一条遥人の告白
5.一条遥人の告白
遥人の救出を前にして、私はどう反応すればいいのかわからなかった。
彼はこの物語では間違いなく善人だ。けれど、私と蒼真が唯花に見せるため芝居をしていると知れば、彼の反応は読めない。
自分だけが笑われていたように感じるかもしれない。何より、その情報が唯花に伝われば、ここ数日の芝居はすべて無駄になる。
結局、私は車を降りて遥人について行くことを選んだ。
一条家の別邸は東都近郊にあった。鷹宮家のような圧迫感はなく、小さな美術館のように静かだった。廊下には風景画がかかり、空気には淡い木の香りが漂っている。
遥人は私を客室へ案内し、やわらかな声で言った。
「寧々、蒼真が本当に君を旧市街へ送ろうとしたのなら、もう彼にこだわる必要はない。しばらくここにいればいい」
私は見知らぬ部屋を見回し、ひとつ気になっていたことを尋ねた。
「遥人、どうして私が連れ出されたってわかったの?」
遥人は隠さなかった。
「連絡してきたのは、鷹宮家に入ったばかりのハウスキーパーだ」
私は目を瞬いた。
彼は少し疲れた顔で、私を見た。
「彼女は昔、早瀬家に助けられたことがあるそうだ。君が鷹宮家でつらい立場にいることも知っていた。泣きながら車へ押し込まれていたと聞いて、放っておけなかった」
その目を見て、胸が痛んだ。
私は原作の早瀬寧々ではない。けれど、遥人が彼女を本当に大切に思っていたことはわかる。原作の寧々は優しすぎて、拒むのが下手だった。彼の好意を受け取り続けながら、最後まで同じ愛で返すことはできなかった。
だから遥人は、何年も待ち続けたのだ。
私は彼を、その道へ戻したくなかった。
顔を上げ、まっすぐ見つめた。
「遥人、ありがとう。でも、もうそこまで私のためにしなくていい」
彼の表情がこわばった。
私は視線を逸らさなかった。
「あなたには、もっとふさわしい人がいる。ちゃんとあなたを選んでくれる人が」
部屋は静まり返った。
長い沈黙のあと、彼はようやく薄く笑った。
「わかった」
その笑みは優しかった。けれど、少しだけ痛みを含んでいた。
胸は苦しかった。
それでも、こういう言葉は早いほうがいい。曖昧な優しさは、人をさらに深い執着へ引きずり込んでしまう。
遥人は私の気持ちを理解してくれた。
それでも、すぐ帰すことだけは譲らなかった。本当に旧市街へ送られるわけではないと確認できるまで、安心できないらしい。
計画をばらすわけにもいかず、私は数日ここにいることを受け入れた。蒼真が唯花をうまく抑え、流出した資産を戻す形を作れれば、きっとすぐ帰れる。
ところがその夜、部屋のバルコニーのガラス扉が、控えめに叩かれた。
私は心臓が跳ね上がり、枕元のランプをつかんだ。
「誰? 強盗なら言っておくけど、私、お金なんて持ってないから」
恐る恐る近づくと、外のテラスに立っていたのは蒼真だった。
彼は勝手に鍵を開けようとはせず、ガラス越しに小さく口を動かした。
「寧々、開けて」
私は思わず額を押さえた。
どうしてこの人は、名門別邸のバルコニーに当然のように立っているのだろう。
文句を言いながら鍵を開けた瞬間、彼は中へ入ってきて私を抱きしめた。私は反射的に身をよじり、持っていたランプを落としかける。
危ないと思った蒼真が私の手首を押さえた。
その瞬間、私は反射的に一番危険な場所をつかんでいた。
蒼真が息を飲み、低くうめいた。
「またうちを絶やす気か」
私は慌てて振り返った。
蒼真は腰をかがめ、恨めしそうに私を見ていた。
「ごめん、本当にごめん。だって、こんな時間にバルコニーに立っているほうが悪い」
蒼真は怨念のこもった目でこちらを見る。
「会いたかったんだ。計画に響くから、表から来るわけにいかなかった」
彼はベッドの端に座り、しばらくしてからようやく息を整えた。
「もうすぐ終わる。すぐ迎えに来る」
私は計画の詳細を聞こうとした。けれど、彼の顔色が本当に悪かったので、それどころではなくなった。
怪我をしていないか確かめようと手を伸ばすと、途中でつかまれた。
「そんなに心配?」
顔が一気に熱くなる。
「本当に怪我していないか見ようとしただけ」
蒼真は笑った。
私の手を引き寄せ、指先へ唇を触れさせる。声はひどく甘かった。
「大丈夫。そう簡単には壊れない」
私は腹立ちまぎれに彼を叩いた。
「不真面目」
彼はその手を絡め取り、もう片方の腕で腰を抱いて、私を柔らかな布団の中へ押し込んだ。
「不真面目って言ったのは、お前だろ」
唇が落ちてくる直前、声が低くかすれた。
「じゃあ、少しくらいそうさせてくれ」
その夜、私はほとんど眠れなかった。
夜明け前、蒼真はバルコニーから帰っていった。
私は布団にくるまったまま、その背中を見送った。あれだけ夜中に会いに来て、また平然とテラスから戻っていくなんて、体力がおかしい。
朝になると、ハウスキーパーが食事の支度を知らせに来た。
意外にも、遥人の姿はなかった。
夜になっても、彼は現れなかった。
原作なら、寧々がいる間、遥人は少しでもそばにいようとしたはずだ。今、彼があえて距離を取っているのは、昨夜の私の言葉を受け止めたからなのだろう。
申し訳なさはあった。
けれど、きっとそのほうがいい。
遥人には、本当に彼を選ぶ人が必要だ。原作で最後まで応えられなかった寧々でもなく、ましてこの世界へ入り込んだだけの私でもない。
翌日、遥人がようやく姿を見せた。
相変わらず優しい目をしていたが、以前のような、傷つきやすい期待は薄くなっていた。
私が何か言おうとした時、リビングの入口から足音が聞こえた。
鷹宮蒼真が入ってきた。
驚いて顔を上げる。
こんなに堂々と来たということは、もう事態が動いたのだ。
蒼真は私の前まで来て、やわらかく目を細めた。
「寧々、迎えに来た」
遥人が隣で静かに笑った。
「彼から計画を聞いた。鷹宮ホールディングスから流出した資産は、回収に向かっている。白鳥グループの主力子会社も、買収手続きに入ったそうだ。彼が君を傷つけるために芝居をしていたわけじゃないなら、俺は祝福するよ」
胸がきゅっと痛んだ。
私は彼の前へ歩き、そっと抱きしめた。
「遥人、ありがとう。あなたにも、ちゃんと幸せになってほしい」
遥人の身体が一瞬だけ強張った。
それから、彼は静かに抱き返してくれた。
「うん」
低い声だった。
「今度こそ、前に進むよ」
6.白鳥家が奪ったもの
一条家を出て、私と蒼真は車に乗った。
門を出るなり、彼は後部座席と運転席の仕切りを上げた。次の瞬間、私はシートに押しつけられる。
彼の息が頬にかかった。少し理不尽な嫉妬の色がある。
「さっき、ほかの男を抱きしめた」
私は慌てて説明した。
「あれは別れの挨拶。ちゃんと断ったでしょ」
蒼真は離れなかった。
顔を私の首元へ埋め、拗ねたような声を出す。
「関係ない。補償が必要だ」
その子どもじみた様子に笑ってしまい、私は彼へ軽く口づけた。
「これでいい?」
「足りない」
もう一度、口づける。
「これなら?」
「まだ足りない」
さらにもう一度。
「蒼真、いい加減にして」
ようやく顔を上げた彼は、私の後頭部を押さえ、強く口づけてきた。
その瞬間、ひどく安心した。
この世界がどれほど馬鹿げていても、彼だけは私のそばにいる。
後になって、蒼真がこの数日で何をしていたのかを知った。
彼は唯花に心が傾いたふりをし、白鳥家の前では海外事業の拡大を急いでいるように見せた。唯花は自分が勝ったと思い込み、私よりも役に立てると証明したがった。
彼女は白鳥グループの関連会社を説得し、「海外事業への投資支援」という名目で、過去に流出した資産の一部を鷹宮ホールディングスへ戻す契約を進めさせた。
もちろん、唯花一人で動かせる金ではなかった。
彼女は唯一の決裁者ではない。けれど、白鳥家の中でその話を推し進めた人物だった。蒼真が本当に欲しかったのは、戻ってくる資産だけではない。白鳥グループが自ら書面と資金の流れを残すことだった。
同時に、蒼真は顧問弁護士と公認会計士に証拠を整理させていた。
その後の二週間、鷹宮ホールディングスの弁護士チームと会計士は、何度も本社へ出入りした。白鳥グループが関連会社を通じて資産を移していた証拠は、取締役会と外部アドバイザーへ順に提出された。
鷹宮ホールディングスは、すぐには表立って白鳥家と決裂しなかった。
まず資金の流れを確認し、民事上の請求と社内の責任調査を始めた。白鳥グループが異変に気づいた時には、奪った資産に頼っていた資金繰りが崩れ始めていた。
一か月後、鷹宮ホールディングスは正式な手続きに基づき、白鳥グループの最も重要な子会社を取得した。
唯花がすべてを理解した時には、もう遅かった。
彼女は白鳥家から責任を押しつけられ、丁寧に作り上げてきた可憐な令嬢の顔を失った。原作で寧々を陥れるために使っていた証拠や嘘も、ひとつずつ表に出された。
蒼真は、もう彼女に会わなかった。
鷹宮家を出されるその日、唯花はようやく、自分が最初から盤上にいたことに気づいたのだろう。
けれど、すべての後悔が、結末を変えてくれるわけではない。
原作で彼女が寧々にしたことは、今度はすべて自分へ返ってきた。
唯花は、決して特別に賢い女ではなかった。
原作で彼女が勝てたのは、男主人公が何も見えておらず、原作の寧々があまりにも耐えすぎたからだ。二人の心が揃っていなかったから、白鳥家は鷹宮家を少しずつ飲み込む隙を得た。
けれど今は違う。
私と蒼真は、最初から同じ側にいた。
彼がどれほど冷酷な御曹司を演じていても、本当に守っていたのは、ずっと私だった。
7.悲劇の結末を書き換えた日
半年後、白鳥唯花がまた鷹宮家の門前に現れた。
その日、私は温室で日向ぼっこをしていた。すると警備員から、門の前で女性が騒いでいると報告が入った。
窓辺へ行くと、唯花が皺だらけのコートを着て、髪を乱したまま門を叩いていた。
「蒼真は私のものよ。出てきて!」
声は甲高く、かつての可憐な令嬢の面影はなかった。
警備員は彼女に触れず、すぐ警察へ通報した。
しばらくして、巡回中の警察官と救急隊員が到着した。唯花は門を叩き続け、感情の揺れが激しかったため、そのまま病院で診察を受けることになった。
私は彼女に同情しなかった。
原作で、彼女が早瀬寧々にしたことを覚えているからだ。
泥の中へ落ちた人すべてに、手を差し伸べる必要はない。
一条遥人は、その後結婚した。
相手は一条家と家柄の釣り合う女性で、穏やかな性格らしい。クラシック音楽が好きで、二人は派手な恋ではないけれど、とてもよく合っていると聞いた。
招待状を受け取った時、私は長いこと眺めてしまった。
蒼真は隣で、それを少し不満そうに見ていた。
「行くのか?」
私はうなずいた。
「もちろん。彼が前へ進めたなら、嬉しい」
蒼真は数秒黙り、私の腰へ腕を回した。
「じゃあ、俺も行く」
私は彼を見た。
「何をしに?」
「牽制」
思わず笑ってしまった。
「子どもみたい」
彼は額へ口づけた。
「お前にだけだ」
遥人の結婚式は、穏やかで温かかった。
私を見た彼は、以前よりずっと晴れやかに笑った。隣に立つ花嫁の目には、やわらかな光があった。その瞬間、彼が本当に原作の長い片思いから抜け出したのだとわかった。
よかった。
誰にでも、自分の結末があっていい。
すべてが落ち着いてから、私と蒼真は現実世界へ戻る方法を探し始めた。
神社へも行ったし、そういう話に詳しいという人にも会った。物語世界への転移に関係しそうな場所も、片端から調べた。
けれど、何をしても戻れなかった。
最初は、少しだけ寂しかった。
現実世界にも、私たちが生きてきた日々があった。二人で借りた小さな部屋、深夜残業の帰りに食べたコンビニのおにぎり、週末にソファで並んで見たくだらないドラマ。
それでも、少しずつ受け入れられるようになった。
私と蒼真は、どちらも児童養護施設で育った。親もなく、現実世界に強く引き留めてくれる家族もいなかった。
結局、私たちにとっていちばん大切なつながりは、最初から互いだけだった。
今も、私たちは一緒にいる。
それで十分だった。
この世界に残るしかないとわかってから、私たちはここでちゃんと生きていくことにした。
鷹宮ホールディングスには専門のチームがあり、蒼真は大きな方針だけを押さえていればいい。私も、自分が原作のヒロインなのかどうかを考えすぎるのをやめ、早瀬寧々として新しく生き始めた。
私たちは重苦しい鷹宮家の本邸を離れ、東都湾岸のタワーマンションへ移った。
大きな窓からは、夜になると港区の灯りが一望できる。蒼真は私のために書斎を用意し、壁一面に漫画と小説を並べてくれた。
彼は、戻れないなら戻れないで、ここで無理をしない生活をしようと言った。
私は尋ねた。
「鷹宮ホールディングスの代表が、そんなことを言っていいの?」
蒼真はソファにもたれ、私を腕の中へ引き寄せた。
「俺が働くのは、奥さんに楽をさせるためだろ」
私は笑いすぎて、彼の胸に顔を埋めた。
それからも、私たちは時々、原作の物語を思い出した。
もし私が来なかったら、早瀬寧々は唯花に陥れられ、蒼真に誤解され、遥人の深すぎる愛にも押しつぶされて、最後には自分の人生まで失っていた。
もし蒼真が来なかったら、原作の男主人公は白鳥家に利用され、本当に大切にすべき人を自分の手で傷つけていただろう。
けれど今は、何もかも違う。
唯花は、もう誰かを踏みつける舞台を失った。
遥人は、自分の幸せを見つけた。
蒼真は、何も見えない悲劇の男主人公にはならなかった。
そして私も、泣いて耐えるだけのヒロインにはならなかった。
私と夫は、悲劇ヒロインものの恋愛小説に入り込んだ。
そして、あの悲劇の結末を、私たち自身の手で書き換えた。
――完――




