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夫婦で悲劇ヒロイン小説に転移したら、夫が冷酷な御曹司を演じながら私を溺愛してきました  作者: 熾星


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夫婦で悲劇ヒロイン小説に転移したら、夫が冷酷な御曹司を演じながら私を溺愛してきました



導入



 悲劇ヒロインものの恋愛小説に入り込んで、まだ五分も経っていなかった。


 私はもう、この物語に出てくる旧財閥系の御曹司が、どれほど理不尽な男なのかを思い知らされていた。


 彼の幼なじみである白鳥唯花が、ほんの小さく咳をしただけで、彼は冷たい顔で私を見た。さっき私がくしゃみをしたせいで風が起き、唯花が冷えたのだと言うのだ。


 そして警備員に命じ、私を旧館の地下倉庫へ連れて行かせた。そこで一晩、鼠と一緒に反省しろ、ということらしい。


 けれど扉が閉まった瞬間、私はその場で固まった。


 地下倉庫には湿気も寒さも、もちろん鼠もいなかった。床には厚い絨毯が敷かれ、暖房は温泉旅館みたいに効いていて、隅には新品のパジャマとホットココアまで置かれていた。


 翌日、唯花が何もない床で転んだ。


 すると今度は、私がそこに立っていたせいで彼女の邪魔になったと言われた。部屋へ連れて行き、自分の手で罰を与える、と彼は言った。


 私は本気で疑い始めた。


 この原作の男主人公、精神的に大丈夫なのだろうか。


 けれど部屋の扉が閉まった途端、彼は私を腕の中へ引き寄せた。耳元で低く笑う声は、ひどく聞き覚えがあった。


「寧々、大丈夫」


「これは、あいつらに見せるための芝居だ」


「あいつらが自分で掘った穴に落ちるところを、俺が見せてやる」




1.旧館の地下倉庫



 目を開けた瞬間、私は鷹宮家の別邸前に広がる雪の上に倒れていた。


 冷たい風が頬を刺して、まだ状況を飲み込めないうちに、目の前には黒いロングコートを着た男が立っていた。整った顔立ちは冷たく、切れ長の目は鋭い。この悲劇ヒロインものの恋愛小説に登場する男主人公、鷹宮蒼真だった。


 鷹宮家は、東都でも知られた旧財閥系の名家だ。鷹宮ホールディングスを押さえる一族であり、原作の蒼真は、幼なじみと白鳥家に振り回された末、妻の人生を自分の手で壊してしまう危うい後継者だった。


 彼の隣には、白いカシミヤのコートを着た女が立っていた。目元を赤くし、蒼真の袖をつかんで軽く揺らしている。原作で、か弱いふりをしながら何度もヒロインを追い詰める幼なじみ、白鳥唯花だ。


「蒼真、寧々が私を階段から突き落としたの。見て、膝を擦りむいちゃった」


 胸の奥が冷えた。


 原作では、唯花が自分で階段のそばから転び、その責任を原作ヒロインである早瀬寧々に押しつける。蒼真は彼女の言葉だけを信じ、妻を悪女だと決めつけ、旧館の地下倉庫へ一晩閉じ込めるのだ。


 その夜、地下倉庫の暖房はわざと切られていた。原作の寧々は凍えるほど寒い場所で一夜を過ごし、高熱を出す。


 その場面がもうすぐ自分の身に起きるのだと思った瞬間、私は雪の上から起き上がった。


「私じゃありません。これだけ大きな別邸なら、防犯カメラくらいあるでしょう? 映像を確認すればわかるはずです」


 唯花の表情が、ほんの一瞬だけこわばった。


 そこで私は気づいた。原作の寧々は、いつも何も言えなかった。うつむいて、すべての汚名を黙って受け入れてしまう。だからこそ、何度も唯花に泥の中へ引きずり込まれたのだ。


 けれど、私は違う。


 現実世界の私は、広告会社で働くただの下っ端社員だった。企画書、修正、深夜メールに追い回される毎日で、黙って耐えることにはもう飽き飽きしていた。


 唯花はすぐにか弱い表情を取り戻し、目尻を赤くした。


「防犯カメラは前から壊れているの。映像が残っていないってわかっているから、こんなことが言えるんだわ」


 蒼真の顔色が、すっと沈んだ。


 彼の視線は、雪よりも冷たかった。


「旧館の地下倉庫へ連れて行け」


 もう少し言い返そうとした時には、警備員たちが私の腕を取っていた。


 引きずられながら、私は思わず蒼真を振り返った。雪の中に立つ彼は、まるで原作で読んだ通りの、感情の読めない旧財閥系の後継者に見えた。


 地下倉庫の扉が閉まった瞬間、私はつい声を荒らげた。


「鷹宮蒼真、最低な夫ね」


 そう吐き捨ててから、私は奥へ歩いた。


 次の瞬間、足が止まった。


 旧館の地下倉庫は、想像していたような湿っぽく冷たい場所ではなかった。床には淡い色の厚い絨毯が敷かれ、隅にはふかふかの羽毛布団が置かれている。暖房はしっかり効いていて、空気にはかすかにホットココアの甘い香りまで漂っていた。


 私はその場に立ち尽くした。


 原作でも、ここには暖房があった。けれど蒼真は寧々を罰するため、わざと暖房を切らせたはずだ。今は切れていないどころか、温泉旅館の部屋みたいに暖かい。


 しゃがみ込んで絨毯に触れると、指先がふわふわと沈んだ。


「まさか、暖房を切り忘れたの?」


 考えれば考えるほど妙で、思わず笑ってしまった。


 罰として連れてこられた場所がこんなに快適なら、ありがたく受け入れるしかない。小説世界に入った初日から暖かい部屋で眠れるなら、不幸中の幸いというものだ。


 布団にくるまった時、ひとつだけ残念だったのはパジャマがないことだった。


 私は子どもの頃から、パジャマを着て寝る習慣があった。ないと落ち着かない。けれど暖房と布団があるだけでも、悲劇ヒロインとしては十分に待遇が改善されている。


 そう思った瞬間、扉が開いた。


 黒いスーツを着た警備員が入ってきて、新品のパジャマをそばに置いた。そして、何も言わずに退室した。


 私はそのパジャマを長いこと見つめた。


 この世界には、願望を叶えるシステムでもついているのだろうか。




 翌朝、私は警備員に起こされた。


 あまりにもよく眠っていたせいで、目を開けた時はまだぼんやりしていた。警備員は余計なことを言わず、私の髪をわざと乱し、昨日の服に着替えるよう促した。


 状況を飲み込む前に、私は主屋へ連れて行かれた。


 唯花はリビングのソファに座り、目元を赤くしていた。まるで一晩中、私の罰の結果を待っていたかのようだ。蒼真は彼女のそばに立ち、冷たい表情を崩さなかった。


 彼は私を見て、低い声で告げた。


「唯花、反省はさせた。見ろ、顔色も悪い」


 私は危うく笑いそうになった。


 顔色が悪いのは、寝起きで化粧もしていないからだ。罰と言っても、暖房の効いた部屋でぐっすり眠っただけである。


 とうとう我慢できず、私は小さく吹き出した。


 唯花の顔色が、みるみる変わった。


「何がおかしいの? 平気なふりをして可哀想な自分を演じるつもり? そういう手口、私には通じないから」


 彼女は立ち上がり、私へ手を上げた。


 けれどその手が落ちる前に、蒼真が彼女の手首をつかんだ。


 唯花の瞳に、動揺が走った。すぐに彼を見上げて、痛々しいほど震える声を出す。


「蒼真、私より寧々をかばうの?」


 蒼真は短く笑った。


「かばう?」


 彼は唯花の手を離し、私へ近づいてきた。


「俺が直接、罰を与える」


 私は反射的に拳を握った。


 ここが彼の屋敷だとしても、黙って殴られる気はない。もし手を出してくるなら、せめて一発は返してやる。


 けれど、想像していた平手打ちは来なかった。


 蒼真は身を屈め、私をひょいと抱き上げた。


 私は全身が固まった。彼は唯花を振り返り、冷えた声で言った。


「今から上で、きっちり罰を与えてくる」




2.この夫、どこかおかしい



 上階の部屋へ着くと、蒼真は私をベッドの上に下ろした。


 彼はベッド脇に立ち、見下ろすように私を見ている。顔は嵐の前の空みたいに暗かった。頭の中に、悲劇ヒロインものの男主人公が妻を苦しめる場面が次々と浮かび、私は一瞬で身の危険を感じた。


 彼が近づくたびに、私はベッドの上を後ろへ下がった。


「待って。言う、何でも言うから。それで許してくれない?」


 蒼真の足が止まった。


 次の瞬間、彼は笑った。


 嘲るような笑いではなかった。どこか懐かしく、甘やかすような目だった。


「相変わらず、その情けない顔をするんだな」


 私は固まった。


 その言い方は、あまりにも妙だった。


 原作の蒼真が、そんな言い方をするはずがない。原作の寧々は我慢強く、意地でも泣き言を言わない人だった。怯えているくせに口だけは強い私のことを、こんなふうにからかうのは、現実の夫くらいしかいない。


 考えがまとまる前に、蒼真が身を屈めた。腕が腰に回され、唇の端へ軽く口づけられる。


 私は頭の中が爆発した。


 この男、何をしているのだ。


 次の瞬間、私は迷わず膝を上げた。


 部屋に、蒼真の悲鳴が響いた。


 彼は下腹部を押さえて身を折り、顔を歪めた。


「本気でうちを絶やすつもりか」


 私はソファのそばへ転がるように逃げ、いつでも戦える姿勢を取った。


「絶えればいいでしょう。あなたみたいな人、子孫なんて残さないほうがいい」


 言い切ってから、急に怖くなった。


 ここは鷹宮家の別邸で、私は原作ヒロインの身体を借りている。もし本当に蒼真を怒らせたら、原作の運命を変える前に、この身体を危険にさらしてしまうかもしれない。


 怖くなるほど、逃げ道を探す目が落ち着かなくなった。


 ちょうどバルコニーの扉が開いている。


 私は何も考えずに走った。


 指が扉の枠に触れた瞬間、背後から腰を抱きとめられた。蒼真の力は強く、私はほとんど引きずり戻されるようにして彼の腕の中に戻った。


「正気か」


 噛みしめるような声だった。


 私は両手で彼の胸を押し返し、堂々と睨み返した。


「あなたがそんなに怖い顔をしているから、逃げようとしたんでしょう」


 蒼真は一瞬、黙った。


 怒鳴られると思ったのに、彼は何も言わず扉へ向かった。


 部屋を出る直前、彼は振り返った。


「支度して、寧々。今夜はチャリティーレセプションに行く」


 私はその場で動けなくなった。


 寧々。


 その呼び方自体はおかしくない。けれど、さっきの声の温度が、どうしても原作の蒼真らしくなかった。


 扉が閉まってから、私はベッドの端に座ったまま、しばらく動けなかった。


 この旧財閥系の後継者、やっぱりどこかおかしい。




 その夜、レセプションは東都の会員制ホテルで開かれた。


 当然のように、唯花もいた。


 彼女は淡いピンクのドレスを着て、蒼真の隣に立っていた。温室で大切に育てられた花のように見えるのに、私を見る目は砂糖をまぶした刃物みたいだった。


「あなたみたいな人が、こういう場に来るなんて。会場が汚れるわ」


 もともと機嫌がよくなかった私は、思わず口角を引きつらせた。


「入口にペット同伴不可って書いてあったのに、どうしてここで吠えている人がいるの?」


 唯花の顔色が変わった。


 言い返せなくなると、彼女はすぐ蒼真の袖を引き、いかにも傷ついたように寄り添った。


 私は彼女の芝居を見る気にもなれず、デザートコーナーへ向かった。


 現実の私は社畜だった。食べられる時に食べる。それが生きる知恵だ。あざとい幼なじみに時間を使うより、好物のマンゴームースがあるか探したほうがずっといい。


 残念ながら、ひと回りしてもマンゴームースは見つからなかった。


 落ち込みかけた時、蒼真が近づいてきた。


 反射的に逃げようとした私の前に、彼の手が伸びる。


「俺は幽霊か? 見ただけで逃げるな」


 私はぎこちなく笑った。


「そんなことないよ。幽霊には見えない」


 幽霊より怖いだけだ。


 蒼真は私を見て、まるで内心を読んだような顔をした。何も言わず、小さなケーキ皿を差し出してくる。


 そこには、マンゴームースが乗っていた。


「好きだろ。誰かに取られる前に食べろ」


 私はそのケーキを見つめ、頭の中で何かが大きく鳴った。


 原作の早瀬寧々は、マンゴーを食べない。けれど現実の私は、マンゴームースが大好きだった。ケーキ屋の前を通るたび、夫が必ず一つ買ってくれたくらいだ。


 どうして蒼真が知っているのだろう。


 私を試しているのか。それとも単に、原作の寧々が食べないものを渡して困らせているだけなのか。


 警戒心は強まった。


 それでも、目の前のケーキから漂う生クリームとマンゴーの甘い香りには勝てなかった。私は皿を受け取り、つい食べてしまった。


 食べ終えてから、ようやく気づいた。


 原作の寧々がマンゴーを食べないなら、私がこんなに嬉しそうに食べた時点で、もう別人だと疑われるのではないか。


 私はすぐ顔を上げ、不満げに眉を寄せた。


「今回のパティシエ、ちょっと手抜きじゃない? マンゴームースなのに、マンゴーの味が全然しない」


 心の中で、自分の機転をほめた。


 マンゴーの味が薄いと言っておけば、食べても不自然ではない。人をだます時は、堂々としたほうがいい。


 蒼真は返事をしなかった。


 ただ、私の口元を見ている。


 食べ急いだせいで、唇の端にクリームがついていたらしい。彼は手を伸ばし、指先でそっとそれを拭った。


 その温度が唇に触れた瞬間、胸が跳ねた。


 彼の目が、あまりにも見覚えのあるものだったからだ。


 現実の夫が、私を見て「また食べすぎるぞ」と笑う時の目に似ていた。


 私は慌てて頬を叩き、自分を落ち着かせた。


 揺らいではいけない。これは原作で妻を散々苦しめた男だ。パジャマを用意してくれても、暖房をつけてくれても、マンゴームースを渡してくれても、それだけで信じる理由にはならない。


 その時、唯花がシャンパンを二つ持って近づいてきた。


 彼女はまず私を睨み、蒼真へ顔を向けた途端、甘い笑みを浮かべた。


「蒼真、少し飲まない?」


 蒼真はグラスを受け取り、すぐ口をつけた。


 しばらくして、彼の身体が小さく揺れる。唯花はすぐに彼を支え、蜜のように柔らかい声を出した。


「蒼真、大丈夫? 上で少し休みましょう」


 私は二人が階段のほうへ向かうのを見ながら、内心で冷たく笑った。


 けれど次の瞬間、原作の場面を思い出して背筋が冷えた。


 今夜、唯花は男主人公に薬を盛る。関係を捏造し、さらに世間の目と証拠らしきものを使って、原作の寧々を完全に追い詰めるのだ。




3.胸元の痣



 唯花の姿は、すでに階段の角へ消えていた。


 私はその場で数秒迷った。こんな人間なら放っておけばいい、という気持ちもあった。けれど、せっかく物語に入り込んだのなら、原作の寧々を同じ結末に向かわせるわけにはいかない。


 それに、やはりこの蒼真はどこかおかしかった。


 私は歯を食いしばり、追いかけた。


 二階の奥にある部屋の扉が閉まりかけた瞬間、私は手を差し入れて止めた。私の顔を見るなり、唯花の柔らかな表情は消えた。


「何をしに来たの?」


 私は笑顔を作った。


「夫の具合が悪いなら、私が看る。何か問題ある?」


 唯花が何か言う前に、私は彼女を半ば押し出すように部屋から追い出した。


 扉が音を立てて閉まる。


 部屋には私と蒼真だけが残った。


 彼はソファにもたれ、呼吸を少し乱していた。襟元がわずかに開いている。薬を盛られた人間を相手にしたことなど当然なく、私はどうすればいいのかまったくわからなかった。


 まさか身をもって助けろというのだろうか。


 ドラマなら冷水を浴びせるところだ。私はそう思い、深く息を吸ってから蒼真を支え起こした。


「重い。熊みたい」


 言った途端、身体にかかる重さが少し増えた気がした。


 私は目を白黒させながら、どうにか彼を浴室まで運んだ。浴槽に座らせ、冷水を出そうとしたところで、彼がまだスーツの上着を着ていることに気づく。


 先に脱がせたほうがいい。


 上着を外し、シャツのボタンをいくつか外した。指先が胸元に触れた瞬間、私は動けなくなった。


 彼の胸に、見覚えのある赤い痣があった。


 それは、現実の夫の胸にある痣と同じだった。


 頭の中が真っ白になった。


 反応するより早く、蒼真が目を開けた。彼は私の手首をつかみ、そのまま浴槽の中へ引き込んだ。


 水はまだ出ていない。冷たい陶器の感触だけが背中に触れる。私は彼の腕の中へ落ち、心臓が暴れるように鳴った。


 彼の目には、先ほどまでの朦朧とした色などなかった。あまりにもはっきりと、私を見ていた。


「寧々、さっきの芝居、うまかっただろ?」


 私は完全に固まった。


 彼は額に軽く口づけた。長い間はぐれた飼い主を見つけた大型犬みたいな仕草だった。


「薬を盛られたふりをした。お前が助けに来るのを待っていたんだ」


 我に返った私は、彼の胸を思いきり押した。


「変態!」


 彼は低く笑い、腕だけは緩めなかった。


 私は胸元の痣を見つめたまま、声を震わせた。


「どうして、これがあるの?」


 蒼真が私を見た。


 その瞬間、表情が完全に見慣れたものへ変わった。


「俺も一緒に来たんだ」


 私は言葉を失った。


 現実世界で、私はこの小説を読むたびに夫へ内容を話していた。彼はいつも呆れた顔をしながら、それでも最後まで聞いてくれた。


 その彼が、まさか同じ世界に入り込んでいたなんて、考えもしなかった。


 まだ信じ切れずにいる私を見て、彼は耳元へ顔を寄せた。


「左肩の後ろに、小さな赤いほくろが三つ並んでいる」


 顔が一気に熱くなった。


 もう疑いようがなかった。


 そんな場所を知っている人間は、現実の夫以外にいない。


 地下倉庫の暖房も、ちょうどいいタイミングで置かれたパジャマも、私の好きなマンゴームースも、全部つながった。


 最初から、彼は演じていたのだ。




 蒼真は私を浴槽から抱き上げ、ベッドの端へ下ろした。


 私はまだ衝撃から抜け出せず、彼の袖をつかんだ。


「どうして、もっと早く言ってくれなかったの?」


 彼は笑みを消し、声を落とした。


「この別邸には白鳥家の息がかかった人間がいる。来たばかりのお前は反応がわかりやすすぎた。あの場で俺が正体を明かしていたら、計画が全部壊れる」


 私は眉を寄せた。


「計画?」


 蒼真は私の隣に座り、乱れた髪を耳へかけてくれた。


「鷹宮ホールディングスを取り戻す」


 原作では、鷹宮ホールディングスの資産は、白鳥家の関連会社によってすでにかなり流出していた。後半では、白鳥家が裏で鷹宮家を追い詰め、表では救いの手を差し伸べるふりをして、主力子会社を安く手に入れる。


 それ以降、原作の蒼真は唯花をさらに信じ、妻をより深く憎むようになった。


 最後には、早瀬家も巻き込まれて破綻し、寧々は完全に逃げ場を失う。


 蒼真は私を見下ろした。目は静かだった。


「唯花には、俺が彼女に傾いたと思わせる必要がある。勝ちが近いと思えば思うほど、あいつは油断する」


「彼女が自分から、流した資産を戻す形を作る。そのあと、証拠と取締役会の手続きで白鳥グループに反撃する」


 私は何度もうなずいた。


 私が来た瞬間から真正面でぶつかるより、ずっと賢い。そう思った矢先、蒼真が私をベッドへ押し倒した。


 身体が固まる。


 彼は私を見下ろし、見覚えのある意地の悪い笑みを浮かべた。


「計画の話はした。じゃあ、さっき危うく潰されかけた夫を少しくらい慰めてもいいんじゃないか?」


 耳まで熱くなった。


「さっきのは芝居だったんでしょう?」


「芝居は芝居だ」


 彼は私の手を取り、指先へ唇を落とした。


「でも、会いたかったのは本当だ」


 私は彼の胸を押した。


「不真面目」


 蒼真が笑う。


「もともとそうだろ」


 彼が顔を近づけた。


「お前にだけだ」




4.白鳥家の影



 翌朝、目を覚ますと、私は鷹宮家の主寝室にいた。


 身支度をして階下へ降りると、蒼真がリビングのソファに座っていた。表情はひどく険しい。視線の先には、淡い色のニットを着た若い男がいる。


 穏やかな目元と柔らかな雰囲気を持つ彼は、蒼真とはまるで違う種類の人だった。


 ほとんどすぐにわかった。


 一条遥人だ。


 原作で寧々を深く愛し続ける男二番手であり、彼女の幼なじみでもある。


 思わず目が輝いてしまった。


 原作に書かれていた通り、遥人は本当に優しげで整っている。そう思って見とれていた瞬間、鋭い視線が横から飛んできた。


 顔を向けると、蒼真が沈んだ顔でこちらを見ていた。


 まずい。


 現実の夫が妬いている。


 私は慌てて視線を戻し、素直に蒼真のそばへ向かった。けれど原作の流れを考えると、厄介な問題がひとつある。


 原作で、遥人は寧々を骨の髄まで愛していた。後半、鷹宮ホールディングスが危機に陥ったあと、彼は寧々を日本から連れ出し、イギリスへ向かう。


 そしてその展開を、現実の夫も知っている。


 どうすれば遥人に余計な期待を抱かせずに済むのか考えていると、彼はもう立ち上がって私へ近づいていた。


「寧々」


 その目に浮かぶ心配を見て、胸が少し痛んだ。


 けれど、希望を与えるわけにはいかない。


 私は彼のそばを通り過ぎ、そのまま蒼真の隣へ走った。


 蒼真は私が自分のそばへ来たのを見て、少しだけ機嫌を直したようだった。無意識に手を取ろうとして、唯花が近くにいることに気づき、すぐに手を引く。


 唯花はずっと私たちを観察していた。蒼真が私に触れなかったのを見て、目にかすかな得意げな色が浮かぶ。


 遥人はそれに気づかないふりをして、穏やかに笑った。


「今日は天気がいい。ゴルフに行かない?」


 私は固まった。


 原作に、こんな場面はなかった。


 さっき私が彼を避けたことで、物語が勝手に変わり始めたのだろうか。




 結局、私たちはゴルフ場へ行くことになった。


 原作の寧々は、ゴルフが得意だった。けれど私は違う。キャディがクラブを渡してくれた瞬間、まるで知らない道具を持たされた気分になった。


 唯花は私の戸惑いを見逃さなかった。口元に、じわりと笑みが浮かぶ。


「寧々はゴルフが上手なんでしょう? 一打、見せてもらえない?」


 私はその場で石になりかけた。


 こんな上流階級のスポーツ、できるわけがない。


 蒼真が口を開こうとした時、遥人が先に歩み出た。


「久しぶりで感覚が戻らないんだろう。俺が代わりに打とうか」


 蒼真の顔が一気に沈んだ。


 私は背筋を冷やし、慌てて手を振った。


「大丈夫。自分でやってみる」


 遥人はなおも優しく言った。


「じゃあ、教えるよ」


 周囲の空気がさらに低くなる。


 二人の男が一本のゴルフクラブで争い始めるのだけは避けたい。私は覚悟を決めてクラブを持ち上げ、適当な方向へ構えた。


「本当に自分でできるから」


 そう言って、力任せに振った。


 技術の問題なのか、唯花が私を笑うために近くに立ちすぎていたのかはわからない。ボールは遠くへ飛ばず、不思議な角度で横へ跳ねた。


 見事に、彼女の腰のあたりに当たった。


 唯花の悲鳴が響いた。


 私は反射的に謝った。


「ごめんなさい」


 口ではそう言ったものの、笑いそうになるのをこらえるのに必死だった。


 唯花は腰を押さえ、顔を真っ赤にした。


「わざとでしょう?」


 私は肩をすくめた。


「あなたが打てって言ったんでしょう。私のせい?」


 彼女が怒って詰め寄ろうとした瞬間、蒼真と遥人がほとんど同時に私の前へ出た。


 唯花が固まった。


 私も固まった。


 蒼真はすぐに状況を理解した。唯花が疑い始めたのだ。彼は彼女のそばへ戻り、冷たさを少し残した声で気遣うふりをした。


「大丈夫か」


 唯花の目から、疑いが少しずつ消えていく。


 彼女は私を強く睨み、腹立たしげにその場を離れた。蒼真も一度だけ私を見てから、彼女を追う。


 私と遥人だけが、その場に残った。


 こうしてゴルフは、想定外の事故で中断された。


 私は内心、ほっと息をついた。


 ゴルフができないことだけは、どうにかごまかせたらしい。




 夜、別邸へ戻ると、唯花はすぐに蒼真へ訴えた。


 彼女は彼の腕にすがり、目元を赤くしている。


「蒼真、今日の寧々は絶対にわざとだったの」


 私は蒼真を見た。


 ほとんど同時に、互いの意図が伝わった。


 私はすぐ彼の反対側の腕へしがみつき、唯花の真似をして軽く揺らした。


「わざとじゃないよ。あなた、彼女の言うことを信じないで」


 唯花は怒って私の手を払いのけた。


「蒼真に触らないで。どう考えてもわざとよ」


 私たちは同時に蒼真を見上げた。


 蒼真はまず私へ冷たい視線を向け、それから唯花へと声をやわらげた。


「唯花、嫌な思いをさせたままにはしない」


 私は笑いをこらえた。


 唯花は見事に信じた。


 彼女は背筋を伸ばし、勝ち誇ったように私を見る。


 蒼真が手を上げ、警備員を呼んだ。


「彼女を鷹宮家から出せ」


 唯花の目が輝いた。


 蒼真の声はさらに冷えた。


「旧市街のほうへ送れ。少しは身の程を知るだろう」


 私はすぐに、傷ついたふりをして叫んだ。


「蒼真、私はあなたの妻でしょう? この人のために、そこまでするの?」


 蒼真はぎこちなく唯花の肩を抱いた。


「このところ、はっきりわかった。俺が愛しているのは君じゃない。離婚の手続きも進める」


 私は胸元を押さえ、ひどく傷ついたように振る舞った。


 唯花は勝利者の顔をしていた。


 その時、部屋の隅にいた新入りのハウスキーパーが、うつむいたままスマートフォンを操作しているのが見えた。誰も見ていないと思っているのだろう。指が素早く動いていた。


 後になってわかったことだが、彼女は白鳥家から直接送り込まれた人間ではなかった。白鳥家と長く取引のある家政会社から紹介されたハウスキーパーで、白鳥家とかなり近い関係にあったらしい。


 小さな情報でも入れば、彼女はすぐ唯花へ知らせていた。


 けれど今は、正体を暴く時ではなかった。


 私はそのまま泣き叫びながら、警備員に「引きずられて」主屋を出た。


 外から見れば、私は警備員に抱えられ、泣きながら車へ押し込まれたように見えただろう。


 この芝居は、白鳥家側の人間に見せるためのものだった。騒ぎが大きければ大きいほど、唯花は蒼真が本当に私を見限ったと信じる。けれど、その場面を別の人物まで見ているとは、私たちも想定していなかった。


 門の前へ出ると、警備員はすぐ私を解放し、丁寧に車の扉を開けた。


「奥様、鷹宮様から行き先を伺っております。お乗りください」


 私は一秒前まで泣いていた顔を引っ込め、にこにこしながら車に乗った。


 唯花は、私が本当に旧市街へ送られると思っているのだろう。けれど私はこのあと、高級ホテルのスイートへ向かう予定だった。


 車が別邸を出てすぐ、黒い車が前方に横付けされた。


 運転手が急ブレーキを踏む。


 顔を上げると、一条遥人が車から降りてきた。彼の後ろには、弁護士と警備会社のスタッフが二人ついている。


 遥人は運転手に触れず、スマートフォンを掲げた。


「もう110番しました。本人の意思に反して連れて行くなら、監禁の疑いがあるとして警察に説明します」


 運転手が固まる。


 扉が開くと、遥人はまっすぐ私の前へ来た。目には心配が満ちていた。


「寧々、怖がらないで。迎えに来た」







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