第1節 ― 灰鷺号は入港しない
黒鴉館の朝は、珈琲の香りより先に、マルタ=グレインの怒鳴り声で始まった。
「届いてないじゃないか!」
どん、と。
分厚い注文帳が、《煤鳩亭》の勘定台へ叩きつけられた。
白い陶器のカップが受け皿の上で跳ね、珈琲の黒い輪が小さく揺れる。
店の扉には、まだ《準備中》の木札が下がっていた。
窓の外では朝霧が霧燈通りに低く溜まり、黒い鉄柵とガス灯の足元を曖昧にしている。新聞配達の少年が自転車を軋ませて通り過ぎ、その後ろを、蒸気清掃車が白い息を吐きながら進んでいった。
喫茶室にいるのは、マルタとレオンとミラベルだけだった。
レオン=クラウスは、暖炉に近い隅の席で珈琲を飲んでいる。
外套は椅子の背へ掛けたまま。
黒髪には、まだ櫛を通した形跡がない。
昨夜から二階の鑑定室にいたらしく、シャツの袖口には微かな黒インクが残っていた。
彼はマルタの怒声にも顔を上げなかった。
「何がです」
「胡椒。乾燥柑橘。南方樹皮。青星種。全部、昨日の夕方に届く予定だったんだ」
「届いていないようですね」
「見れば分かる!」
レオンはカップを口元へ運んだ。
「では、確認は済みました」
「その確認に、あんたの頭を使った覚えはないよ」
窓際の席で新聞を広げていたミラベルが、紙面の上から目だけを覗かせる。
「先生。マルタさんは、解決を求めているんだと思います」
「運送業者へ問い合わせるべきです」
「問い合わせたさ。西港へ荷が入ったところまでは確認できてる。そこから先が、何も動かないんだよ」
「港湾局の問題ですね」
「だから解決しな」
「俺は港湾局ではありません」
「家賃だって港湾局じゃないのに、ずっと止まってるじゃないか」
ミラベルが新聞の陰で吹き出した。
レオンは珈琲を置く。
「ワトリア君」
「はい」
「何か面白い記事でも」
「ええ。身近な未払い記録について、一本書けそうです」
「掲載前に事実確認を」
「請求帳があります」
マルタが即座に言った。
「証拠も揃ってるよ」
レオンは答えず、卓上の角砂糖を一つ摘まんだ。
ミラベルは微笑みを残したまま新聞へ視線を戻し。
やがて、その表情を変えた。
「……西港全域で、荷役が止まっています」
マルタが腕を組む。
「それは、あたしが今言った」
「《灰鷺号》の入港処理をめぐって、港湾局と税関が記録を照合しているそうです」
ミラベルは紙面を伸ばし、まだ湿っている活字を追った。
「《西港、未明より荷役停止》。昨夜入港した中型蒸気貨物船《灰鷺号》の船籍および積荷記録について確認作業が続き、通過予定の艀、貨物車、保税貨物の移動を一時停止――」
「船一隻の照合で、西港全域を?」
レオンが初めて顔を上げた。
「灰鷺号の積荷だけでなく、同じ倉庫区画を使う貨物も動かせないようです」
「それで、あたしの香料まで閉じ込められてるのかい」
「そうみたいです」
紙面の端には、西港の簡略地図が載っていた。
海門。
外港。
歯車運河。
連続する閘門。
保税倉庫区。
停止中の貨物区域が、太い枠線で囲まれている。
レオンは新聞を自分の方へ引いた。
「入港時刻は」
「午前零時」
「船籍照合に問題があったとは書いていない」
「確認作業中、とだけです」
「貨物の不足も、封印の異常も書かれていない」
「警察の記事ではありませんから」
「では、新聞から分かるのは、灰鷺号が入港処理を受け、その後、西港の貨物が止められたことだけです」
「朝から新聞へ喧嘩を売らないでください」
「新聞ではなく、読んだ者の推測へ言っています」
「それを記事を書いた側は、新聞への喧嘩と言うんです」
そのとき。
入口の扉が、二度、重く叩かれた。
まだ開店前だった。
マルタが眉を寄せ、腰の鍵束を鳴らしながら勘定台を離れる。
「朝から誰だい」
「警察だ」
扉の向こうから、低く太い声がした。
マルタは溜息をつく。
「聞けば分かるよ。バルトラム」
鍵を外し、扉を開ける。
外の冷たい霧とともに、グレアム警部が入ってきた。
重い外套の肩は湿り、帽子の縁から雫が落ちている。夜明け前から現場に立っていたのか、太い眉の下には濃い疲労が滲んでいた。
「泥は下で落としていきな」
「急ぎだ」
「急いでても床は汚れる」
グレアムは言い返しかけたが、入口脇の鉄製泥落としへ靴底を擦りつけた。
それを見届けてから、マルタは扉を閉める。
「珈琲は」
「後でいい」
「後で飲める保証がある顔には見えないね」
「なら一杯くれ」
「最初からそう言いな」
マルタが厨房へ向かう。
グレアムは帽子を取り、ミラベルが広げていた新聞へ目を向けた。
「荷止めまでは載ったか」
「《灰鷺号》の記録照合が原因だとあります」
ミラベルが答える。
「死体のことは?」
「死体?」
ミラベルの手が止まった。
レオンも新聞から顔を上げる。
グレアムは二人の反応を確かめてから、低く言った。
「今朝、午前五時十分。第六歯車閘門の上流側で、男の死体が見つかった」
マルタが、珈琲を運ぶ手を止めた。
「荷止めは、それが理由かい」
「市警から封鎖を要請した。新聞が組版を終えたあとだろう」
ミラベルは新聞の余白へ手を置く。
「身元は」
「ユリウス=カーウェン」
レオンの指先が、皿の上の角砂糖から離れた。
「港湾監査官の?」
「独立監査官だ。港湾局、倉庫組合、保険会社から帳簿を預かり、食い違いを調べていた」
「新聞社で名前を見たことがあります」
ミラベルが言った。
「保税貨物の監査報告を何度か出していました」
「昨夜は《灰鷺号》の入港記録と、第三十七保税倉庫の貨物受領記録を照合していた。保険記録の担当は、《ヴェイン海運保険社》だ」
ミラベルの目が、新聞に印刷された船名へ落ちた。
入港処理済み。
記録照合中。
その船を調べていた監査官が、数時間後に死体で発見された。
マルタはグレアムの前へカップを置いた。
「事故かい」
「それを調べている」
グレアムはカップへ手を伸ばさなかった。
「現場での確認では、肺に水が入っていた。溺死の可能性がある。肺から採った水には塩分が含まれていた」
「海水だと、誰が決めた」
店の中が静かになった。
暖炉で薪が崩れ、小さな火の粉が弾ける。
グレアムの眉間の皺が深くなった。
「現場の医務官は、海で溺れた可能性を考えている」
「海水と断定したのか」
「塩分を含む水だと報告した」
「では、海水とは決まっていない」
「塩水が肺から出たんだぞ」
「塩分があることと、海から来たことは同じではない」
グレアムは、ようやくカップを持ち上げた。
一口飲み、苦さに顔をしかめる。
「朝から言葉遊びを聞きに来たんじゃない」
「言葉を雑に使うと、事実まで雑になる」
レオンは新聞の地図を自分の前へ引いた。
「確認されているのは、カーウェンの肺に塩分を含む水があったことだけです。正式な死因も、死亡場所も、まだ確定していない」
「それで困っているから来た」
グレアムは太い指で、地図上の第六閘門を押さえた。
「死体は、ここの上流側にあった」
西港は海側。
第六閘門の上流は、市内側。
海から遠ざかる方向だった。
「発見時、水はどちらへ流れていた」
レオンが尋ねる。
「海だ」
グレアムが答えた。
「運河管理局の連中も、自然に上流へ流れるはずはないと言っている」
「発見前の水門操作は?」
「記録を押さえている。確認はこれからだ」
「死体が水へ入った場所は」
「分からん」
「死亡場所も」
「分からん」
「では」
ミラベルが鉛筆を取り、新聞の余白へ書き始めた。
「ユリウス=カーウェンさんは、《灰鷺号》の入港を調べていた」
一行目。
「その数時間後、第六閘門の上流側で死亡しているのが見つかった」
二行目。
「肺には、塩分を含む水」
三行目。
「でも、海で死んだとはまだ決まっていない」
レオンが頷いた。
「現時点で必要なのは、それだけです」
グレアムは二人を交互に見た。
「朝飯前から、よくそこまで面倒な会話ができるな」
「朝飯を食べていませんから」
レオンが答えた。
「食べな」
厨房から、マルタの声が飛んだ。
「今すぐ」
「西港へ行くそうです」
「パンくらい持っていけるだろ」
マルタは紙袋へ焼いた黒パンを二つ入れた。
一つをミラベルへ。
もう一つをグレアムへ渡す。
レオンが手を差し出した。
マルタは、その手を見る。
「家賃」
「時間がありません」
「じゃあ、パンもないね」
「差別的な配給です」
「信用に応じた正当な査定だよ」
ミラベルが自分の紙袋を開き、黒パンを半分に割った。
「半分どうぞ」
「ワトリア君。犯人を甘やかしてはいけない」
「まだ家賃滞納の容疑者です」
「請求帳がある」
マルタが言った。
「証拠も揃っとるな」
グレアムが続ける。
レオンは二人を無視し、椅子の背から外套を取った。
「現場は保存されているでしょうね」
「水上警察が死体を船へ移そうとしたが、俺が止めた」
「珍しく、話を悪くしない答えです」
「褒められている気がせんな」
「褒めていません」
グレアムが帽子を被り直した。
「行くぞ」
ミラベルは手帳と鉛筆を鞄へ入れ、新聞を丁寧に畳んだ。
紙面の下段には、《灰鷺号》の名がある。
昨夜、入港した船。
その船の記録を調べていた監査官。
そして。
海とは逆の方向で発見された死体。
三人が店を出る。
霧燈通りには、朝の鐘が鳴り始めていた。
ガス灯が一つずつ消え、工房の煙突から黒煙が立ち上る。新聞配達。荷馬車。記録官。夜勤を終えた鉄道員。
都市が、新しい一日を記録し始めていた。
西の空だけが、海霧に白く閉ざされている。
その向こうに。
入港した船と。
海から遠ざかる場所で死んだ、その船の監査官がいる。
レオンは外套の襟を立てた。
「警部」
「何だ」
「カーウェンが海で死んだと考えるのは、現場を見るまで保留にしてください」
「考えるのも禁止か」
「断定するのを、です」
グレアムは鼻を鳴らした。
「お前を呼んだ時点で、まともな断定が一つも残らんことは分かっとる」
ミラベルが二人の間を歩きながら、手帳を開いた。
「でも、事実は残ります」
レオンは前を向いたまま答えた。
「残っていれば、です」
三人を乗せた蒸気辻馬車が、霧燈通りを離れる。
車輪が濡れた石畳を叩き。
黒鴉館の影が、朝霧の後方へ沈んでいく。
馬車は西へ。
歯車運河と、《灰鷺号》の待つ港へ向かった。




