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観測余録 ― 船籍、閉鎖

 深夜。


 ヴェルム=クロウ西港の廃船証拠保管区は、濃い霧の底に沈んでいた。


 事件に関わる船体部品や事故船を、裁判が終わるまで保全するための区画。


 一般の岸壁とは、鉄柵と封鎖鎖で隔てられている。


 港湾局の監視灯が、一定の間隔で白く瞬き。


 係留された証拠船の輪郭を、霧の中へ浮かべていた。


 裁判用の撮影と鑑定を終えた小型蒸気艇は、埠頭の奥へ固定されている。


 警察の封印索。


 港湾局の保管札。


 証拠番号。


 船首には、もはや名がない。


 少し離れた保管架台に。


 一枚の古い船名板が置かれていた。


 《灰鷺号》。


 火災の痕を残す灰色の板。


 白い文字はところどころ剥がれ、閘門室の水を吸った木目は、乾いたあとも黒く変色している。


 《灰鷺号》の船体はない。


 船員も。


 積荷もない。


 ただ。


 板の上に、船名だけが残っていた。


 保管架台の脇には、防水証拠箱が固定されている。


 その側面に設けられた、小さな廃棄控え入れ。


 中に収められているのは。


 公式の船籍原本でも。


 裁判へ提出される証拠書類でもない。


 船籍閉鎖処理を終えたあと。


 港湾記録局から保管区へ返却された、照合用の複写控えだった。


 役目を終え。


 廃棄を待っている紙。


 船籍番号。


 所属港。


 航路認可。


 《灰鷺号》という名。


 そして。


 赤い《閉鎖》印。


 霧の中から。


 杖の先が、濡れた石を打つ音がした。


 こつ。


 こつ。


 黒いシルクハットをかぶった、小柄なドワーフの男が歩いてくる。


 黒い車掌礼装。


 深紫のベスト。


 細身の杖。


 磨かれた革靴は、夜露に濡れた埠頭を踏んでいる。


 それでも。


 歩いてきた場所に、足跡は残らなかった。


 エル=ネフリドは、保管架台の前で立ち止まる。


 暗い金色の目が。


 古い船名板と。


 廃棄控え入れに収められた複写控えを、順に検めた。


 彼は廃棄控え入れから、閉鎖照合控えを取り出した。


 革手袋をした指で。


 赤い《閉鎖》印と、船籍番号を確かめる。


 懐から。


 真鍮の検札鋏を取り出した。


 刃の間へ、控えの端を差し込む。


 ――ぱちん。


 霧笛よりも小さく。


 波音よりも鮮明な音が。


 封鎖された証拠埠頭へ、一度だけ響いた。


 閉鎖照合控えの端へ。


 小さな穴が開いている。


 港湾局の閉鎖印とも。


 税関の検印とも。


 運河管理局の通過印とも違う。


 誰の手続きにも属さない形だった。


 エル=ネフリドは、その穿孔を静かに見つめた。


「船体記録、喪失」


 波が、保管埠頭の石壁を打った。


「船名記録、継続」


 《灰鷺号》の白い文字へ、監視灯の光が滑る。


「航海記録、偽装」


 それ以上。


 彼は何も付け加えなかった。


 そのとき。


 外港の向こうから、低い霧笛が響いた。


 長く。


 深く。


 続いて。


 巨大な船体が水を押し分ける音が届く。


 規定どおりに動く航路灯。


 霧の中を進む檣。


 煤を吐く煙突。


 甲板を歩く船員たち。


 水面には。


 船体が通った航跡が、確かに残されていた。


 今度は。


 本物の船だった。


 エル=ネフリドは顔を上げる。


 シルクハットのつばの下から。


 霧の奥を進む船影へ、穏やかな視線を向けた。


「第九記録」


 わずかな間を置く。


「入港したのは、船ではない」


 黒い外套が、海霧の中で揺れた。


 エル=ネフリドは。


 穿孔した閉鎖照合控えを、廃棄控え入れへ戻した。


 向きも。


 位置も。


 取り出す前と変わらない。


 真鍮の検札鋏を懐へ収め。


 杖を一度だけ石床へついた。


 白い霧が。


 保管架台を覆う。


 次の監視灯が瞬いたとき。


 そこには、誰もいなかった。


 濡れた埠頭に。


 足跡はない。


 杖の跡も。


 封鎖鎖へ触れた痕跡も残っていない。


 証拠船は、名を失ったまま係留され。


 外港の水は、変わらず石壁を打っている。


 保管架台に残されたのは。


 古い《灰鷺号》の船名板と。


 《閉鎖》の印を押され。


 端へ小さな穴を一つ開けられた。


 廃棄予定の船籍閉鎖照合控えだけだった。

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