検札余録 ― 第一観測期、通過
その停車場には。
駅名がなかった。
ホームを照らす蒸気灯は、一つだけ。
時刻表は掲げられている。
だが。
発車する列車も。
到着する列車も。
どこにも記されていない。
煤霧の向こう。
一本の夜汽車が停まっていた。
機関車から蒸気は上がっている。
客車の灯りも点いている。
それでも。
乗客の姿はない。
最後尾の車掌室。
小さな机の上へ。
十三枚の黒い切符が並べられていた。
行先はない。
乗客名もない。
ただ。
第一記録。
第二記録。
第三記録。
黒い文字で。
番号だけが記されている。
十二枚には。
すでに、小さな穿孔があった。
残された一枚を。
黒い革手袋が取り上げる。
黒いシルクハット。
深紫を沈めた車掌礼装。
細身の杖を机へ立てかけ。
エル=ネフリドは。
十三枚目の切符を灯りへ透かした。
切符の表には。
死亡。
帰還。
生存。
三つの印が。
重なることなく残されている。
どれか一つを消せば。
整った切符にはなるだろう。
だが。
整っていることと。
正しいことは、同じではない。
エル=ネフリドは。
真鍮の検札鋏を開いた。
乾いた音が。
誰もいない客車を渡る。
十三枚目の縁へ。
小さな穴が一つ開いた。
「第十三記録、通過」
黒い切符を。
十二枚の上へ重ねる。
十三の穴は。
すべて異なる形をしていた。
同じ事件が。
一つもなかったように。
エル=ネフリドは。
十三枚を黒い革箱へ収めた。
蓋を閉じる。
「第一観測期」
留め金が鳴る。
「検札完了」
それで。
机の上は空になるはずだった。
だが。
エル=ネフリドは、胸元へ手を入れた。
内側のポケットから。
二枚の古い切符を取り出す。
どちらも。
一度、水に濡れていた。
紙の端は波打ち。
印字の一部は滲んでいる。
一枚には。
すでに穿孔がある。
もう一枚には。
まだ、穴がない。
エル=ネフリドは。
穿孔のある切符を手に取った。
かつて。
死亡記録だけが先に届き。
遺体も。
降車も。
確認できなかった乗客の切符。
いま。
その者には。
新しい死亡記録はない。
偽装された帰還者でもない。
自分の傷と。
自分の名と。
自分の足で。
帰るべき場所へ戻っている。
エル=ネフリドは。
切符の空いていた帰着欄へ。
鋏を合わせた。
真鍮の刃が閉じる。
小さな穴が。
最初の穿孔の隣へ開いた。
「レオン=クラウス様」
穏やかな声だった。
「今回は」
暗い金色の瞳が。
切符の穴を見つめる。
「確かに、ご降車なさいました」
帰着済みの切符を。
十三枚の黒切符とは別の革入れへ収める。
死亡記録も。
偽装帰還も。
消されてはいない。
そのあとへ。
本人が帰着したという事実だけが。
新しく加えられていた。
机の上には。
もう一枚が残っている。
名前はない。
出発駅も。
到着駅も。
行先もない。
検札穴も。
一つもない。
エル=ネフリドは。
その切符を取り上げた。
表を見る。
裏を見る。
灯りへ透かす。
鋏を開く。
だが。
刃の間へは入れなかった。
「乗車記録、確認できず」
切符を机へ戻す。
「降車記録、なし」
誰の切符なのか。
生きている者のものか。
死者のものか。
それとも。
まだ乗車していない者のものか。
彼は。
どれとも記さない。
「未検札」
鋏が閉じられる。
切符には触れないまま。
「残り、一名」
そのとき。
車掌室の壁で。
記録機が動いた。
列車はまだ。
発車していない。
車輪も。
連結器も。
停止したままである。
それなのに。
機械の中で、小さな歯車が回る。
印字槌が。
紙を打った。
一度。
二度。
三度。
細い記録紙が。
吐き出される。
エル=ネフリドは。
切り取らずに読んだ。
> 到着記録。
>
> 日付――翌日。
>
> 列車番号――未登録。
>
> 乗客名簿――未作成。
>
> 到着――確認済み。
明日の記録だった。
まだ。
発車していない列車の。
まだ。
乗っていない乗客の。
まだ。
到着していない駅の記録。
エル=ネフリドは。
銀鎖の懐中時計を取り出した。
蓋を開く。
針は。
今日の深夜を示している。
記録機の時刻だけが。
先に、明日へ着いていた。
「到着記録、先行」
彼は。
明日の紙へ指を触れない。
「運行記録、未成立」
微笑みは。
いつもと変わらない。
親しげにも見え。
どこまでも冷たくも見える。
「さて」
誰もいない客車へ。
問いだけが置かれる。
「列車が、記録された到着地へ向かうのでしょうか」
窓の外。
蒸気灯が揺れた。
「それとも」
遠くで。
信号機が切り替わる。
「到着したという記録が、列車をそこへ向かわせるのでしょうか」
答える者はいない。
エル=ネフリドも。
答えを求めなかった。
帰着済みの切符を。
胸元へ。
未検札の切符を。
別の仕切りへ。
明日の到着記録は。
記録機へつながったまま残す。
彼は黒いシルクハットの鍔へ指を添えた。
「帰着記録、収束」
夜汽車の制動機が外れる。
「未帰着記録、継続」
連結器が。
一両ずつ。
重い音を伝えていく。
「次期運行」
エル=ネフリドは。
細身の杖で、床を一度だけ叩いた。
「発車」
汽笛が鳴った。
時刻表にない列車が。
駅名のない停車場を離れていく。
ホームの表示板には。
まだ、行先がない。
ただ。
到着したという明日の記録だけが。
列車より先に。
煤霧の向こうで待っている。
真鍮の検札鋏は。
もう鳴らなかった。
名のない切符を一枚残して。
夜汽車は。
まだ誰も選んでいない進路へ。
静かに走り出した。




