから!」とトトが頬を膨らませて抗議するが、アラは「はいはい」となだめ、ペンダントを服の中にしまった。
クリスもまた、トトの言葉を不思議に思いながらも胸に受け止めていた。
(俺と同じ、神秘的な匂い……。父親は、一体どんな人だったんだろう)
もし父親がただの旅人ではないのだとしたら。
自分の中に流れるこの規格外の「力」の正体は何なのだろうか。
暖炉の火が静かに揺らぎ、部屋の温度が少しだけ下がったような気がした。
「さあ、夜も更けてきたわ。クリス、明日も早いのでしょう? もう休みなさい」
「……うん。おやすみ、母さん」
部屋へ戻るクリスの背中を、アラはいつもの温かな目で見送った。
だが、クリスが立ち去ったあと——アラは不意に胸を強く押さえ、小さな苦悶の声を漏らした。
「くっ……!?」
激しい動悸と、胸の奥を灼熱の鉄で焼かれるような激痛。
服を少し胸元から浮かせると、アラの肌には——目立たぬほど小さな、けれど蒼白く不気味に発光する『謎の紋様』が、静かに浮かび上がり始めていた。
それに気づく者は、まだ誰もいなかった。




