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黒鴉館の鍵は一本多い

観測余録 捨てられなかった鍵


 住居には、記録があります。


 誰が借りたのか。いつ入居し、どの部屋を使い、どれだけの家賃を払い、いつ契約を終えたのか。


 けれど、誰かが家へ帰ったことのすべてが、入居記録へ残るわけではありません。


 一晩だけ眠った人。


 住所を持たず、荷物だけを預けた人。


 明日には戻ると言って出ていき、そのまま帰らなかった人。


 そして、その人が帰らないかもしれないと分かっていても、鍵を捨てなかった人。


 黒鴉館には、長いあいだ一本だけ余っていた鍵がありました。


 どの扉にも合わないように見え、持ち主でさえ何の鍵なのか思い出せない。


 それでも、その鍵だけは鍵束から外されませんでした。


 これは、壁の向こうへ閉じられていた小さな部屋と、そこへ帰ってこなかった人たちの記録です。


 ――ナミ=エル

 黒鴉館では、一年に二度、大掃除が行われる。


 正確には、マルタ=グレインが一年に二度、住人たちへ大掃除を命じる。


 そして命じられた者たちが掃除の必要性について異議を申し立て、マルタがそれを却下し、結局は全員が働かされる。


 その一連の手続きまでを含めて、黒鴉館の大掃除と呼んでいた。


「事件記録は動かすな」


 二階の探偵事務所で、レオン=クラウスが言った。


「掃除をするなら、棚の上だけにしろ」


 マルタは箒の柄で彼の机の脚を軽く叩いた。


「棚を動かさなきゃ、棚の下は掃除できないだろ」


 机の上には、紐で綴じた記録束、封蝋の標本、拡大鏡、事件現場から回収された用途不明の金属片、使いかけの黒鉛筆、飲みかけの珈琲、そして三日前から同じ場所に置かれている空の皿まで並んでいた。


 どこまでが必要な資料で、どこからが単なる片づけ忘れなのか。


 持ち主以外には判別できない。


「棚の下には何もない」


 レオンが言うと、マルタは呆れた顔をした。


「見たのかい」


「見なくても分かる」


「掃除をしない人間が、埃の有無を推理するんじゃないよ」


 窓辺で硝子を拭いていたミラベル=ワトリアが、思わず顔を伏せた。


 布の向こうで、窓硝子が小さく鳴る。


「何がおかしい」


「いいえ」


「今、笑っただろう」


「記録しておきましょうか」


「何を」


「レオンさんは棚の下を見ずに、何もないと断定した、と」


「掃除の記録は不要だ」


「あとで埃が出たら訂正できます」


 レオンはミラベルを見た。


 次にマルタを見る。


 二対一。


 議論を続けても結論は変わらないと判断したらしく、椅子から立ち上がると、机上の記録束を一つずつ木箱へ移し始めた。


「一時間だ」


「何がだい」


「私が掃除へ協力する時間だ」


「終わるまでだよ」


「一時間で終わらせればいい」


「普段から片づけていればね」


 マルタは言い捨て、腰へ下げていた大きな鍵束を丸机の上へ置いた。


 重い金属音がする。


 真鍮。


 黒鉄。


 銀色の合金。


 大小さまざまな鍵が、太い輪へまとめられていた。


 それぞれには小さな真鍮札が付いている。


 《正面玄関》


 《厨房》


 《食品庫》


 《二階事務所》


 《三階一号》


 《三階二号》


 《三階三号》


 《屋根裏》


 《地下石炭庫》


 《裏門》


 長く使われた札は角が丸くなり、文字の溝には薄く油と煤が入り込んでいる。


「ずいぶん多いですね」


 ミラベルが布を置き、鍵束を覗き込んだ。


「建物一軒分だよ。少ない方さ」


「全部、覚えているんですか」


「大家を何だと思ってる」


「家賃を取り立てる人」


 レオンが横から言った。


「それは仕事の一部だよ」


「最も熱心な部分だ」


「滞納する奴がいるからね」


 マルタの視線がレオンへ向く。


 レオンは木箱へ資料を移したまま、目を合わせなかった。


 ミラベルは気にせず、真鍮札を一枚ずつ読んでいく。


「正面玄関、厨房、食品庫、地下石炭庫、裏門……」


「遊んでないで窓を拭きな」


「確認しているんです」


「何を」


「黒鴉館に、扉がいくつあるのか」


 ミラベルは鍵を指先で分けた。


「十三本ですね」


「そうだよ」


 マルタは即答した。


 その直後、ミラベルの指が止まる。


「十四本あります」


 部屋が静かになった。


 暖炉の中で、石炭が一つ崩れた。


「数え間違いだろう」


「もう一度、数えます」


 ミラベルは鍵を一つずつ丸机へ並べていった。


 札の付いた鍵が十三本。


 最後に残ったのは、札のない古い鍵だった。


 黒ずんだ鉄。


 細長い軸。


 現在使われている物より大きく、単純な形をした歯。


 握りの輪は、長く使われたせいか片側だけ薄くなっている。


「十四本です」


 ミラベルが言った。


「これは、どこの鍵ですか?」


 マルタは札のない鍵を見つめた。


 眉を寄せる。


「知らないね」


「知らない?」


 レオンが振り返った。


「知らない鍵を、大家が毎日持ち歩いているのか」


「使わない鍵まで、いちいち覚えてられるかい。外し忘れたんだろう」


 レオンは鍵を取り上げた。


 灯りの下で、軸、歯、握り、表面の傷を順番に確かめていく。


 マルタが箒を握り直した。


「今度は鍵の推理かい」


「鍵は、扉より正直だ」


「棚の下を見ずに埃の有無が分かる探偵が言うことかね」


 レオンは聞いていなかった。


「これは、現在の黒鴉館の鍵ではない」


 ミラベルが近づく。


「見ただけで分かるんですか?」


「軸が長すぎる。錠前の内部へ深く差し込む旧式だ。歯の削り方も違う。現在使用されている十三の錠前とは製造年代が一致しない」


「では、別の建物の鍵?」


「可能性はある」


 レオンは鍵の歯へ爪を当てた。


「最近使われた痕跡もない。錠へ差せば、歯の角に新しい擦過痕が残る。油も古い。少なくとも数年は使われていない」


「事件ではなさそうですね」


「鍵が一本余っている事実と、事件ではないという判断は別だ」


 マルタが低い声で言う。


「始める気かい」


「何を」


「掃除を放り出して、館中の鍵穴へ差して歩くんだろ」


「扉を確認するだけだ」


「それを始めると言うんだよ」


 レオンは鍵を持ったまま扉へ向かった。


「三十分で済む」


「掃除の時間に含めるんじゃないよ」


     ◇


 最初に試したのは、二階事務所の扉だった。


 当然、合わない。


 次に廊下奥の収納戸。


 階段下の物入れ。


 一階の食品庫。


 厨房裏の乾物棚。


 地下石炭庫。


 裏門。


 三階の下宿部屋。


 屋根裏。


 どこへ差しても、鍵は途中で止まった。


「だから言っただろう」


 後ろからついてきたマルタが、何度目か分からない同じ言葉を口にする。


「今の黒鴉館の鍵じゃない」


「現在の鍵ではないとは言ったが、黒鴉館の鍵ではないとは言っていない」


「同じだよ」


「違う」


「面倒だね」


 三階二号室の前で、レオンは鍵を抜いた。


 横ではミラベルが確認表を作っている。


 試した場所。


 適合の有無。


 鍵穴の形状。


「記録する必要があるのかい」


 マルタに聞かれ、ミラベルは顔を上げた。


「同じ場所を二度試さないためです」


「一度で覚えな」


「レオンさんが順番を変えるので」


「錠前の年代順に確認している」


「私には説明していませんでした」


「今した」


「では追記します」


 ちょうど三階二号室の扉が開き、エルフの下宿人が顔を出した。


 寝巻きの上から外套を羽織っている。


「何かありましたか?」


「掃除だよ」


 マルタが答えた。


「探偵さんが鍵穴を調べていましたが」


「掃除から逃げてるのさ」


「調査だ」


「同じだよ」


 下宿人は納得したのかしていないのか分からない顔をして、静かに扉を閉めた。


 三人は二階へ戻った。


 途中で、レオンが自分の机の右側にある、小さな鍵付きの引き出しへ目を向ける。


 ミラベルも同じ場所を見た。


「まだ、そこを試していません」


「関係ない」


 レオンが即答した。


「合う可能性はあります」


「ない」


「試していません」


「私の引き出しだ」


「黒鴉館の中にはあります」


「借りている部屋の備品ではない。私物だ」


 階段の途中から、マルタが言う。


「家賃を三月ためたら、あたしの引き出しになるよ」


「そういう契約はしていない」


「滞納者に契約を選ぶ権利があると思うのかい」


「現在の滞納は一月分だ」


「今月末には二月だよ」


「まだ月末ではない」


「そういう細かいところだけは正確だね」


 ミラベルは鍵を差そうとした手を引っ込めた。


「今回はやめておきます」


「今回は?」


 レオンが聞き返す。


「調査の必要が生じた場合は」


「生じない」


 結局、鍵はどこにも合わなかった。


 正午を過ぎ、ミラベルが窓を二枚拭き終え、レオンが棚を一つだけ動かし、マルタの機嫌が大掃除開始時より確実に悪くなったころ。


 三人は一階の《煤鳩亭》へ戻った。


 札のない鍵を丸机へ置く。


「別の建物の鍵でしょうか」


 ミラベルが言った。


「可能性は高い」


 レオンが答える。


「マルタさんが昔住んでいた家とか」


「覚えてないね」


「鍵を束へ付けたことも?」


「ない」


「前の大家の物では?」


 マルタは腕を組んだ。


「この鍵束は、黒鴉館を引き継いだときから使ってるんだよ。古い鍵も、要らない鍵も、最初は山ほど付いてた」


「そのとき整理した?」


「使わない物は外した」


 レオンがマルタの顔を見る。


「それなのに、これだけ残した」


「だから忘れたんだろ」


「本当に忘れた物なら、使えないと分かった時点で捨てる」


「人の物を勝手に決めるんじゃないよ」


「では、捨てるか」


 レオンが鍵をつまみ上げた。


 その瞬間、マルタの手が伸びる。


 彼の手首を、箒よりも速く掴んだ。


「誰が捨てていいと言った」


 沈黙が落ちた。


 ミラベルが二人を見比べる。


 レオンは掴まれた手首から鍵へ視線を移し、それからマルタを見る。


「知らない鍵だと言った」


「知らないからって、捨てていいとは言ってない」


「では、知っている」


「しつこいね」


「それが仕事だ」


「今日は掃除をする日だよ」


 マルタは鍵を取り返し、丸机へ戻した。


「昼飯にする。食べたら棚を動かすよ」


 そのまま厨房へ入る。


 扉が少し強く閉まった。


 ミラベルが小声で言った。


「何か覚えているんでしょうか」


「少なくとも、処分したくない理由はある」


「聞き出します?」


「聞いて答えるなら、先ほど答えている」


「では?」


 レオンは丸机の鍵を見つめた。


「記録を調べる」


「掃除は?」


「記録棚を整理する」


「それは掃除に入るんですか?」


「入る」


 厨房からマルタの声が飛んだ。


「入らないよ!」


     ◇


 黒鴉館の建物台帳は、二階の探偵事務所ではなく、一階の管理棚に保管されていた。


 家賃帳。


 修繕帳。


 灯油購入記録。


 石炭納入票。


 水道管の交換記録。


 過去の入居契約書。


 黒鴉館の住人についてなら、レオンの事件記録より詳しい紙が並んでいる。


 ただし、マルタの整理方法は、レオンとはずいぶん違っていた。


 レオンの資料は、事件、年月日、証拠の種類ごとに細かく分類されている。


 一方、マルタの棚には、


 《まだ使う》


 《たぶん使う》


 《使わないが捨てると困る》


 《誰のか分からない》


 という札が並んでいた。


「これは分類ではない」


 レオンが言う。


 ミラベルは《誰のか分からない》箱を開いた。


「分類されていますよ。誰のか分からない物がまとめられています」


「それは状態だ」


「実用的ではあります」


「持ち主の分からない物を一つに集めれば、余計に分からなくなる」


「聞こえてるよ」


 厨房からマルタが言った。


「勝手に人の帳面を読むんじゃない」


「鍵を調べている」


「昼飯のあとにしな」


「煮込みができるまでの時間を有効に使っている」


「棚を動かしな」


「記録棚を動かしている」


「中身を読んでるだけだろう!」


 ミラベルは笑いをこらえながら、古い建物図面を広げた。


 現在の黒鴉館。


 一階に《煤鳩亭》。


 二階に探偵事務所と居室。


 三階に下宿部屋。


 屋根裏。


 地下石炭庫。


 壁と扉の位置が細い線で記されている。


「現在の図面では、扉は十三です」


「鍵札と一致する」


 レオンは別の束から、さらに古い図面を引き出した。


 紙は黄ばみ、端が湿気で波打っている。


 まだ一階が喫茶店ではなく、共同食堂だったころの図面らしい。


「こちらには……」


 ミラベルの指が止まった。


 二階。


 現在の探偵事務所と、階段踊り場の間。


 人一人が横になればほとんど埋まってしまいそうな、狭い長方形の区画が描かれている。


 部屋番号も用途もない。


「部屋が一つ多い」


「扉もある」


 レオンは図面を持ち上げた。


 今は壁になっている、二階事務所へ入る前の短い廊下。


 古い図面には、そこへ内開きの扉が描かれていた。


「改装記録を」


 三人の昼食より先に、修繕帳が探し出された。


 十八年前。


 外壁補修。


 厨房煙道交換。


 二階床板補強。


 そして、その下に小さな文字。


 《二階奥小室、壁戸閉鎖。火気設備なし。錠前は保存》


 筆跡はマルタのものではない。


「先代の記録ですね」


 ミラベルが言った。


「錠前は保存」


 レオンは札のない鍵を見る。


「なら、鍵も保存された可能性が高い」


 そのとき厨房の扉が開いた。


 マルタが煮込み鍋を持ったまま、二人の広げた図面と修繕帳を見る。


 深くため息を吐いた。


「昼飯だよ」


「二階奥小室とは何だ」


「食べてからにしな」


「知っているな」


「忘れてたと言っただろ」


「忘れていた人間は、その名前を聞いてすぐ否定しない」


「忘れていた部屋が見つかった。それでいいじゃないか」


 マルタは煮込みを三つの皿へ注いだ。


「鍵が合うかどうか、食後に試せばいい」


 ミラベルが少し驚いた。


「止めないんですね」


「止めたって行くだろう」


「正しい判断です」


 レオンが椅子へ座る。


「褒めてないよ」


     ◇


 二階事務所の外。


 古い図面で扉が描かれていた場所には、本棚が置かれていた。


 レオンとミラベルが本を下ろし、三人で棚を横へ動かす。


 その背後には、煤けた壁紙が続いていた。


 一見すると、普通の壁にしか見えない。


 レオンは指の腹で表面をなぞった。


 縦に一本、ごく細い盛り上がり。


 床近くでは、巾木が途中で切れている。


「壁ではない」


 レオンが言った。


「木製の扉へ壁紙を貼っている」


 マルタは腕を組む。


「ずいぶん丁寧に塞いだもんだね」


「本当に忘れていたのか」


「昔の改装全部を覚えてるわけじゃないよ」


「自分で塞いだのでは?」


「先代のころだ」


 レオンは壁紙の端へ薄い刃を差し込み、切らずに少しだけ浮かせた。


 下から黒ずんだ鍵穴の金具が現れる。


「ありました」


 ミラベルが言った。


 札のない鍵を差し込む。


 今までの錠前とは違い、軸は最後まで入った。


 レオンがゆっくり回す。


 内部で重い金属が動く。


 かちり。


「開いた」


 取っ手のない扉へミラベルが手を掛ける。


 わずかに動いた。


 けれど、数センチで止まる。


「何かが内側へ倒れている」


 レオンが隙間へ目を寄せる。


「木箱だな」


「押せば開きませんか」


「中身が壊れる」


「何が入っているか分からないでしょう」


「分からないから壊さない」


 マルタが鼻を鳴らした。


「そこだけは慎重だね」


「事件資料と同じだ」


「部屋だよ」


 ミラベルは鞄から薄い金属定規を取り出した。


「隙間から動かしてみます」


 マルタが目を丸くする。


「いつも定規を持ち歩いてるのかい」


「取材先で印刷物や傷跡の大きさを測ることがありますから」


「記者ってのも妙な物を持ってるね」


「探偵よりは普通です」


「比較対象が悪い」


 定規を隙間へ差し込み、内側の木箱へ当てる。


 少しずつ押す。


 床を擦る音。


 一センチ。


 二センチ。


 やがて、古い埃と乾いた木の匂いが流れ出してきた。


     ◇


 窓のない小部屋だった。


 天井は低い。


 奥行きは二メートルほど。


 人一人が横になれば、それだけでほとんど埋まってしまう。


 壁際には細い棚。


 床には木箱。


 古い毛布。


 留め金の壊れた旅行鞄。


 欠けた皿。


 蓋の曲がった昼食箱。


 鉄道員の制帽。


 文字盤の割れた目覚まし時計。


 金になる物は、ほとんどない。


 秘密の財宝も。


 犯罪の証拠も。


 失踪者の遺体もない。


 ただ、誰かが暮らし、誰かが去ったあとに残る物だけがあった。


「物置ですね」


 ミラベルが言う。


「最初から物置だったわけじゃない」


 答えたマルタの声は、それまでより少し低かった。


「鉄道員の仮眠部屋だよ」


 レオンが振り返る。


「知っているじゃないか」


「見れば思い出すこともある」


「便利な記憶だ」


「あんたの推理よりは役に立つよ」


 マルタは小部屋へ入り、古い毛布を持ち上げた。


 埃が舞う。


 その下から、薄い革表紙の帳面が出てきた。


 ミラベルが開く。


 通常の家賃帳とは形式が違う。


 部屋番号。


 契約開始日。


 月額家賃。


 そうした欄がない。


 最初の頁には、大きく、


 《帰着待ち》


 と書かれていた。


 その下に複数の名前。


 横には短い記述。


 《荷物一箱。西部線より帰着予定》


 《外套一着。冬まで保管》


 《三日宿泊。工房再雇用まで》


 《連絡なし》


 《未帰着》


 日付は不完全だった。


 家賃額もない。


 代わりに、


 《食堂手伝い二日》


 《煙道掃除》


 《石炭運搬》


 《支払い不要》


 と書かれた欄もある。


「正式な下宿人ではないんですか?」


 ミラベルが尋ねた。


「正式な部屋じゃないからね」


 マルタは棚の昼食箱を手に取った。


 煤けた側面には名前が刻まれていたらしいが、今ではほとんど読めない。


「昔は、鉄道の仕事と寝床が一緒になってたことも多かったんだ。仕事を失えば、その日のうちに住む場所もなくなる。次の雇い口が見つかるまで、一晩か二晩ここへ泊めた」


「無許可で?」


 レオンが聞く。


「許可が要るほど立派な部屋に見えるかい」


「火災基準には違反している」


「だから塞いだ」


「それまでは?」


「火事は出してない」


「結果の話ではない」


「あんたが言うと腹が立つね」


 マルタは昼食箱を棚へ戻した。


「鉄道員だけじゃない。工房を追い出された奴。下宿代を使い込んだ馬鹿。夫と喧嘩して、一晩だけ家へ帰りたくなかった女。船を降りたのに次の船賃がなかった奴。いろいろさ」


「名簿は?」


「これだけ」


「住民登録は?」


「してない」


「事故があった場合は?」


「その人間として警察へ説明した」


「誰としてではなく?」


「だから、その人間としてだよ」


 レオンは何か言いかけ、やめた。


     ◇


 ミラベルが家賃帳をめくる。


 最後の頁。


 そこに、一人だけ長く残っている名前があった。


 《エドラム=ヴォス》


 《西環貨物線へ出発》


 《三日後帰着予定》


 《制帽一。昼食箱一》


 《未帰着》


 ミラベルは棚の制帽を取り、内側を確かめた。


 汗止めの革へ、薄く名前が書かれている。


 エドラム=ヴォス。


「この人は?」


「知らない」


 マルタが答えた。


 レオンが見る。


「今度は本当に知らないのか」


「顔は覚えてるよ」


「それを知っていると言う」


「その後を知らないんだ」


 マルタは制帽を受け取り、表面の埃を手で払った。


「貨物線へ乗ると言って出た。三日で戻ると。それきり」


「事故記録は?」


「なかった」


「失踪届は」


「出した」


「結果は?」


「該当者なし。会社の雇用記録には、似た名前が一つあった。でも綴りが違った。年齢も違った。それで終わり」


「別の土地へ移った可能性は」


「あるだろうね」


「名を変えた」


「あるかもしれない」


「帰りたくなくなった」


「それもある」


「死亡した可能性も」


 マルタは答えなかった。


 ただ、制帽のつばを親指でゆっくり撫でる。


 革の裏には、細い糸で何度も縫い直した跡があった。


「帰らなかった者の荷物を、二十年近く残したのか」


 レオンが言った。


「全部じゃないよ」


 マルタの声は、いつもの調子へ戻っていた。


「腐る物は捨てた。服は使える奴に回した。売れる物でも、本人に借金がなければ勝手には売らなかった。家賃の代わりに置いていった物は別だけどね」


「では、なぜこれは残した」


 レオンが制帽を示す。


 マルタは少しだけ眉を寄せた。


「帰ってきたとき、自分の物が一つもなかったら困るだろ」


「二十年だ」


「遅い客もいる」


「戻らない可能性の方が高い」


「だから何だい」


 マルタは制帽を棚へ戻し、レオンを正面から見た。


「帰らないって決まった記録があるのか」


 レオンは答えなかった。


 死亡記録はない。


 遺体もない。


 失踪届は《該当者なし》で閉じられている。


 帰った記録もない。


 帰らなかったことを確定する記録もない。


 残っているのは、二十年という長い時間だけだった。


「記録がなければ、いつまでも待つのか」


 レオンが聞いた。


「待ってるわけじゃない」


 マルタは答えた。


「毎日、扉を開けて座ってたわけでもない。部屋は塞いだ。使える物は使った。忘れてたくらいだ」


「それでも、鍵は捨てなかった」


「鍵束に残ってただけだよ」


「そうか」


 レオンは、それ以上追及しなかった。


     ◇


 午後になるころには、大掃除は小部屋の整理へ変わっていた。


 マルタは残された物を、一つずつ手に取っていく。


 欠けた皿。


「捨てる」


 古い毛布。


「洗って、使えるところだけ雑巾」


 壊れた目覚まし時計。


「リベット工房へ。直らなければ部品取り」


 留め金の外れた旅行鞄。


「直して三階の共用品」


 読み取れない紙片。


「燃やす」


 名前の残っている手紙。


「箱へ」


 《帰着待ち》の家賃帳。


「保管」


 最後に、制帽と昼食箱。


 マルタは少しだけ迷い、新しい木箱を一つ用意した。


 底へ布を敷く。


 二つを並べる。


 けれど蓋は閉めなかった。


 その横で、ミラベルが手帳へ何かを書いている。


「何を書いてる」


 マルタが聞いた。


「残した物と、処分した物です」


「記事にする気じゃないだろうね」


「これは記事にはしません」


「なら、書かなくてもいいだろ」


「書かなければ、また忘れます」


「忘れることもある」


「でも、この人たちがここにいたことは――」


 マルタがミラベルを見る。


「あんたの記事に載らなきゃ、いなかったことになるのかい」


 ミラベルの鉛筆が止まった。


「そういう意味ではありません」


「新聞へ載せることと、覚えておくことは別だよ」


「でも、誰も覚えていなくなったら」


「そのときは、そのときさ」


「それでは、消えてしまいます」


「人はいつか消える」


 マルタは古い家賃帳を手に取った。


「全部を街へ見せる必要はないんだよ。本人が話したくないこともある。戻らなかった理由を、勝手に物語にされたい奴ばかりじゃない」


 ミラベルは手帳へ視線を落とした。


 エドラム=ヴォス。


 未帰着。


 そこまで書いてある。


 その下の理由の欄は、空白のままだった。


「では、何を残せばいいんでしょう」


「必要なことを」


「何が必要かは、誰が決めますか」


「その記録を預かる奴だよ」


「間違えたら?」


「次に読む奴が訂正する」


 そこでレオンが古い家賃帳を閉じた。


「保管記録は必要だ」


 マルタが見る。


「あんたまで記者みたいなことを言うね」


「次にこの鍵を見つけた者が、また館中の錠前を試さずに済む」


「そっちかい」


「それだけではない」


 レオンは小部屋の棚を見た。


「この帳面は正式な家賃帳ではない。だが、ここへ人がいたことは示している。捨てれば確認する方法がなくなる」


「記事にする必要は?」


「ない」


 即答だった。


 ミラベルがレオンを見る。


「早いですね」


「公開と保管は別だ」


「私も今、それを教わったところです」


「遅い」


「レオンさんは最初から分かっていたんですか」


「当然だ」


 マルタが鼻を鳴らした。


「自分の引き出しを見られたくないだけだよ」


「それとは別だ」


「同じさ」


 レオンは反論しなかった。


     ◇


 三人は古い家賃帳へ、新しい紙を一枚添えた。


 《黒鴉館二階奥小室》


 《旧仮眠室》


 《閉鎖期間、十八年以上》


 《保管物、家賃帳一冊。書簡四通。制帽一。昼食箱一》


 《所有者確認不能》


 《当面、黒鴉館管理下にて保管》


 レオンが書き、マルタが内容を確認し、ミラベルが日付を入れた。


「《帰着待ち》とは書かないんですね」


 ミラベルが尋ねる。


「部屋の名前にしちまったら、誰かが帰るまで使えないだろ」


 マルタは答えた。


 小部屋は、再び完全には塞がなかった。


 壁紙を剥がし、錠前へ油を差し、扉を普通に開閉できるようにする。


 棚には黒鴉館の古い帳簿や、以前の住人から預かった品を並べた。


 ただ、一番下の棚だけは何も置かれなかった。


「そこも使えばいい」


 レオンが言った。


「棚は詰めすぎると取り出せなくなる」


「それだけか」


「それ以外に何がある」


 マルタは、さきほどまでのレオンの言い方をそのまま返した。


 ミラベルが笑う。


「何がおかしい」


 二人が同時に聞いた。


「似ていますね」


「どこがだ」


「どこがだい」


 今度は、三人とも黙った。


     ◇


 大掃除が終わったのは、日が傾いてからだった。


 正確には、小部屋の整理が終わり、レオンが自分で決めた一時間の掃除時間を大幅に超え、ミラベルがすべての窓を拭き終え、そしてマルタが二階の棚の下から予想どおり大量の埃を見つけた時刻だった。


「何もないと言ってたね」


 マルタが灰色の埃を箒で集めながら言う。


「物はなかった」


「埃も物だよ」


「定義による」


「家賃へ掃除代を足すよ」


「契約外だ」


「新しく契約する」


「拒否する」


「退去するかい」


「しない」


「なら成立だ」


「成立していない」


 言い争いながら、レオンは棚を元の位置へ戻した。


 ミラベルは最後の窓を閉める。


 その少し先。


 壁の裏から姿を現した古い扉には、新しい真鍮札が付いていた。


 レオンが作ったものだった。


 《二階奥小室》


 部屋番号ではない。


 住人の名でもない。


 ただ、そこに扉があることだけを示す札だった。


     ◇


 夜。


 《煤鳩亭》の営業が終わる。


 椅子が机へ上げられ、厨房の炉が落とされ、正面玄関へ鍵が掛けられた。


 マルタは、いつものように鍵束を手に取った。


 一つずつ、指先で確かめていく。


 正面玄関。


 厨房。


 食品庫。


 地下石炭庫。


 裏門。


 三階の下宿部屋。


 二階事務所。


 そして。


 二階奥小室。


 鍵は十四本。


 扉も十四。


 今度は数が合っている。


「一本多いんじゃなかったのかい」


 誰もいない店内で、マルタは小さく呟いた。


 鍵束を腰へ下げる。


 十四本の鍵が触れ合い、金属の音を立てた。


 二階では、レオンが昼間に動かした事件記録を、一つずつ元の順番へ戻している。


 ミラベルは小さな机で手帳を開いていた。


 今日の頁。


 《黒鴉館二階奥。旧小室一室》


 《用途、保管》


 《帰着待ちの記録あり》


 その下へ、もう一行を書きかける。


 帰る場所とは、鍵を持つ者がいる場所。


 そこまで考えて、ミラベルはペンを止めた。


 マルタの言葉を思い出したからだった。


 必要なことだけ。


 誰かが帰らなかった理由まで、勝手に物語へしないために。


 ミラベルは何も書き加えず、手帳を閉じた。


 二階奥小室の灯りが消える。


 扉が閉まる。


 鍵が回る。


 けれど、その鍵はもう壁の裏へ戻されなかった。

観測余録 十四本目の鍵


 その夜、黒鴉館の建物台帳は訂正されました。


 使用できる扉は十四。


 管理される鍵も十四。


 数は、きれいに一致しています。


 だから帳簿の上では、もう余分な鍵はありません。


 けれど、その鍵が十三本の中へ混じったまま、長い年月を過ごしていたことまで、誤りだったのでしょうか。


 扉は壁の向こうへ隠されていました。


 小さな部屋も使われなくなり、そこへ泊まった人たちの多くは、もう黒鴉館にはいません。


 それでも、鍵だけは残されました。


 誰かを毎日待っていたわけではありません。


 帰ってくると信じ続けていたわけでもないのでしょう。


 暮らしはそのまま続きました。


 部屋は閉じられ、使える物は別の人へ渡され、持ち主のいない物は少しずつ整理されていきました。


 それでも、帰らないことが決まったわけではない人のために、ほんの少しだけ残されたものがありました。


 制帽。


 昼食箱。


 そして、一本の鍵。


 帰る場所とは、ずっと同じ形で残っている場所のことではないのかもしれません。


 部屋が変わっても。


 棚の中身が入れ替わっても。


 そこにいた人の名を、誰かが必要なぶんだけ覚えている。


 それだけで、完全にはなくならない場所もあるのでしょう。


 黒鴉館の鍵束には、もう札のない鍵はありません。


 新しく《二階奥小室》と記された古い鍵が、ほかの十三本と同じ輪へ掛けられています。


 夜、マルタが歩くたび。


 その鍵も、ほかの鍵と同じ音を立てます。


 余分だった一本が、ようやく戻る場所を見つけたように。


 ――ナミ=エル

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