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終幕 ― 偽装記録の探偵事件簿

 その夜。


 黒鴉館の一階には、閉店後も灯りが残っていた。


 喫茶室《煤鳩亭》の表扉には札が下がり、椅子は机の上へ伏せられている。厨房の火は落とされ、小さな石炭暖炉だけが赤い熾火を抱いていた。


 窓の外では、霧燈通りのガス灯が煤霧の中へ滲んでいる。


 夜行列車が高架線を通るたび、古い窓硝子がかすかに震えた。


 ミラベル=ワトリアは、店の隅の席に座っていた。


 目の前に、三つの紙がある。


 刷り上がった夕刊。


 掲載を拒まれた原稿。


 そして、まだ何も書かれていない新しいノート。


 夕刊の社会面には、五行にも満たない記事が載っていた。


 高架下で発見された身元不明男性の死亡事件について、警察は関係者二名を拘束した。


 それだけだった。


 アルヴィン=ヴェインという名はない。


 四年前の死亡記録も。


 本物の署名が別の契約へ移されたことも。


 アデラ=ロームがアルヴィンを殺したことも、エドモンド=ブラスウェルが死体を運んだことも。


 記録院と商会の内部で、何が行われたのかも記されていない。


 この新聞だけを読んだ者にとって。


 高架下で死んでいた男は、今も身元不明だった。


 ミラベルは夕刊を畳んだ。


 その下から、掲載されなかった原稿が現れる。


 最初の行には、アルヴィンの名があった。


 最後まで読めば。


 彼が何へ署名し。


 何を奪われ。


 なぜ殺されたのかが分かる。


 だが、この紙は輪転機へ送られなかった。


 都市へ配られなかった。


 駅にも。


 工場にも。


 誰かの朝にも、誰かの記憶にも届かない。


 新聞へ載らなかったからといって、事実が消えるわけではない。


 消えるのは。


 誰も残さなかったときだけだ。


 ミラベルは新しいノートを開いた。


 最初の頁は白かった。


 記録院の壁のような白ではない。


 名を削ったあとの空白でも。


 閉鎖された記録の余白でもない。


 これから書くために残されている白だった。


 インク瓶の蓋を開ける。


 ペン先を浸す。


 頁の上で手が止まった。


 これは新聞記事ではない。


 警察調書でもない。


 記録院の台帳でもない。


 発行番号は与えられない。


 正式な保管も約束されていない。


 誰が読むのかも分からない。


 だが。


 誰かの都合によって見出しを削られることもない。


 ミラベルは、頁の上端へゆっくりと書いた。


 偽装記録の探偵事件簿。


 青黒いインクが、紙の繊維へ沈んでいく。


 行を移す。


 第一記録。


 その下へ。


 署名なき死体。


 三つの言葉が並んだ。


 まだ、事件簿と呼べるほどの記録はない。


 一つの事件。


 一冊目のノート。


 一人の記者が、自分の意思でつけた題にすぎない。


 それでもミラベルには、その題が、この事件に関わるものを初めて正しい位置へ並べたように思えた。


 偽装されたのは、一枚の契約書だけではない。


 死亡記録。


 署名の所属。


 事故現場。


 身元不明という新聞記事。


 都市が覚える過去そのものが、誰かに都合よく配置されていた。


 その配置を疑い。


 紙の向こうにいる人間を探した探偵がいる。


 その探偵が拾わなかった声を、書き留める者も必要だった。


 ミラベルは次の行へ、ペンを置いた。


 アルヴィン=ヴェイン。


 今度は、どの契約にも属させなかった。


 土地権利者としてでも。


 記録上の死者としてでも。


 殺人事件の被害者としてだけでもない。


 一人の人間の名として書いた。


 階段が軋んだ。


 二階から足音が下りてくる。


 レオン=クラウスは外套を着ていなかった。


 白いシャツに黒いベスト。


 片手には、冷えた珈琲のカップを持っている。


 彼は店へ入ると。


 夕刊。


 没原稿。


 新しいノート。


 その順に視線を移した。


「新聞記者が、私的な記録係へ転職ですか」


 ミラベルは顔を上げた。


「誰も書かないなら、私が書きます」


「新聞社に見つかれば、事件資料の持ち出しを疑われますよ」


「公開できないものは書きません。証拠で確定したことと、まだ推測にすぎないことも分けます」


「誰へ見せるのです」


「まだ決めていません」


「読者のいない記録ですか」


「今はいなくても、あとで読む人がいるかもしれません」


「いないかもしれない」


「それでも書きます」


 レオンは、ノートへ目を落とした。


 偽装記録の探偵事件簿。


 第一記録。


 署名なき死体。


 アルヴィン=ヴェイン。


 冷えた珈琲へ口をつけようとして、やめる。


「正確に書くことです」


「それだけですか」


「ほかに何を期待しているのです」


「題への感想とか」


「長い」


「まだ四行です」


「事件簿という名がです。今後も事件が続くことを前提にしている」


「続かないんですか」


「続いてほしいのですか」


「人が殺されるのは嫌です。でも、すでに偽装された記録があるなら、見つけなければ終わりません」


 レオンは、わずかに目を細めた。


「私の事務所の公式記録ではありませんよ」


「分かっています。私の記録です」


「私の発言を勝手に載せないように」


「必要なら載せます」


「事実誤認があれば訂正します」


「では、読んでくださるんですね」


 レオンは答えなかった。


 向かいの椅子を机から下ろし、腰をかける。


 その行動だけで充分だった。


 厨房の扉が開いた。


 マルタ=グレインが、湯気の立つ茶を二杯運んでくる。


「まだ紙と睨み合っていたのかい」


「記録を始めました」


 ミラベルがノートを示す。


 マルタは題を読み。


 次に、アルヴィンの名を見た。


「大げさな名前をつけたね」


「レオンさんにも長いと言われました」


「そいつは自分の看板へ《私立調査・記録鑑定》なんて書いてる男だよ。言わせておきな」


「業務内容です」


「誰も聞いてないよ」


 マルタはレオンの冷えた珈琲を取り上げ、温かい茶を置いた。


 続いて、焼き菓子を一皿だけ机の中央へ置く。


「食べながら書きな」


 レオンが手を伸ばす。


 マルタが皿をミラベル側へ寄せた。


「あんたの分は、家賃を払ってからだよ」


「払っています」


「遅れてね」


 マルタはそれだけ言い、厨房へ戻っていった。


 暖炉の石炭が、小さく崩れる。


 ミラベルは焼き菓子を一つ取り、ペンを持ち直した。


「最初は、雨の高架下から書きます」


「発見時点では、被害者の名は確定していません」


「分かっています」


「青い粉も、最初からインクと決まっていたわけではない」


「正確に書きます」


「死後火傷も」


「その時点で判明していたことだけを書きます」


「私の台詞は」


「必要なものだけ」


「一言もなくても構いません」


「それでは探偵事件簿になりません」


「証拠だけで進めてください」


「探偵が登場しない探偵事件簿になりますよ」


「理想的です」


 ミラベルは笑い、最初の文章を書き始めた。


 ペン先が紙を擦る。


 小さな音だった。


 新聞社の輪転機より。


 記録院の印章より。


 バルグレム商会の蒸気機関よりも、ずっと小さい。


 けれど、その音は。


 一つの名を、身元不明という言葉の外へ連れ戻していた。


 アルヴィン=ヴェイン。


 彼は死んだ。


 だが、署名のない死体のまま、都市の記憶から消えることはなかった。


 焼けた空白の下に、本当の名は残っていた。


 その名を読んだ者がいた。


 もう一度、書いた者がいた。


 それだけで。


 記録は、まだ完全には敗れていなかった。


     *


## 同じ夜。中央記録院西棟。


 西棟の奥に、正式な案内図へ記されていない部屋があった。


 廊下に室名札はない。


 来訪者が通されることもない。


 記録院に勤める者の多くも、その扉の向こうを知らない。


 白い記録院の中で。


 その部屋だけは、暗い木材に囲まれていた。


 壁一面の書架。


 封印された記録箱。


 窓を覆う厚い遮光幕。


 机の上には一灯だけが置かれ、開かれた報告書へ細い光を落としている。


 光の外側に、一人の人物が座っていた。


 顔は見えない。


 年齢も。


 性別も。


 種族も分からない。


 灯りの中にあるのは、長く白い指だけだった。


 細い万年筆が、静かに紙面を追っている。


 報告書には、短い項目が並んでいた。


 アデラ=ローム逮捕。


 エドモンド=ブラスウェル拘束。


 アルヴィン=ヴェインの死亡記録、再確認保留。


 旧ヴェイン家土地権利移転記録、再照会。


 警察側責任者、バルトラム=グレアム。


 外部鑑定協力者、レオン=クラウス。


 新聞関係者、ミラベル=ワトリア。


 万年筆の先が。


 最後の二つの名のあいだを、ゆっくりと往復した。


 レオン=クラウス。


 ミラベル=ワトリア。


 報告書には、彼らがどのような言葉を交わしたかまでは記されていない。


 誰が、焼かれた空白を見抜いたのか。


 誰が、署名の居場所という言葉を選んだのか。


 新聞へ載らなかった名を。


 誰が、別の紙へ書き始めたのか。


 そこまでは、まだ記録されていなかった。


 人物は、報告書の余白へ一行を書いた。


 レオン=クラウス、再観測。


 少し間を置き。


 その下へ、もう一行。


 第一件、収束せず。


 文字は細く、整っていた。


 記録院の正式書体によく似ている。


 だが、どの部署に所属する記録官の筆跡とも一致しない。


 人物は万年筆を置き、小さな印章を手に取った。


 横向きの羽根筆。


 その下を走る二重線。


 二つの文章の横へ、印が押される。


 報告書は閉じられた。


 黒い封蝋が垂らされ、同じ印章によって封じられる。


 蝋が固まるまで。


 灯りの外にいる人物は、動かなかった。


 やがて封印済みの報告書は、書架の奥へ収められた。


 外からは、題も番号も見えない。


 部屋の灯りが消える。


 中央記録院西棟は。


 何もなかったかのように、夜の沈黙へ戻った。

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