投票箱には一票多い
観測余録 四十七と四十八
大人になった人の信念に、始まりの日が記されているとは限りません。
いつ最初の疑問を抱いたのか。いつ、正しいと教えられたものにも誤りがあると知ったのか。誰も困っていないのだから構わない、という言葉へ、いつから納得できなくなったのか。そうした変化は、あとから振り返れば大切なものに見えても、そのときの本人にとっては、ごく小さな違和感に過ぎないことがあります。
まして、その少年は正義を語りませんでした。誰かを救おうと考えていたわけでもなく、自分が正しい人間であることを証明しようともしていません。
ただ、四十七人しかいない教室に、四十八枚の票がある。
その一つの違いを、見なかったことにできませんでした。
たぶん、始まりというものは、そういう形をしていることもあるのでしょう。
――ナミ=エル
ヴァルテリア中央記録学院の講堂には、投票用紙を扱う乾いた紙の音が満ちていた。
高等予科第二組の学生、四十七名。その全員が、机の上に置かれた同じ大きさの用紙を見下ろしている。
春季公開講義で扱う論題を決めるための投票だった。
候補は二つ。
《記録は事実を証明する》
《記録は事実を選別する》
学院の創立記念日には、市政官、記録官、商会書記、法学生まで招いて公開討論が行われる。その主題を、高等予科の学生たち自身に選ばせようという試みだった。
「投票用紙を折る必要はない」
教壇に立ったローデン教官が講堂を見渡した。痩せた長身のヒト族で、黒い学院服の襟を喉元まできっちり留めている。
「無記名投票ではあるが、票は集計器へ直接入れる。筆記面を伏せ、順番に前へ出なさい」
学生たちが立ち上がった。
講堂前方には、真鍮と黒鉄で作られた小型の蒸気式集計器が置かれている。投入口は一つ。正面には二つの数字窓があり、用紙へ黒鉛筆で記された印を読み取ると、それぞれに対応した数字を一つ進める仕組みだった。
集計器の脇には、アルノ=フェルが立っている。
淡い茶色の髪に、細い肩。学院規定どおりに整えた制服を着た少年だった。機械記録実習の成績が優秀で、その日は集計器の準備から作動確認までを任されている。
「次」
アルノに呼ばれ、学生が一人ずつ用紙を差し込んでいく。
内部で送りローラーが回り、紙を呑み込む。読み取り針が票面へ触れ、数字窓の歯車が一つ進む。
かちり。
また一人。
かちり。
講堂の最後列にいたレオン=クラウスは、自分の順番が近づいても、すぐには席を立たなかった。
用紙を机へ置き、二つの論題を見比べている。
「まだ決めていないのか」
隣の学生が、少し苛立ったように訊いた。
「決めている」
「なら早く行け。後ろがつかえている」
「論題の書き方が不正確だ」
「投票が始まってから言うことか?」
レオンは黒鉛筆を取り、《記録は事実を選別する》の横へ印をつけた。
「記録は事実を証明する場合もあれば、選別する場合もある。この二つを対立概念として置く前提に無理がある」
「なら棄権すればいい」
「不正確な問いへ答えないことと、提示された選択肢のうち、より誤りの少ない方を選ぶことは別だ」
隣の学生は呆れたように息を吐いた。
「君と話していると、何も決まらなくなるな」
「不正確に決めるよりはいい」
レオンは立ち上がった。
十七歳。黒い髪に、学生としてはやや細い身体。顔色もあまりよくない。
学院では成績優秀者として知られている。それと同じくらい、授業中であろうと教官の誤りを指摘し、規則を守りながら、その規則を作った側の不備まで問い、褒められてもさほど喜ばず、嫌われても態度を改めない学生として知られていた。
レオンは用紙を集計器へ差し込んだ。
送りローラーが紙を引き込む。
左側の数字窓は二十三。
右側も二十三。
レオンの票が読み取られ、右だけが二十四へ進んだ。
「一票差か」
誰かが言った。
「まだ最後の一人がいる」
ローデン教官が講堂を見渡す。
一番前に座っていた女子学生が立ち、最後の票を投じた。
紙が集計器へ呑み込まれる。
数字が動いた。
左、二十四。
右、二十四。
一瞬の静寂のあと、講堂がざわめいた。
「同票?」
「四十七人で?」
「どちらかが二十四なら、もう一方は二十三のはずだろ」
ローデン教官が片手を上げると、ざわめきが少しずつ収まった。彼は数字窓を確かめてから、集計器の脇に立つアルノを見る。
「フェル。投票者は全員か」
「はい。高等予科第二組、在籍四十七名。欠席者はいません」
「投票者名簿を」
アルノは机に置いていた名簿を差し出した。
四十七の名前。それぞれの横に、投票済みを示す小さな確認印がある。
ローデン教官は上から下まで目を通した。
「重複は?」
「ありません」
「集計器の始動前確認は」
「左右とも零でした。教官にも確認していただきました」
「そうだったな」
全員の視線が、改めて集計器へ集まった。
二十四。
二十四。
合計、四十八。
「投票箱には、一票多い」
誰かが小さく呟いた。
その言葉が聞こえたのかどうかは分からない。
ただ、アルノの顔から血の気が引いた。
集計器へ最後に触れていたのは彼だ。朝、機械室から運び出し、給気管を接続し、試運転を行い、講堂へ設置した。投票中も、ずっと機械の脇に立っている。
「フェル」
「はい」
「試運転には何を使った」
「校正用の白紙です。読み取り針と数字送りをそれぞれ一度動かして、最後に数字を零へ戻しました」
「校正用紙は」
「試運転後、破棄箱へ入れました」
「確認した者は?」
アルノは答えられなかった。
試運転を任されたのは彼一人だった。
優秀だから任された。
信頼されていたから、立会人を付けなかった。
その信頼が、四十八という一つ多い数字によって、少しずつ疑いへ変わり始めている。
「教官」
レオンが声を上げた。
「何だ、クラウス」
「投票用紙そのものを数えてください」
「数字窓が四十八を示している」
「機械が四十八を示していることと、用紙が四十八枚あることは同じではありません」
ローデン教官は一瞬だけレオンを見た。
それから集計器下部の排出箱を開けさせる。
アルノが用紙を取り出した。
十枚ずつに分けて数えていく。
「十」
二束目。
「二十」
三束目。
「三十」
四束目。
「四十」
残った紙を一枚ずつ机へ置いていく。
「四十一、四十二、四十三、四十四、四十五、四十六、四十七……」
アルノの指が止まる。
まだ、一枚残っていた。
「四十八」
講堂のざわめきが戻った。
ローデン教官は四十八枚の用紙を見下ろし、ほとんど迷わず告げた。
「全票を無効とする。明日、別の用紙を使用して再投票を行う。集計は手作業だ」
「原因を調べないのですか」
レオンが訊いた。
「投票者四十七名に対して票は四十八枚。不正票を特定できなければ、この結果は成立しない」
「誰かが不正票を入れたと?」
「その可能性はある」
「集計器が一票を作った可能性は」
何人かの学生が笑った。
ローデン教官は笑わなかった。
「機械は紙を増やさない」
「人間も、これだけ見られている前で紙を増やすのは難しい」
「不可能ではない」
「では、誰が入れたのですか」
「それを今から調べる」
教官の視線がアルノへ向いた。
ほんの一瞬だった。
けれど、それだけで十分だった。
ほかの学生たちの視線も、自然と同じ場所へ集まっていく。
レオンはアルノを見た。
少年は怯えた顔をしていた。
ただ、レオンが見ていたのは表情ではなかった。
袖口。
指先。
集計器の鍵。
投票用紙の束。
そして机に並べられた四十八枚の紙。
「四十七人全員が投票した」
レオンは言った。
ローデン教官が眉を寄せる。
「だから何だ」
「なら、一枚は学生が投じた票ではありません」
◇
投票は無効とされた。
学生たちは午後の講義へ戻され、集計器と四十八枚の投票用紙は学院書記室へ移された。
事件ではない。
金銭も動いていない。成績にも、進級にも関係しない。
公開討論会の論題が、その日に決まらなかっただけだ。
翌日、もう一度投票すればいい。
誰も損をしない。
少なくとも学院側は、そう判断していた。
授業終了後。
レオンは書記室の前に立っていた。
扉の横には、仮処理票が掲示されている。
《春季公開講義論題選定投票》
投票者数、四十七名。
排出票数、四十八枚。
処理――投票無効。翌日再実施。
そして備考欄には、
《集計担当生徒による重複投入の可能性あり。確認継続》
と書かれていた。
レオンは、その一文をじっと見ていた。
「まだ帰っていなかったのか」
背後からローデン教官の声がした。
レオンは振り返らず、備考欄を指した。
「この記述は誰が書いたのですか」
「学院書記だ。私の報告をもとにしている」
「重複投入の証拠は?」
「《可能性あり》と書いてある」
「可能性なら、集計器の故障もあります」
「機械が用紙を一枚作ることはない」
レオンがようやく振り返った。
「同じ言葉を先ほど聞きました」
「なら理解しただろう」
「理解できないので、もう一度訊いています」
ローデン教官は疲れたように息を吐いた。
「フェルを処分するつもりはない。本人へ事情を聞き、異常が確認できなければ、それで終わりだ」
「終わりません」
「投票はやり直す」
「結果の話ではありません」
レオンは備考欄を指した。
「この記録では、アルノ=フェルが不正をした可能性だけが残ります」
「だから《可能性》だ」
「疑った事実は残る」
「処分されなければ実害はない」
「処分されなかったことと、疑われなかったことは同じではありません」
廊下の奥に人影があった。
アルノだった。
書記室へ呼ばれていたらしく、二人の会話を聞いていた。
「クラウス」
近づいてきたアルノが言った。
「もういい」
「何がだ」
「明日、再投票をすれば済む。教官も処分しないと言っている」
「この記録が残っても?」
「僕がやっていないことは、僕が知っている」
「記録を読む人間は知らない」
「読む者なんていないよ。公開講義の投票記録だ」
レオンは少し眉を寄せた。
「なら、なぜ記録する」
アルノは言葉に詰まった。
「読まれない記録なら、何を書いてもいいのか」
「そういう意味じゃない」
「君が構わなくても、四十八という数字は残る」
アルノはしばらく黙っていた。
やがて、少し戸惑ったように尋ねる。
「君は、僕を助けようとしているのか」
レオンはすぐには答えなかった。
考える。
そして、正確だと思う答えを選んだ。
「違う」
アルノの顔が固くなった。
「数字が合わないのが不愉快なだけだ」
「クラウス」
ローデン教官の声が低くなる。
「言い方というものがある」
「誤解される言い方はしていません」
「君は、誤解されない代わりに人を傷つける」
レオンはアルノを見た。
なぜ傷ついたのか。
すぐには分からなかった。
事実を述べた。
助けることが目的ではなかったので、そのように伝えた。
何が問題なのか、まだ理解できない。
それでも、それ以上同じ説明を繰り返す代わりに、ローデン教官へ向き直った。
「集計器を調べさせてください」
「学生だけで学院備品を分解させるわけにはいかない」
「教官が立ち会えばいい」
「なぜ私が」
「調べずに生徒を疑った記録を残した責任があります」
ローデン教官の眉が動いた。
アルノが小さく息を呑む。
廊下にいた学院書記は、聞こえなかったふりをして机へ目を落とした。
しばらくして、教官は短く言った。
「……日没までだ。機械室で確認する。勝手に部品へ触るな。フェルも来なさい。自分が整備した機械だ」
「はい」
「クラウス」
「何です」
「何も見つからなければ、仮処理票の記述に従う」
「見つからなければ、です」
◇
書記室の長机へ、四十八枚の投票用紙が並べられた。
窓の外では、学院時計塔の長針が午後五時へ近づいている。
レオンは一枚ずつ紙を確かめていった。
見ているのは投票内容ではない。
紙の色。
裁断幅。
厚さ。
透かし。
角の潰れ方。
送りローラーが残した細い圧痕。
黒い印が紙へ沈んだ状態。
「筆跡を比べるのではないのか」
ローデン教官が訊いた。
「印を一つ付けただけです。筆跡としての情報が足りません」
「では、何を見る」
「誰の手でもない票です」
レオンは一枚を取り上げた。
「これだけ、幅が狭い」
アルノが定規を当てる。
ほかの四十七枚より、わずかに細い。
二ミリにも満たない差だった。
重ねなければ、まず気づかない。
「裁断機のずれでは?」
アルノが言った。
「今年の用紙は一括裁断されている。四十七枚は同じ幅だ」
レオンはその紙を窓の光へ透かした。
「年度透かしもない」
学院の投票用紙には、年度ごとに異なる小さな透かしが入っている。不正な再利用を防ぐためのものだった。
問題の一枚には、今年の透かしがない。
代わりに、紙の端近くへ薄く潰れた古い学院章が見える。
「以前の用紙?」
アルノが覗き込んだ。
「少なくとも今年の票ではない」
レオンは拡大鏡を取り、票の黒い印を確かめた。
「これも黒鉛ではありません」
ローデン教官も横から見る。
「何だ」
「印刷用の黒色顔料です。鉛筆なら、紙の繊維表面に擦れが残る。これは均一に沈んでいる」
「誰かが以前の用紙を使い、印刷機で印を付けた?」
「公開講義の論題一つを変えるために?」
「不可能ではない」
「可能性だけなら、神が投票した可能性も残せます」
「クラウス」
「ですが、その仮定は必要ありません」
レオンは紙の一角を示した。
古い機械油の染み。
そして細く、強い折れ跡。
折れ目に沿って紙繊維が毛羽立っている。
「長いあいだ、何かの内部で圧迫されていた痕跡があります」
アルノが集計器を見た。
「校正票……?」
「前年の整備台帳はありますか」
アルノはすぐに機械室の書棚へ向かった。
年度ごとに束ねられた整備記録を調べる。
前年。
春季公開講義。
論題選定投票。
集計器、第二号機。
試運転。
読み取り針、正常。
数字送り、正常。
排出機構――。
アルノの指が止まった。
「ここです」
台帳を長机へ置く。
前年の学生整備担当者による記録があった。
《校正票一枚、排出確認不能》
その下には、教官の筆跡による追記。
《機構内残留なしと判断。試運転完了》
「《確認した》とは書かれていない」
レオンが言った。
「《残留なしと判断した》」
「言葉の違いだ」
ローデン教官が答える。
「違います」
レオンは台帳から目を上げた。
「排出されたことを確認していないから、《判断した》と書いた」
そして集計器へ視線を移す。
「前年の校正票が、まだ内部に残っていた可能性があります」
「一年間も?」
「この集計器は、公開行事の投票にしか使われない。通常は機械室で保管されている」
アルノも頷いた。
「去年の投票後は、一度も動かしていません。今日、僕が試運転するまで」
「朝の試運転では出なかったのか」
「校正紙を一枚ずつ通しました。数字送りだけの確認だったので、低圧で」
「本番では四十七枚を連続して通した」
レオンは集計器の外装近くへ手を寄せた。
まだ少し熱が残っている。
「蒸気管が熱を持ち、送りローラーが長く動いた。その振動か熱で、内部へ貼り付いていた前年票が剥がれ、今年の票と一緒に排出された」
ローデン教官は少し考えてから言った。
「内部を確認する」
アルノが給気弁を閉じた。
圧力計が零まで落ちるのを待つ。
側面板の封印ねじを外す。
レオンは手を出さず、外から内部を見ていた。
黒鉄の送りローラー。
読み取り針。
二方向へ票を振り分ける案内板。
その裏側。
狭い隙間へ、古い紙の繊維が残っていた。
油で黒ずんだ、象牙色の毛羽立ち。
アルノが小さな鑷子で採取し、四十八枚目の折れ目へ残る繊維と見比べる。
色も、太さも同じだった。
「ここに挟まっていた」
アルノが言った。
「それが今日、剥がれたんだ」
ローデン教官は、もう一度前年の整備記録を見た。
《排出確認不能》
《機構内残留なしと判断》
そして今年。
四十七人。
四十八票。
「では、不正投票ではない」
「最初から、その証拠はありませんでした」
レオンが答えた。
「クラウス」
「何です」
「今は、私が認めようとしたところだ」
「事実は、認められる前から事実です」
ローデン教官は額へ手を当てた。
「君は、いつか必ず上官を怒らせる」
「間違っていれば訂正します」
「上官を?」
「記録を」
横でアルノが笑った。
緊張が解けたのだろう。
ほんの短い笑いだった。
「君は本当に、数字が合わなかっただけなんだな」
「そう言った」
「僕が疑われていたことは?」
「それも、数字が合わなかった結果だ」
「心配はしていなかった?」
レオンがアルノを見る。
「何を」
「僕が処分されるかもしれないことを」
少し考えたあと、レオンは答えた。
「証拠がない以上、処分は成立しない」
「そういう意味じゃない」
「では、どういう意味だ」
アルノは、また笑った。
今度は少し呆れたような笑いだった。
「分からないなら、いい」
レオンは眉を寄せた。
分からないままにされることを、彼は好まなかった。
だがアルノは、それ以上説明しなかった。
◇
四十八枚目の紙は、前年の校正票だった。
その票には、《記録は事実を選別する》側へ試験印が付けられていた。
それを除いた正しい集計は、
《記録は事実を証明する》 二十四票。
《記録は事実を選別する》 二十三票。
翌日の再投票は中止され、春季公開講義の論題は《記録は事実を証明する》に決まった。
「君の選んだ方は負けたな」
機械室から書記室へ戻る途中、アルノが言った。
「そうだな」
「不満ではないのか」
「論題そのものには同意していない」
「なら、再投票にした方がよかったんじゃないか。一票差だ。明日なら結果が変わるかもしれない」
「変わるかもしれないな」
「それでも、この結果を採用する?」
「これは今日、四十七人が投じた結果だ。明日の四十七人が投じる結果とは違う」
「同じ学生だよ」
「今日の騒ぎを知った時点で、同じ条件ではない」
アルノは少し考えた。
「君は《記録は事実を選別する》へ投票したんだろう?」
「ああ」
「その投票記録を守るために、《記録は事実を証明する》が選ばれる結果を確定させた」
「矛盾はない」
「僕には、少し皮肉に見える」
「皮肉は事実の側に言ってくれ」
◇
学院書記は、仮処理票を書き直すことになった。
最初の備考。
《集計担当生徒による重複投入の可能性あり。確認継続》
書記がその一文へ赤い訂正線を引こうとしたところで、レオンが止めた。
「消すだけでは不十分です」
「訂正線を引き、訂正印を押す」
「それでは、なぜ疑いが誤りだったのか分からない」
「詳細は整備記録へ残す」
「この処理票を読む者が、整備記録まで照会するとは限りません」
書記が少し苛立ったように顔を上げた。
「では、どう書けと?」
レオンは答えた。
「《前年校正票が集計機構内へ残存し、現行票へ混入。集計担当生徒の操作に異常なし》」
「長すぎる」
「必要な長さです」
「投票結果の処理票だぞ」
「だから、投票結果に関係する事実を書くべきです」
学院書記はローデン教官を見た。
教官は、その日一日の疲労を吐き出すように長く息をついた。
「書いてやれ」
「しかし――」
「書かなければ、この学生は日が暮れても帰らん」
レオンが窓を見る。
煤霧に沈み始めた中庭では、ガス灯が一つずつ灯されていた。
「もう暮れています」
「分かっている。だから言っている」
書記は新しい処理票を取り出した。
一文字ずつ、レオンが求めた内容を書いていく。
《前年校正票が集計機構内へ残存し、現行票へ混入》
《集計担当生徒の操作に異常なし》
最後に、ローデン教官の確認印。
学院書記の訂正印。
そしてアルノ=フェルの立会署名。
レオンは、すべてを読み終えてから言った。
「これでいい」
「君の許可を求めた覚えはない」
ローデン教官が言う。
「では、独り言です」
「君の独り言は、相手を怒らせるためにあるのか」
「その意図はありません」
「意図がなければ許されると思うな」
アルノは署名を終え、ペンを置いた。
「クラウス」
「何だ」
「ありがとう」
レオンは訂正済みの処理票を見たまま答えた。
「君のために調べたわけではない」
「知っている」
「数字が合わなかっただけだ」
「それも聞いた」
「なら、礼を言う理由はない」
「それでも、助かった」
レオンは答えなかった。
アルノが何を求めているのか、まだよく分からない。
礼を受け取ればいいのか。
《助かった》という事実に頷けばいいのか。
数字の不一致を直しただけだと、もう一度説明すべきなのか。
考えているうちに、アルノは鞄を持ち上げた。
「明日から、機械の試運転には立会人を付けるそうだ」
「当然だ」
「僕一人では信用できないから?」
「違う」
レオンはそこまで言ってから、少し考えた。
「君一人を守るためでもある」
言葉は、考えがまとまりきるより先に出ていた。
アルノが足を止める。
レオン自身も、わずかに目を動かした。
「作業が正しかったと証明できる人間がもう一人いれば、次に何か起きても、君一人だけを疑うことはできない」
アルノはしばらくレオンを見ていた。
「それを最初に言ってくれればよかったのに」
「今、気づいた」
「君にも、あとから気づくことがあるんだな」
「ある」
「少し安心したよ」
アルノは笑って、廊下の向こうへ歩いていった。
レオンはその背中を見送った。
何に安心したのか。
それは、まだよく分からなかった。
◇
学院の正面玄関には、一人の若い男が待っていた。
上等な濃灰色の外套。白い手袋。黒い革鞄。
まだ二十代半ばほどだが、学生とは明らかに違う落ち着きを身につけている。
エドガー=クラウス。
レオンの兄だった。
「遅い」
弟の姿を認めると、最初にそう言った。
「学院から連絡があった」
「何と」
「君が公開講義の投票結果を止め、集計器を開けさせ、教官と書記へ報告書の訂正を要求していると」
「事実だ」
エドガーは一度だけ目を閉じた。
「もう少し、誤解の余地がある説明を期待したよ」
弟の肩越しに学院内を見る。
「怪我人は?」
「いない」
「盗難は」
「ない」
「金銭上の損害」
「ない」
「成績への影響は」
「ない」
「では、何が起きた」
「一票多かった」
エドガーは黙った。
「一票?」
「投票者は四十七人。票は四十八枚」
「それで学院を半日止めたのか」
「止まってはいない。午後の授業は通常どおり行われた」
「君は出ていないだろう」
「必要な調査があった」
「学生の本分について、学院と見解が違うようだな」
二人は学院を出た。
夕方の煤霧が、正面石段を薄く覆っている。
通りでは帰宅する学生たちが、蒸気乗合車へ次々に乗り込んでいた。
エドガーは弟から訂正済み処理票の写しを受け取り、歩きながら目を通した。
「前年校正票の残留」
「ああ」
「集計担当者への疑いは訂正済み」
「ああ」
「投票結果も確定した」
「二十四対二十三」
「なら、再投票でもよかっただろう」
レオンが兄を見る。
「再投票では、四十八票あった理由は消えない」
「結果は出し直せる」
「疑われた記録は残る」
「処分されなければ、実務上の影響は少ない」
「少ないだけで、ないわけではない」
エドガーは処理票を折り、弟へ返した。
「君は相変わらず、一つの言葉へ時間を使いすぎる」
「兄さんは相変わらず、一つくらいなら数から消しても構わないと思っている」
「消すとは言っていない」
「では?」
「正しい場所へ戻すだけだ」
「誰が正しい場所を決める?」
「規則と責任者だ」
「責任者が間違えた場合は?」
「上位の責任者が訂正する」
「その上が間違えたら」
「さらに上だ」
「一番上が間違えた場合は?」
エドガーは足を止めた。
煤霧の向こうに、学院の時計塔が見える。
決められた時刻を、決められた針で、決められた文字盤の上へ示している。
「それを学ぶために、君は学院へ通っているんじゃないのか」
エドガーが言った。
「学院が間違えた」
「だから、君が訂正したんだろう」
「学院の規則に従って」
「なら制度は動いている」
「今日は」
エドガーの目が少し細くなる。
「君は制度が一度間違えただけで、すべてを疑うつもりか」
「一度間違えたことを、間違えなかったことにはしない」
エドガーは弟を見た。
面倒そうではあった。
けれど、ただ呆れているだけではない目だった。
「レオン」
「何だ」
「学院で友人はできたか」
「今、その話に関係があるのか」
「ない」
「なら訊くな」
「答えで分かったよ」
二人は再び歩き始めた。
「アルノ=フェルは友人ではない」
「私は名前を聞いていない」
「集計担当の学生だ」
「その学生への疑いを訂正させた?」
「数字が合わなかっただけだ」
「そうか」
エドガーが小さく笑った。
「何がおかしい」
「君が将来、同じ言葉を何度使うことになるのかと思ってね」
「同じ状況が何度も起きるとは限らない」
「起きるよ」
「なぜ分かる」
エドガーは前を向いたまま答えた。
「君が、見つけに行くからだ」
レオンは何も言わなかった。
二人は学院前を離れ、霧の深い通りへ入っていく。
エドガーは、歩く速度をほんの少し落とした。
弟に合わせたとは言わない。
レオンも、それに気づいたとは言わなかった。
「君は本当に、面倒な学生だな」
エドガーが言う。
「学院が不正確なんだ」
「その返答が面倒だと言っている」
「兄さんの質問も不正確だ」
「訂正する気はない」
「記録しておく」
「好きにしろ」
若い兄弟の声が、煤霧の通りへゆっくり遠ざかっていった。
観測余録 誰のものでもなかった一票
その日の学院記録には、集計器第二号機の整備不備と、前年の校正票が一枚、機構内へ残っていたことが記されました。
正しい投票結果は二十四対二十三。
そして、集計を担当した学生の操作には異常がなかったことも、同じ紙へ書き加えられました。
誰も処分されませんでした。
誰かが不正をした事実もありませんでした。
公開講義の論題も、正しい四十七票によって決まりました。
けれど、後に偽装記録の探偵と呼ばれることになる少年が、なぜ最後まで一枚の処理票へこだわったのか。その理由を記した紙は、どこにもありません。
本人も、誰かを守ったとは考えていなかったでしょう。
彼が最初に見ていたのは、四十七と四十八のあいだにある、たった一つの矛盾でした。
ただ、その一票がどこから来たのかを確かめ、正しい時刻と正しい記録へ戻したことで、疑いの欄へ置かれていた一人の学生の名前も、元の場所へ戻りました。
誰かを守ろうとしなければ、誰も守れないとは限らないようです。
数字を一つ正しい場所へ戻したことが、あとから見れば、人の名前を守っていたこともあります。
そして少年自身も、その日の終わりにようやく一つだけ気づきました。
一人で正しく作業したという記録だけでは、ときに足りないこと。
その正しさを、別の誰かが確かめられるようにしておくことも、記録の役目なのだと。
だから私は、誰のものでもなかった四十八枚目の票を覚えています。
投票結果を変えるためではなく。
一人の少年が、数字の向こうにある人の名前へ、ほんの少しだけ近づいた日の記録として。
――ナミ=エル




