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投票箱には一票多い

観測余録 四十七と四十八


 大人になった人の信念に、始まりの日が記されているとは限りません。


 いつ最初の疑問を抱いたのか。いつ、正しいと教えられたものにも誤りがあると知ったのか。誰も困っていないのだから構わない、という言葉へ、いつから納得できなくなったのか。そうした変化は、あとから振り返れば大切なものに見えても、そのときの本人にとっては、ごく小さな違和感に過ぎないことがあります。


 まして、その少年は正義を語りませんでした。誰かを救おうと考えていたわけでもなく、自分が正しい人間であることを証明しようともしていません。


 ただ、四十七人しかいない教室に、四十八枚の票がある。


 その一つの違いを、見なかったことにできませんでした。


 たぶん、始まりというものは、そういう形をしていることもあるのでしょう。


 ――ナミ=エル

 ヴァルテリア中央記録学院の講堂には、投票用紙を扱う乾いた紙の音が満ちていた。


 高等予科第二組の学生、四十七名。その全員が、机の上に置かれた同じ大きさの用紙を見下ろしている。


 春季公開講義で扱う論題を決めるための投票だった。


 候補は二つ。


 《記録は事実を証明する》


 《記録は事実を選別する》


 学院の創立記念日には、市政官、記録官、商会書記、法学生まで招いて公開討論が行われる。その主題を、高等予科の学生たち自身に選ばせようという試みだった。


「投票用紙を折る必要はない」


 教壇に立ったローデン教官が講堂を見渡した。痩せた長身のヒト族で、黒い学院服の襟を喉元まできっちり留めている。


「無記名投票ではあるが、票は集計器へ直接入れる。筆記面を伏せ、順番に前へ出なさい」


 学生たちが立ち上がった。


 講堂前方には、真鍮と黒鉄で作られた小型の蒸気式集計器が置かれている。投入口は一つ。正面には二つの数字窓があり、用紙へ黒鉛筆で記された印を読み取ると、それぞれに対応した数字を一つ進める仕組みだった。


 集計器の脇には、アルノ=フェルが立っている。


 淡い茶色の髪に、細い肩。学院規定どおりに整えた制服を着た少年だった。機械記録実習の成績が優秀で、その日は集計器の準備から作動確認までを任されている。


「次」


 アルノに呼ばれ、学生が一人ずつ用紙を差し込んでいく。


 内部で送りローラーが回り、紙を呑み込む。読み取り針が票面へ触れ、数字窓の歯車が一つ進む。


 かちり。


 また一人。


 かちり。


 講堂の最後列にいたレオン=クラウスは、自分の順番が近づいても、すぐには席を立たなかった。


 用紙を机へ置き、二つの論題を見比べている。


「まだ決めていないのか」


 隣の学生が、少し苛立ったように訊いた。


「決めている」


「なら早く行け。後ろがつかえている」


「論題の書き方が不正確だ」


「投票が始まってから言うことか?」


 レオンは黒鉛筆を取り、《記録は事実を選別する》の横へ印をつけた。


「記録は事実を証明する場合もあれば、選別する場合もある。この二つを対立概念として置く前提に無理がある」


「なら棄権すればいい」


「不正確な問いへ答えないことと、提示された選択肢のうち、より誤りの少ない方を選ぶことは別だ」


 隣の学生は呆れたように息を吐いた。


「君と話していると、何も決まらなくなるな」


「不正確に決めるよりはいい」


 レオンは立ち上がった。


 十七歳。黒い髪に、学生としてはやや細い身体。顔色もあまりよくない。


 学院では成績優秀者として知られている。それと同じくらい、授業中であろうと教官の誤りを指摘し、規則を守りながら、その規則を作った側の不備まで問い、褒められてもさほど喜ばず、嫌われても態度を改めない学生として知られていた。


 レオンは用紙を集計器へ差し込んだ。


 送りローラーが紙を引き込む。


 左側の数字窓は二十三。


 右側も二十三。


 レオンの票が読み取られ、右だけが二十四へ進んだ。


「一票差か」


 誰かが言った。


「まだ最後の一人がいる」


 ローデン教官が講堂を見渡す。


 一番前に座っていた女子学生が立ち、最後の票を投じた。


 紙が集計器へ呑み込まれる。


 数字が動いた。


 左、二十四。


 右、二十四。


 一瞬の静寂のあと、講堂がざわめいた。


「同票?」


「四十七人で?」


「どちらかが二十四なら、もう一方は二十三のはずだろ」


 ローデン教官が片手を上げると、ざわめきが少しずつ収まった。彼は数字窓を確かめてから、集計器の脇に立つアルノを見る。


「フェル。投票者は全員か」


「はい。高等予科第二組、在籍四十七名。欠席者はいません」


「投票者名簿を」


 アルノは机に置いていた名簿を差し出した。


 四十七の名前。それぞれの横に、投票済みを示す小さな確認印がある。


 ローデン教官は上から下まで目を通した。


「重複は?」


「ありません」


「集計器の始動前確認は」


「左右とも零でした。教官にも確認していただきました」


「そうだったな」


 全員の視線が、改めて集計器へ集まった。


 二十四。


 二十四。


 合計、四十八。


「投票箱には、一票多い」


 誰かが小さく呟いた。


 その言葉が聞こえたのかどうかは分からない。


 ただ、アルノの顔から血の気が引いた。


 集計器へ最後に触れていたのは彼だ。朝、機械室から運び出し、給気管を接続し、試運転を行い、講堂へ設置した。投票中も、ずっと機械の脇に立っている。


「フェル」


「はい」


「試運転には何を使った」


「校正用の白紙です。読み取り針と数字送りをそれぞれ一度動かして、最後に数字を零へ戻しました」


「校正用紙は」


「試運転後、破棄箱へ入れました」


「確認した者は?」


 アルノは答えられなかった。


 試運転を任されたのは彼一人だった。


 優秀だから任された。


 信頼されていたから、立会人を付けなかった。


 その信頼が、四十八という一つ多い数字によって、少しずつ疑いへ変わり始めている。


「教官」


 レオンが声を上げた。


「何だ、クラウス」


「投票用紙そのものを数えてください」


「数字窓が四十八を示している」


「機械が四十八を示していることと、用紙が四十八枚あることは同じではありません」


 ローデン教官は一瞬だけレオンを見た。


 それから集計器下部の排出箱を開けさせる。


 アルノが用紙を取り出した。


 十枚ずつに分けて数えていく。


「十」


 二束目。


「二十」


 三束目。


「三十」


 四束目。


「四十」


 残った紙を一枚ずつ机へ置いていく。


「四十一、四十二、四十三、四十四、四十五、四十六、四十七……」


 アルノの指が止まる。


 まだ、一枚残っていた。


「四十八」


 講堂のざわめきが戻った。


 ローデン教官は四十八枚の用紙を見下ろし、ほとんど迷わず告げた。


「全票を無効とする。明日、別の用紙を使用して再投票を行う。集計は手作業だ」


「原因を調べないのですか」


 レオンが訊いた。


「投票者四十七名に対して票は四十八枚。不正票を特定できなければ、この結果は成立しない」


「誰かが不正票を入れたと?」


「その可能性はある」


「集計器が一票を作った可能性は」


 何人かの学生が笑った。


 ローデン教官は笑わなかった。


「機械は紙を増やさない」


「人間も、これだけ見られている前で紙を増やすのは難しい」


「不可能ではない」


「では、誰が入れたのですか」


「それを今から調べる」


 教官の視線がアルノへ向いた。


 ほんの一瞬だった。


 けれど、それだけで十分だった。


 ほかの学生たちの視線も、自然と同じ場所へ集まっていく。


 レオンはアルノを見た。


 少年は怯えた顔をしていた。


 ただ、レオンが見ていたのは表情ではなかった。


 袖口。


 指先。


 集計器の鍵。


 投票用紙の束。


 そして机に並べられた四十八枚の紙。


「四十七人全員が投票した」


 レオンは言った。


 ローデン教官が眉を寄せる。


「だから何だ」


「なら、一枚は学生が投じた票ではありません」


     ◇


 投票は無効とされた。


 学生たちは午後の講義へ戻され、集計器と四十八枚の投票用紙は学院書記室へ移された。


 事件ではない。


 金銭も動いていない。成績にも、進級にも関係しない。


 公開討論会の論題が、その日に決まらなかっただけだ。


 翌日、もう一度投票すればいい。


 誰も損をしない。


 少なくとも学院側は、そう判断していた。


 授業終了後。


 レオンは書記室の前に立っていた。


 扉の横には、仮処理票が掲示されている。


 《春季公開講義論題選定投票》


 投票者数、四十七名。


 排出票数、四十八枚。


 処理――投票無効。翌日再実施。


 そして備考欄には、


 《集計担当生徒による重複投入の可能性あり。確認継続》


 と書かれていた。


 レオンは、その一文をじっと見ていた。


「まだ帰っていなかったのか」


 背後からローデン教官の声がした。


 レオンは振り返らず、備考欄を指した。


「この記述は誰が書いたのですか」


「学院書記だ。私の報告をもとにしている」


「重複投入の証拠は?」


「《可能性あり》と書いてある」


「可能性なら、集計器の故障もあります」


「機械が用紙を一枚作ることはない」


 レオンがようやく振り返った。


「同じ言葉を先ほど聞きました」


「なら理解しただろう」


「理解できないので、もう一度訊いています」


 ローデン教官は疲れたように息を吐いた。


「フェルを処分するつもりはない。本人へ事情を聞き、異常が確認できなければ、それで終わりだ」


「終わりません」


「投票はやり直す」


「結果の話ではありません」


 レオンは備考欄を指した。


「この記録では、アルノ=フェルが不正をした可能性だけが残ります」


「だから《可能性》だ」


「疑った事実は残る」


「処分されなければ実害はない」


「処分されなかったことと、疑われなかったことは同じではありません」


 廊下の奥に人影があった。


 アルノだった。


 書記室へ呼ばれていたらしく、二人の会話を聞いていた。


「クラウス」


 近づいてきたアルノが言った。


「もういい」


「何がだ」


「明日、再投票をすれば済む。教官も処分しないと言っている」


「この記録が残っても?」


「僕がやっていないことは、僕が知っている」


「記録を読む人間は知らない」


「読む者なんていないよ。公開講義の投票記録だ」


 レオンは少し眉を寄せた。


「なら、なぜ記録する」


 アルノは言葉に詰まった。


「読まれない記録なら、何を書いてもいいのか」


「そういう意味じゃない」


「君が構わなくても、四十八という数字は残る」


 アルノはしばらく黙っていた。


 やがて、少し戸惑ったように尋ねる。


「君は、僕を助けようとしているのか」


 レオンはすぐには答えなかった。


 考える。


 そして、正確だと思う答えを選んだ。


「違う」


 アルノの顔が固くなった。


「数字が合わないのが不愉快なだけだ」


「クラウス」


 ローデン教官の声が低くなる。


「言い方というものがある」


「誤解される言い方はしていません」


「君は、誤解されない代わりに人を傷つける」


 レオンはアルノを見た。


 なぜ傷ついたのか。


 すぐには分からなかった。


 事実を述べた。


 助けることが目的ではなかったので、そのように伝えた。


 何が問題なのか、まだ理解できない。


 それでも、それ以上同じ説明を繰り返す代わりに、ローデン教官へ向き直った。


「集計器を調べさせてください」


「学生だけで学院備品を分解させるわけにはいかない」


「教官が立ち会えばいい」


「なぜ私が」


「調べずに生徒を疑った記録を残した責任があります」


 ローデン教官の眉が動いた。


 アルノが小さく息を呑む。


 廊下にいた学院書記は、聞こえなかったふりをして机へ目を落とした。


 しばらくして、教官は短く言った。


「……日没までだ。機械室で確認する。勝手に部品へ触るな。フェルも来なさい。自分が整備した機械だ」


「はい」


「クラウス」


「何です」


「何も見つからなければ、仮処理票の記述に従う」


「見つからなければ、です」


     ◇


 書記室の長机へ、四十八枚の投票用紙が並べられた。


 窓の外では、学院時計塔の長針が午後五時へ近づいている。


 レオンは一枚ずつ紙を確かめていった。


 見ているのは投票内容ではない。


 紙の色。


 裁断幅。


 厚さ。


 透かし。


 角の潰れ方。


 送りローラーが残した細い圧痕。


 黒い印が紙へ沈んだ状態。


「筆跡を比べるのではないのか」


 ローデン教官が訊いた。


「印を一つ付けただけです。筆跡としての情報が足りません」


「では、何を見る」


「誰の手でもない票です」


 レオンは一枚を取り上げた。


「これだけ、幅が狭い」


 アルノが定規を当てる。


 ほかの四十七枚より、わずかに細い。


 二ミリにも満たない差だった。


 重ねなければ、まず気づかない。


「裁断機のずれでは?」


 アルノが言った。


「今年の用紙は一括裁断されている。四十七枚は同じ幅だ」


 レオンはその紙を窓の光へ透かした。


「年度透かしもない」


 学院の投票用紙には、年度ごとに異なる小さな透かしが入っている。不正な再利用を防ぐためのものだった。


 問題の一枚には、今年の透かしがない。


 代わりに、紙の端近くへ薄く潰れた古い学院章が見える。


「以前の用紙?」


 アルノが覗き込んだ。


「少なくとも今年の票ではない」


 レオンは拡大鏡を取り、票の黒い印を確かめた。


「これも黒鉛ではありません」


 ローデン教官も横から見る。


「何だ」


「印刷用の黒色顔料です。鉛筆なら、紙の繊維表面に擦れが残る。これは均一に沈んでいる」


「誰かが以前の用紙を使い、印刷機で印を付けた?」


「公開講義の論題一つを変えるために?」


「不可能ではない」


「可能性だけなら、神が投票した可能性も残せます」


「クラウス」


「ですが、その仮定は必要ありません」


 レオンは紙の一角を示した。


 古い機械油の染み。


 そして細く、強い折れ跡。


 折れ目に沿って紙繊維が毛羽立っている。


「長いあいだ、何かの内部で圧迫されていた痕跡があります」


 アルノが集計器を見た。


「校正票……?」


「前年の整備台帳はありますか」


 アルノはすぐに機械室の書棚へ向かった。


 年度ごとに束ねられた整備記録を調べる。


 前年。


 春季公開講義。


 論題選定投票。


 集計器、第二号機。


 試運転。


 読み取り針、正常。


 数字送り、正常。


 排出機構――。


 アルノの指が止まった。


「ここです」


 台帳を長机へ置く。


 前年の学生整備担当者による記録があった。


 《校正票一枚、排出確認不能》


 その下には、教官の筆跡による追記。


 《機構内残留なしと判断。試運転完了》


「《確認した》とは書かれていない」


 レオンが言った。


「《残留なしと判断した》」


「言葉の違いだ」


 ローデン教官が答える。


「違います」


 レオンは台帳から目を上げた。


「排出されたことを確認していないから、《判断した》と書いた」


 そして集計器へ視線を移す。


「前年の校正票が、まだ内部に残っていた可能性があります」


「一年間も?」


「この集計器は、公開行事の投票にしか使われない。通常は機械室で保管されている」


 アルノも頷いた。


「去年の投票後は、一度も動かしていません。今日、僕が試運転するまで」


「朝の試運転では出なかったのか」


「校正紙を一枚ずつ通しました。数字送りだけの確認だったので、低圧で」


「本番では四十七枚を連続して通した」


 レオンは集計器の外装近くへ手を寄せた。


 まだ少し熱が残っている。


「蒸気管が熱を持ち、送りローラーが長く動いた。その振動か熱で、内部へ貼り付いていた前年票が剥がれ、今年の票と一緒に排出された」


 ローデン教官は少し考えてから言った。


「内部を確認する」


 アルノが給気弁を閉じた。


 圧力計が零まで落ちるのを待つ。


 側面板の封印ねじを外す。


 レオンは手を出さず、外から内部を見ていた。


 黒鉄の送りローラー。


 読み取り針。


 二方向へ票を振り分ける案内板。


 その裏側。


 狭い隙間へ、古い紙の繊維が残っていた。


 油で黒ずんだ、象牙色の毛羽立ち。


 アルノが小さな鑷子で採取し、四十八枚目の折れ目へ残る繊維と見比べる。


 色も、太さも同じだった。


「ここに挟まっていた」


 アルノが言った。


「それが今日、剥がれたんだ」


 ローデン教官は、もう一度前年の整備記録を見た。


 《排出確認不能》


 《機構内残留なしと判断》


 そして今年。


 四十七人。


 四十八票。


「では、不正投票ではない」


「最初から、その証拠はありませんでした」


 レオンが答えた。


「クラウス」


「何です」


「今は、私が認めようとしたところだ」


「事実は、認められる前から事実です」


 ローデン教官は額へ手を当てた。


「君は、いつか必ず上官を怒らせる」


「間違っていれば訂正します」


「上官を?」


「記録を」


 横でアルノが笑った。


 緊張が解けたのだろう。


 ほんの短い笑いだった。


「君は本当に、数字が合わなかっただけなんだな」


「そう言った」


「僕が疑われていたことは?」


「それも、数字が合わなかった結果だ」


「心配はしていなかった?」


 レオンがアルノを見る。


「何を」


「僕が処分されるかもしれないことを」


 少し考えたあと、レオンは答えた。


「証拠がない以上、処分は成立しない」


「そういう意味じゃない」


「では、どういう意味だ」


 アルノは、また笑った。


 今度は少し呆れたような笑いだった。


「分からないなら、いい」


 レオンは眉を寄せた。


 分からないままにされることを、彼は好まなかった。


 だがアルノは、それ以上説明しなかった。


     ◇


 四十八枚目の紙は、前年の校正票だった。


 その票には、《記録は事実を選別する》側へ試験印が付けられていた。


 それを除いた正しい集計は、


 《記録は事実を証明する》 二十四票。


 《記録は事実を選別する》 二十三票。


 翌日の再投票は中止され、春季公開講義の論題は《記録は事実を証明する》に決まった。


「君の選んだ方は負けたな」


 機械室から書記室へ戻る途中、アルノが言った。


「そうだな」


「不満ではないのか」


「論題そのものには同意していない」


「なら、再投票にした方がよかったんじゃないか。一票差だ。明日なら結果が変わるかもしれない」


「変わるかもしれないな」


「それでも、この結果を採用する?」


「これは今日、四十七人が投じた結果だ。明日の四十七人が投じる結果とは違う」


「同じ学生だよ」


「今日の騒ぎを知った時点で、同じ条件ではない」


 アルノは少し考えた。


「君は《記録は事実を選別する》へ投票したんだろう?」


「ああ」


「その投票記録を守るために、《記録は事実を証明する》が選ばれる結果を確定させた」


「矛盾はない」


「僕には、少し皮肉に見える」


「皮肉は事実の側に言ってくれ」


     ◇


 学院書記は、仮処理票を書き直すことになった。


 最初の備考。


 《集計担当生徒による重複投入の可能性あり。確認継続》


 書記がその一文へ赤い訂正線を引こうとしたところで、レオンが止めた。


「消すだけでは不十分です」


「訂正線を引き、訂正印を押す」


「それでは、なぜ疑いが誤りだったのか分からない」


「詳細は整備記録へ残す」


「この処理票を読む者が、整備記録まで照会するとは限りません」


 書記が少し苛立ったように顔を上げた。


「では、どう書けと?」


 レオンは答えた。


「《前年校正票が集計機構内へ残存し、現行票へ混入。集計担当生徒の操作に異常なし》」


「長すぎる」


「必要な長さです」


「投票結果の処理票だぞ」


「だから、投票結果に関係する事実を書くべきです」


 学院書記はローデン教官を見た。


 教官は、その日一日の疲労を吐き出すように長く息をついた。


「書いてやれ」


「しかし――」


「書かなければ、この学生は日が暮れても帰らん」


 レオンが窓を見る。


 煤霧に沈み始めた中庭では、ガス灯が一つずつ灯されていた。


「もう暮れています」


「分かっている。だから言っている」


 書記は新しい処理票を取り出した。


 一文字ずつ、レオンが求めた内容を書いていく。


 《前年校正票が集計機構内へ残存し、現行票へ混入》


 《集計担当生徒の操作に異常なし》


 最後に、ローデン教官の確認印。


 学院書記の訂正印。


 そしてアルノ=フェルの立会署名。


 レオンは、すべてを読み終えてから言った。


「これでいい」


「君の許可を求めた覚えはない」


 ローデン教官が言う。


「では、独り言です」


「君の独り言は、相手を怒らせるためにあるのか」


「その意図はありません」


「意図がなければ許されると思うな」


 アルノは署名を終え、ペンを置いた。


「クラウス」


「何だ」


「ありがとう」


 レオンは訂正済みの処理票を見たまま答えた。


「君のために調べたわけではない」


「知っている」


「数字が合わなかっただけだ」


「それも聞いた」


「なら、礼を言う理由はない」


「それでも、助かった」


 レオンは答えなかった。


 アルノが何を求めているのか、まだよく分からない。


 礼を受け取ればいいのか。


 《助かった》という事実に頷けばいいのか。


 数字の不一致を直しただけだと、もう一度説明すべきなのか。


 考えているうちに、アルノは鞄を持ち上げた。


「明日から、機械の試運転には立会人を付けるそうだ」


「当然だ」


「僕一人では信用できないから?」


「違う」


 レオンはそこまで言ってから、少し考えた。


「君一人を守るためでもある」


 言葉は、考えがまとまりきるより先に出ていた。


 アルノが足を止める。


 レオン自身も、わずかに目を動かした。


「作業が正しかったと証明できる人間がもう一人いれば、次に何か起きても、君一人だけを疑うことはできない」


 アルノはしばらくレオンを見ていた。


「それを最初に言ってくれればよかったのに」


「今、気づいた」


「君にも、あとから気づくことがあるんだな」


「ある」


「少し安心したよ」


 アルノは笑って、廊下の向こうへ歩いていった。


 レオンはその背中を見送った。


 何に安心したのか。


 それは、まだよく分からなかった。


     ◇


 学院の正面玄関には、一人の若い男が待っていた。


 上等な濃灰色の外套。白い手袋。黒い革鞄。


 まだ二十代半ばほどだが、学生とは明らかに違う落ち着きを身につけている。


 エドガー=クラウス。


 レオンの兄だった。


「遅い」


 弟の姿を認めると、最初にそう言った。


「学院から連絡があった」


「何と」


「君が公開講義の投票結果を止め、集計器を開けさせ、教官と書記へ報告書の訂正を要求していると」


「事実だ」


 エドガーは一度だけ目を閉じた。


「もう少し、誤解の余地がある説明を期待したよ」


 弟の肩越しに学院内を見る。


「怪我人は?」


「いない」


「盗難は」


「ない」


「金銭上の損害」


「ない」


「成績への影響は」


「ない」


「では、何が起きた」


「一票多かった」


 エドガーは黙った。


「一票?」


「投票者は四十七人。票は四十八枚」


「それで学院を半日止めたのか」


「止まってはいない。午後の授業は通常どおり行われた」


「君は出ていないだろう」


「必要な調査があった」


「学生の本分について、学院と見解が違うようだな」


 二人は学院を出た。


 夕方の煤霧が、正面石段を薄く覆っている。


 通りでは帰宅する学生たちが、蒸気乗合車へ次々に乗り込んでいた。


 エドガーは弟から訂正済み処理票の写しを受け取り、歩きながら目を通した。


「前年校正票の残留」


「ああ」


「集計担当者への疑いは訂正済み」


「ああ」


「投票結果も確定した」


「二十四対二十三」


「なら、再投票でもよかっただろう」


 レオンが兄を見る。


「再投票では、四十八票あった理由は消えない」


「結果は出し直せる」


「疑われた記録は残る」


「処分されなければ、実務上の影響は少ない」


「少ないだけで、ないわけではない」


 エドガーは処理票を折り、弟へ返した。


「君は相変わらず、一つの言葉へ時間を使いすぎる」


「兄さんは相変わらず、一つくらいなら数から消しても構わないと思っている」


「消すとは言っていない」


「では?」


「正しい場所へ戻すだけだ」


「誰が正しい場所を決める?」


「規則と責任者だ」


「責任者が間違えた場合は?」


「上位の責任者が訂正する」


「その上が間違えたら」


「さらに上だ」


「一番上が間違えた場合は?」


 エドガーは足を止めた。


 煤霧の向こうに、学院の時計塔が見える。


 決められた時刻を、決められた針で、決められた文字盤の上へ示している。


「それを学ぶために、君は学院へ通っているんじゃないのか」


 エドガーが言った。


「学院が間違えた」


「だから、君が訂正したんだろう」


「学院の規則に従って」


「なら制度は動いている」


「今日は」


 エドガーの目が少し細くなる。


「君は制度が一度間違えただけで、すべてを疑うつもりか」


「一度間違えたことを、間違えなかったことにはしない」


 エドガーは弟を見た。


 面倒そうではあった。


 けれど、ただ呆れているだけではない目だった。


「レオン」


「何だ」


「学院で友人はできたか」


「今、その話に関係があるのか」


「ない」


「なら訊くな」


「答えで分かったよ」


 二人は再び歩き始めた。


「アルノ=フェルは友人ではない」


「私は名前を聞いていない」


「集計担当の学生だ」


「その学生への疑いを訂正させた?」


「数字が合わなかっただけだ」


「そうか」


 エドガーが小さく笑った。


「何がおかしい」


「君が将来、同じ言葉を何度使うことになるのかと思ってね」


「同じ状況が何度も起きるとは限らない」


「起きるよ」


「なぜ分かる」


 エドガーは前を向いたまま答えた。


「君が、見つけに行くからだ」


 レオンは何も言わなかった。


 二人は学院前を離れ、霧の深い通りへ入っていく。


 エドガーは、歩く速度をほんの少し落とした。


 弟に合わせたとは言わない。


 レオンも、それに気づいたとは言わなかった。


「君は本当に、面倒な学生だな」


 エドガーが言う。


「学院が不正確なんだ」


「その返答が面倒だと言っている」


「兄さんの質問も不正確だ」


「訂正する気はない」


「記録しておく」


「好きにしろ」


 若い兄弟の声が、煤霧の通りへゆっくり遠ざかっていった。

観測余録 誰のものでもなかった一票


 その日の学院記録には、集計器第二号機の整備不備と、前年の校正票が一枚、機構内へ残っていたことが記されました。


 正しい投票結果は二十四対二十三。


 そして、集計を担当した学生の操作には異常がなかったことも、同じ紙へ書き加えられました。


 誰も処分されませんでした。


 誰かが不正をした事実もありませんでした。


 公開講義の論題も、正しい四十七票によって決まりました。


 けれど、後に偽装記録の探偵と呼ばれることになる少年が、なぜ最後まで一枚の処理票へこだわったのか。その理由を記した紙は、どこにもありません。


 本人も、誰かを守ったとは考えていなかったでしょう。


 彼が最初に見ていたのは、四十七と四十八のあいだにある、たった一つの矛盾でした。


 ただ、その一票がどこから来たのかを確かめ、正しい時刻と正しい記録へ戻したことで、疑いの欄へ置かれていた一人の学生の名前も、元の場所へ戻りました。


 誰かを守ろうとしなければ、誰も守れないとは限らないようです。


 数字を一つ正しい場所へ戻したことが、あとから見れば、人の名前を守っていたこともあります。


 そして少年自身も、その日の終わりにようやく一つだけ気づきました。


 一人で正しく作業したという記録だけでは、ときに足りないこと。


 その正しさを、別の誰かが確かめられるようにしておくことも、記録の役目なのだと。


 だから私は、誰のものでもなかった四十八枚目の票を覚えています。


 投票結果を変えるためではなく。


 一人の少年が、数字の向こうにある人の名前へ、ほんの少しだけ近づいた日の記録として。


 ――ナミ=エル

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