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終幕 ― 霧燈通り十三番地

 霧燈通り十三番地へ。


 レオン=クラウスの名が戻った。


 そのことを示す書類は、一つの厚い封筒にまとめられて、黒鴉館二階へ届いた。


 銀行口座の凍結解除通知。


 住居兼事務所契約の名義復帰確認書。


 未解決事件箱を含む、事件資料の返還記録。


 そして。


 本人帰還に伴い再発行された、私立推理士免許。


 午後の煤霧が、窓硝子へ薄くまとわりついている。


 遠くを高架列車が通るたび。


 古い窓枠が、低く震えた。


 レオンは自分の机に座り。


 再発行された免許状を、窓から入る光へ透かしていた。


 新しい紙。


 新しい日付。


 中央には、ヴァルテリア私立推理士監督局の認証印。


 裏面には。


 死亡推定。


 本人帰還。


 生存再認。


 資格審査。


 復帰までの経緯が記されている。


「透かしは正規のものですか」


 向かいの机から、ミラベルが尋ねた。


「ああ」


「印章は?」


「本物だ」


「署名は?」


「監督官本人の筆跡と一致する」


「監督官の筆跡まで知っているんですか」


「以前、偽造免許事件を調べた」


「それなら安心ですね」


「最初から疑っていたわけじゃない」


「窓へ透かして、拡大鏡で印章を見ていました」


「確認しただけだ」


「紙の端へ顔も近づけていました」


「繊維を見ていた」


 ミラベルは、新しい事件記録帳へ何かを書き込んだ。


「何を記録した」


「本人、再発行された探偵免許を鑑定」


「不要だ」


「偽装記録事件の直後ですから」


「監督局を信用していないように見える」


「レオンさんが、いちばん信用していません」


 レオンは返事をせず。


 免許状を机へ置いた。


 その横には。


 銀行。


 住居。


 事件資料。


 それぞれの回復を認める文書が並んでいる。


 どの書類にも。


 本人の署名欄があった。


 まだ。


 一つも書かれていない。


「署名しないの?」


 窓際から、エレノアが顔を出した。


 彼女は朝から、自分の細身の机を移動させていた。


 元は出窓の下へ無理に押し込まれ。


 片脚の下へ、折り畳んだ新聞紙が挟まれていた机である。


「床を傷つけるな」


 レオンが言った。


「傷は前からよ」


「そこには事件地図を貼る」


「壁はほかにもあるでしょう」


「窓際は光が入る」


「だから、私の机にも向いてるの」


「変装用の薬品へ直射光を当てるな」


 エレノアは手を止めた。


「そういう理由なら、最初に言って」


「いま言った」


「兄さまは、正しいことなら、どんな言い方でもいいと思ってるわね」


「必要な理由は伝えた」


「移動するけど、兄さまが決めた場所には置かないから」


「好きにしろ」


「最初から、そのつもりよ」


 机の脚が。


 床を短く擦った。


 レオンは顔をしかめたが。


 もう止めなかった。


 事務所の中央には、ブラムが伏せている。


 地下で浴びた高温蒸気を洗い流され。


 黒い毛は、以前の硬い光沢を取り戻していた。


 胸元の灰白色の毛だけが。


 煤を払ったように浮かんでいる。


 首には。


 古い鉄道保守犬章。


 ヨアヒム=ベルナーの管理下にあったことを示す、環状鉄道局の真鍮章が残されていた。


 その横へ。


 エレノアが、細い赤い紐を結んでいる。


「それを外せ」


 レオンが言った。


「目印よ」


「何の」


「新しい札をつける場所の」


 レオンの目が細くなる。


「何を作った」


「まだ秘密」


「右手に真鍮板。左手に留め具を持っている」


「見えてるの?」


「窓硝子へ映っている」


 エレノアは、煤霧で曇った出窓を見る。


 背後へ隠した自分の両手が。


 薄い硝子へ映っていた。


「そういうところ、本当に嫌」


「褒め言葉として受け取る」


「褒めてない」


「兄妹の会話は、あとにしてください」


 ミラベルが。


 一枚の書類を持って、二人の間へ入った。


「レオンさん。先に、こちらへ署名をお願いします」


「免許の受領書か」


「違います」


 机へ置かれたのは。


 銀行書類でも。


 住居契約でも。


 事件資料の返還確認書でもなかった。


 鉄道局。


 中央記録庁。


 私立推理士監督局。


 三つの様式が綴じられた、所属変更届だった。


 上部には。


 ブラムの名。


 その下に。


> 旧所属。

> ヨアヒム=ベルナー管理・環状鉄道保守犬。

>

> 新所属。

> 霧燈通り十三番地・クラウス探偵事務所。


 レオンは最初から読み。


 裏面へ進み。


 添付された条件書まで確認した。


「犬を探偵事務所へ所属させる必要があるのか」


「あります」


 ミラベルは即答した。


「事件の追跡。行方不明者の発見。地下経路の探索。救助。逃走者の足止めを行っています」


「法的な捜査員ではない」


「だから、所属を明確にします」


「鉄道保守犬として登録を残せばいい」


「ヨアヒムさんは、もう管理できません」


 その名に。


 ブラムの耳が動いた。


 顔は上げない。


 けれど。


 聞き慣れた名を、忘れてはいない。


「旧所属は消しません」


 ミラベルが言った。


「ヨアヒム=ベルナー管理の保守犬だったことは、そのまま残します」


「死亡した管理者の記録へ、新しい所属を追記するのか」


「はい」


「二重所属になる」


「経歴です」


 ミラベルは該当欄を指した。


「ヨアヒムさんと働いた過去を消さず、その先へ、これから帰る場所を加えます」


「誰か一人の所有にすれば、手続きは簡単だ」


「ブラムは誰か一人の飼い犬ではありません」


 ミラベルは言い切った。


「事務所へ所属します」


「前例は」


「ありません」


「ないのか」


「そのために、三つの部署へ書式を作ってもらいました」


「無駄に手間を掛けたな」


「レオンさんの生存再認よりは短かったです」


「比較するな」


 エレノアが、横から書類を覗き込む。


「署名すればいいじゃない」


「受入責任者が俺になっている」


「主任探偵でしょう」


「ミラベルでもいい」


「共同調査者です」


 ミラベルが答えた。


「でも、免許が再発行されたので、事務所の法的責任者はレオンさんへ戻りました」


「都合のいいときだけ戻すな」


「責任も、権利の一部です」


 六週間前。


 レオンの名から。


 事件資料を動かす権利だけが取り出された。


 いま。


 本人へ戻った権利には。


 この場所へ帰る者を、引き受ける責任も含まれていた。


 レオンは、もう一度書類を見る。


 ブラムの名。


 ヨアヒムの名。


 旧所属。


 新所属。


 過去は消されず。


 その先へ。


 霧燈通り十三番地が続いている。


「本人の意思は確認したのか」


「ブラムの?」


「ああ」


「しました」


「どうやって」


 ミラベルは、ブラムの前へしゃがんだ。


「ブラム」


 黒い犬が顔を上げる。


「これからも、ここで一緒に事件を調べてくれる?」


 ブラムはミラベルを見る。


 次に。


 レオン。


 エレノア。


 三つの机。


 暖炉の横の水入れ。


 事務所の扉。


 順番に確かめた。


 それから。


 事務所の中央へ、もう一度顎を下ろした。


「いまのが意思確認か」


「出ていこうとはしていません」


「疲れているだけかもしれない」


「では、レオンさんが外へ出るよう命じてください」


「出ていけとは言っていない」


「なら、署名してください」


 ミラベルが、ペンを差し出す。


 レオンはすぐには受け取らなかった。


 机の上には。


 自分へ戻った権利を証明する書類が並んでいる。


 銀行口座。


 住居。


 事件資料。


 探偵免許。


 どれも。


 自分のものを取り戻すための紙だった。


 だが。


 最初に署名するのは。


 帰る場所を失った一頭へ。


 新しい所属を与えるための記録だった。


 レオンはペンを取った。


 現在の自分の手で。


 署名欄へ名を書く。


> レオン=クラウス。


 最後の一字だけが。


 わずかに離れた。


「確認しました」


 ミラベルが書類を引き寄せる。


「ブラム。今日から正式に、クラウス探偵事務所の一員です」


 ブラムは顔を上げなかった。


「反応がないぞ」


「名前が変わるわけではありませんから」


「制度上の所属は、犬には関係ない」


「関係はあります」


「何が変わる」


「帰ってきたとき」


 ミラベルは言った。


「ここへ入っていいことが、記録に残ります」


 レオンは何も答えなかった。


 エレノアが。


 待ちきれないように、背中へ隠していた真鍮板を取り出す。


「なら、これも正式ね」


 磨かれた札には。


 太い文字が刻まれていた。


> ブラム

> 追跡・地下探索・帰路案内


「長すぎる」


 レオンが言った。


「全部やったでしょう」


「公開表示に、業務経歴をすべて書く必要はない」


「何を外すの?」


「札そのものを外す」


 エレノアが扉へ下げた真鍮札へ。


 レオンが手を伸ばす。


 その前に。


 ブラムが立ち上がった。


 ゆっくり扉の前へ来る。


 自分の札の真下へ座った。


「退け」


 動かない。


「ブラム」


 黒い耳が、わずかに動く。


「札を外す」


 顔を背けた。


「反対みたいね」


 エレノアが笑う。


「札の意味は理解していない」


「兄さまが外そうとしてることは分かってるわ」


「どちらにしても、長すぎる」


「では」


 ミラベルが札を見る。


「《追跡・帰路案内》にしましょう」


「地下探索は?」


「正式な業務記録へ残します」


 エレノアは不満そうだったが。


 新しい文字帯を札へはめた。


> ブラム

> 追跡・帰路案内


「これでいいですか」


 ミラベルが尋ねる。


 レオンは。


 札の前へ座るブラムを見る。


「暫定だ」


「正式な所属届へ署名しました」


「所属と扉の表示は別だ」


「いつまで暫定ですか」


「問題が起きるまで」


「問題が起きなければ?」


 レオンは答えず。


 自分の机へ戻った。


 ブラムも。


 ようやく扉の前から離れた。


 そこには。


 四枚の真鍮札が並んでいる。


> レオン=クラウス

> 主任探偵・記録鑑定

>

> ミラベル=ワトリア

> 共同調査・事件記録

>

> エレノア=クラウス

> 調査補助

>

> ブラム

> 追跡・帰路案内


 四か月のあいだ。


 誰も座らなかった革張りの椅子へ。


 レオンが腰を下ろす。


 だが。


 事務所は、以前の形へ戻ったわけではない。


 机は三つ。


 扉の名は四つ。


 主任探偵が一人。


 共同調査者が一人。


 調査補助が一人。


 帰れない者を追い。


 帰路を見つける犬が一頭。


 誰かの不在を埋めるための配置ではない。


 それぞれが。


 自分の名と役割を持っている。


 ミラベルは、新しい事件記録帳の最初の頁へ。


 日付。


 場所。


 事務所構成。


 四つの名を書いた。


 エレノアは、窓際へ移した机の脚へ木片を挟み。


 傾きを確かめている。


「今度は真っ直ぐよ」


「窓を塞いでいる」


「少しだけ」


「そこに置く必要がない」


「外を見られるわ」


「調査中に外を見るな」


「尾行を見つけられる」


 レオンが黙った。


 エレノアが勝ち誇った顔をする。


「妥当だ」


「でしょう?」


「薬品は日陰へ移せ」


「分かったわ」


 ブラムは扉の横へ伏せた。


 階段を上る足音。


 一階の《煤鳩亭》で鳴る食器。


 霧燈通りを走る馬車。


 遠い高架列車の振動。


 それらを静かに聞いている。


「これで、全部戻ったんですか」


 ミラベルが尋ねた。


 レオンは。


 机上の書類を見る。


「記録上はな」


「ほかに足りないものは?」


「失った四か月は戻らない」


「はい」


「クラウディアも」


「はい」


「ヨアヒムも帰らない」


 扉の横で。


 ブラムの耳が動いた。


「だから」


 レオンは言った。


「戻ったものだけで、元どおりになったとは書くな」


 ミラベルは記録帳へ目を落とした。


「書いていません」


「何と書いた」


「新体制で再開」


「大げさだ」


「四つの名前があります」


 ミラベルは、扉を見る。


「以前と同じではありません」


 レオンも。


 四枚の真鍮札を見た。


 否定はしなかった。


 そのとき。


 扉が叩かれた。


 三度。


 間を置き。


 もう一度。


 名乗る前に。


 訪ねるべき場所を迷っているような音だった。


 ブラムが顔を上げる。


 吠えない。


 扉の向こうの呼吸と。


 床へ伝わる足音を聞いている。


「依頼人?」


 エレノアが小声で尋ねた。


「新聞の集金かもしれない」


 レオンが答える。


「今日は来ない日です」


 ミラベルは、新しい事件記録帳を開いた。


「では、確認します」


 席を立ち。


 扉へ向かう。


 ブラムは横へ移った。


 命じられなくても。


 人が通る場所を空ける。


 ミラベルが扉を開いた。


 廊下には。


 煤色の帽子を胸へ抱えた、一人の男が立っていた。


 安い外套。


 雨に濡れた靴。


 片手には、折り畳まれた新聞。


 男は最初にミラベルを見た。


 次に。


 事務所の奥へ座るレオンを見る。


 新聞を開く。


 数日前の社会欄。


 黒鐘塔事件後に掲載された、死亡記事。


 紙に印刷された顔と。


 目の前の男を。


 何度も見比べる。


「ここは、クラウス探偵事務所でしょうか」


「そうです」


 ミラベルが答えた。


「ですが、この新聞では」


「古い記事です」


 男は。


 もう一度、レオンを見た。


 記事の死者と同じ顔。


 同じ名。


 けれど。


 少し痩せ。


 新しい傷と。


 生きて帰った時間を身体へ残した男。


「あなたが、死んだ探偵ですか」


 レオンは答えた。


「昨日までは」


 依頼人は。


 どう受け取ればよいか分からない顔をした。


 エレノアが、笑いを堪える。


 ミラベルは。


 いつもと同じように応接椅子を引き。


 新しい事件記録帳を開いた。


「まず、お名前をお願いします」


 依頼人が口を開く。


 扉の横で。


 ブラムが顔を上げた。


 霧燈通り十三番地で。


 新しい記録が始まった。

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