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第14節 ― 王冠と怪盗

 夜明け前のヴェルム=クロウでは、霧が空から降りるのではなく、街そのものから湧き上がる。


 運河から。


 蒸気管の継ぎ目から。


 夜通し動き続けた工場の屋根から。


 煤を含んだ白い霧が立ち上り、上層区の石壁と尖塔を、一つずつ輪郭だけの建物へ変えていた。


 旧保守橋は、その霧の中にあった。


 市立古美術館の蒼硝子円蓋と、隣接する旧契約塔を結ぶ細い鉄橋。


 かつて、契約取引所の記録を塔へ運ぶために使われていたが、いまでは日常的に通る者はいない。


 橋板は、人一人が歩くには十分。


 二人がすれ違うには狭い。


 左右には、腰ほどの鉄柵。


 その外には。


 夜明け前の街が、深く沈んでいる。


 特別展示のために張られた白い旗と装飾幕が、橋の上を渡る索道から垂れていた。


 風を受けるたび。


 布は霧の中で膨らみ。


 見えない観客へ手招きするように揺れている。


 レオンは、橋へ続く石段の前で足を止めた。


 ミラベルも、その隣に立つ。


 グレアムは。


 石段の陰で待っていた、連絡役の巡査へ短く指示を出していた。


「円蓋側の二人は、そのまま配置維持。旧契約塔側の四人も動かすな。合図があるまで、橋上へは入るな」


「警部は?」


 若い巡査が尋ねる。


「塔側へ回る」


「では、クラウスさんたちは」


「正面から行かせる」


 ミラベルが眉を上げた。


「囮ですか」


「立会人だ」


「言い方を変えただけでは?」


「怪盗はクラウスに用がある。お前は、記録係として付いてきたがった」


「それで、警部だけ安全な方へ?」


「どちらが安全か分かるなら、先に教えろ」


 グレアムは、拳銃の位置を確かめた。


 それから。


 レオンへ視線を向ける。


「王冠を渡す前に逃げそうなら?」


「追うな」


「警察に、怪盗を追うなと言うのか」


「王冠が先だ」


「分かっとる。だが、王冠を押収したあとなら追う」


「好きにしろ」


「最初から、そのつもりだ」


 グレアムは。


 旧契約塔へ続く下階の通路へ消えた。


 若い巡査も。


 最終指示を伝えるため、霧の中へ走っていく。


 すでに配置へ就いている警官たちは。


 旧保守橋のどこにも、姿を見せなかった。


 残されたのは。


 レオンとミラベル。


 橋の向こうは見えない。


 風が吹くたび。


 白い旗の合間から、旧契約塔の黒い壁が一瞬だけ現れ。


 また霧に閉ざされる。


「本当に来ていると思いますか」


 ミラベルが声を落とした。


「来る」


「可能性が高い、ではなく?」


「王冠を返さなければ、別紙は怪盗が作った偽物として処理される」


「だから、公的な立会いの前へ戻す必要がある」


「ルヴェールが予告状どおり、所有権を揺るがすつもりならな」


「来なかったら?」


「王冠だけを欲しがった盗人だったということだ」


「あなたは、そう思っていない」


 レオンは答えず、橋へ足を踏み出した。


 鉄板が低く鳴る。


 ミラベルも続いた。


 歩くたび。


 靴音が、霧の中へ吸い込まれていく。


 橋の半ばまで進んだとき。


 風向きが変わった。


 正面の霧が、薄く裂ける。


 白い人物が立っていた。


 旧契約塔側。


 橋の中央より、少し向こう。


 月白色の外套。


 濃紺の礼装。


 白い手袋。


 片側の鍔が長い夜会帽。


 目元を隠す、銀色の仮面。


 すらりとした長身。


 肩幅と立ち姿だけを見れば。


 市警記録が想定した、長身の男性像そのものだった。


 だが。


 レオンは、その輪郭を一瞥しただけで言った。


「今度は、中に人間が入っているらしいな」


 銀の仮面の奥で。


 怪盗の瞳が、わずかに細くなったように見えた。


「ご安心を。今回は、警棒で叩かれても骨組みは落ちません」


 低く整えられた声。


 男とも。


 作られた声とも取れる。


 霧と仮面が、その響きの輪郭まで曖昧にしていた。


「本物のルヴェールですか」


 ミラベルが尋ねる。


 白い怪盗は、帽子の鍔へ指を添えた。


「本物とは、どの部分をお尋ねでしょう」


「目の前にいる方が、予告状を書いた人物かどうかです」


「その問いへ答えてしまえば、次の記事が少々つまらなくなります」


「否定もしない」


「肯定もいたしません」


 レオンは。


 外套の裾から、仮面までを観察した。


「長身の男に見える」


「光栄です」


「そう見せていることしか分からない」


「探偵殿は、少しも夢を見てくださらない」


「夢を見せる奴ほど、起きたあとに財布を確かめるべきだ」


「今夜盗んだのは、財布ではございませんよ」


「王冠だ」


「果たして」


 ルヴェールは、身体を横へ向けた。


 外套の陰から、細長い筒を取り出す。


 古文書運搬用の保存筒だった。


 黒い革張り。


 両端を保護する真鍮枠。


 湿気を遮断するための留め具。


 人の腕ほどの長さしかない。


 円形に開かれた七葉銀冠は、到底入らない寸法だった。


 だが。


 折り畳まれた七枚の銀葉なら入る。


 ミラベルの目が、保存筒へ釘付けになる。


「王冠は、その中に?」


「探偵殿には、もうお分かりでしょう」


「開けろ」


「命令なさるのですね」


「盗品を返す場で、礼儀を求めるな」


「展示ケースを守る警察は多くても、展示されている意味を守る方は少ないようです」


 ルヴェールの視線が。


 霧の向こうにある美術館へ向けられる。


 蒼硝子円蓋は、夜明け前の闇の中で青白く浮かんでいた。


「盗人が、美術館の責任を論じるな」


 レオンが答える。


「美術館も、昔の盗品を展示しておりましたのに?」


「犯罪の古さは、犯罪者の無罪を証明しない」


 ルヴェールは、喉の奥で小さく笑った。


「では、百二十七年前の盗人も。今夜の盗人も。同じようにお裁きになります?」


「何が盗まれたかを調べてからだ」


「王冠でしょう」


「一度目は、それだけとは限らない」


 風が橋を渡る。


 白い外套が翻った。


 その下に見えた身体の線は。


 市警記録にある長身の男性としては、ひどく細く見えた。


 だが。


 次の瞬間には外套が戻り。


 印象は、また長身の紳士へ戻っていた。


 ミラベルは瞬きをする。


 姿勢が変わったのか。


 外套の中に、輪郭を補う仕掛けがあるのか。


 霧と風による錯覚か。


 見えた一瞬だけでは、どれとも断定できない。


「保存筒を、橋へ置け」


 レオンが言った。


「警察に囲ませ、わたくしだけをお持ち帰りになるおつもりですか」


「王冠も持ち帰る」


「まあ。探偵というものは、盗まれた品を持ち主へ返すのでしょう?」


「正当な持ち主ならな」


「では今夜、わたくしたちは同じ仕事をしているのかもしれません」


「俺は予告状を送らない」


「だから依頼人しか見てくださらないのです。少々、地味ですわね」


 ミラベルが、思わずレオンを見た。


「反論しないんですか」


「盗人の批評へ答える必要はない」


「地味なことは否定しない?」


「君は、どちらの助手だ」


「記録係です」


「便利な答えだな」


 ルヴェールが、楽しげに笑う。


「良い方をお連れです」


「返せ」


 レオンは繰り返した。


 声に笑いはなかった。


 ルヴェールは保存筒を胸元へ立て。


 留め具を一つ外した。


 次に。


 もう一つ。


 真鍮の蓋を、ほんの少し開く。


 筒の内側には。


 古文書や金属器が動かないよう、厚い緩衝布が敷かれていた。


 その中央から。


 銀色の葉先が現れる。


 一枚ではない。


 薄い銀葉が七枚。


 互いに重なり、細長い帯の形へ畳まれている。


 根元には、茶褐色の古い織布。


 展示ケースの中にあった、七葉銀冠だった。


 セルマの修復記録にあった、小さな傷。


 最後王の肖像画にも描かれていた、一枚だけわずかに短い銀葉。


 霧の中でも。


 同じ品であることを見分けられる特徴が残っている。


「近づけろ」


「まだ、信用なさいません?」


「信用していない。見ているだけだ」


「おや。いつか警部殿へおっしゃった言葉ですね」


 ルヴェールは、保存筒の口を少しだけレオンへ向けた。


 内側の織布。


 不自然な縫い目。


 縫合線は切られていない。


 古い糸が、連続したまま残っている。


 わずかに開いた布の隙間から。


 細く折られた紙の縁だけが見えた。


 引き抜かれてはいない。


 縫い直された新しい糸も見えない。


「中身を読んだのか」


 レオンが尋ねる。


「さて」


「縫い目は開かれていない」


「王冠を折り畳めば、布の隙間から紙の存在くらいは確認できます」


「文面は読めない」


「だからこそ」


 ルヴェールは蓋を戻さずに言った。


「探偵殿へお渡しするのです」


 ミラベルが、保存筒から目を離さない。


「別紙を取り出して、新聞社や広場へ送ることもできたはずです」


「そうすれば」


 レオンが答えた。


「マリウスの言ったとおりになる」


「怪盗が作った偽物」


「犯罪者の手を経た文書には、証拠能力がない」


「王冠そのものも、怪盗の手を経ています」


「だから、別紙を王冠から外していない」


 レオンは、連続した古い縫い目を見た。


「内布へ縫い込まれた状態のまま。公的な立会いの前へ戻す。紙、インク、糸、布の劣化。修復記録と照合できる形でな」


「本物だと証明できますか」


 ミラベルが尋ねる。


「まだできない」


 レオンは即答した。


「ここで分かるのは、別紙らしい紙が内布の縫い目に残り、少なくとも目に見える範囲で取り出されていないことだけだ」


「正式に保全し。第三者の立会いで開く必要がある」


「そうだ」


「では、ルヴェールは」


 ミラベルが怪盗を見る。


「王冠を盗む前から、返すつもりだった?」


「予告状には、お返しすると書きましたよ」


「一文を、です」


「一文だけを返せば、偽物と呼ばれる。王冠だけを返せば、ただの盗難で終わる」


 ルヴェールは、銀色の仮面をレオンへ向けた。


「さすがです、探偵殿」


「褒めても、窃盗は消えない」


「わたくしが消したかったのは、窃盗の記録ではございません」


「市が正当に所有しているという確信か」


「それは、もう消えているのでは?」


 霧の向こう。


 美術館の正面には。


 夜を徹して集まり続けた住民と記者の声が、かすかに届いていた。


 王冠が返っても。


 譲渡証書の一語は、もう以前と同じ意味には戻らない。


「王冠を投げるな」


 レオンが言った。


 ルヴェールは、筒の蓋を閉じた。


「なぜ、そのようなことを?」


「投げる顔をしている」


「仮面なのに?」


「姿勢で分かる」


「それは困りました」


 白い手袋が。


 保存筒を横へ倒す。


 レオンが一歩踏み出した。


「待て」


「探偵殿」


 ルヴェールは、細長い筒を軽く掲げた。


「王冠と怪盗。どちらをお取りになります?」


 次の瞬間。


 保存筒が、霧の中へ放たれた。


 橋の外ではない。


 二人の距離は、わずか数歩。


 ルヴェールは、レオンが必ず受け取ると読んだうえで、その胸元へ正確に筒を送っていた。


 レオンは目を離さず。


 左手を伸ばす。


 革張りの筒が掌へ当たる。


 衝撃を腕で受け。


 身体へ引き寄せる。


 内部の王冠は、厚い緩衝布に支えられ。


 金属が打ち合う音すら立てなかった。


「両方だ」


 保存筒を左腕へ抱えたまま。


 右手でルヴェールの手首をつかもうと、踏み込む。


 ルヴェールは半歩下がった。


「強欲でいらっしゃる」


「窃盗犯に言われたくない」


 怪盗の背後。


 旧契約塔側の霧が割れた。


「そこまでだ!」


 グレアムが現れた。


 拳銃を構え。


 背後には、二人の警官。


 円蓋側からも、市警の靴音が近づいてくる。


 ルヴェールは。


 橋の中央で挟まれた。


 正面に、レオン。


 背後に、グレアム。


 左右は鉄柵。


 その外は。


 霧に沈んだ、上層区の屋根。


「今度は、人形じゃなさそうだな」


 グレアムが言った。


「叩いて、お確かめになります?」


「手錠を掛ければ分かる」


「警部殿。怪盗紳士へ、もう少し優雅な扱いを期待しておりました」


「盗人に礼儀を説かれるのは、今夜二度目だ」


 グレアムは、間合いを詰める。


「両手を、見える位置へ出せ」


 ルヴェールは従うように。


 白い両手を、ゆっくり広げた。


 武器はない。


 少なくとも。


 見える範囲には。


「逃げ道はない」


 グレアムが言う。


「橋の両端は押さえた。下へ飛べば死ぬぞ」


「警部殿は、怪盗が道を歩いて逃げるものとお考えで?」


「索道!」


 レオンが顔を上げた。


 ルヴェールの頭上。


 特別展示用の旗を張るために設置された、細い索道。


 白い装飾旗の陰へ。


 小型の滑車が隠されている。


 ルヴェールは、広げた右手を上へ伸ばした。


 白い手袋の袖口から、細い金具が飛ぶ。


 索道へ噛み合った。


「動くな!」


 グレアムの拳銃は。


 怪盗の胸を追っていた。


「王冠へ当てないでくださいまし」


「王冠は、クラウスが持っとる」


「では、記者のお嬢さんへ?」


「挑発には乗らん」


 グレアムの照準は揺れなかった。


 だが。


 引き金も引かなかった。


 狭い橋の上。


 ルヴェールの正面にはレオンが立ち。


 その後ろには、ミラベルがいる。


 風にあおられた装飾旗が。


 銃口と怪盗のあいだへ、何度も入り込む。


 橋の下では。


 下層通路へ配置された警官たちの影が。


 霧と蒸気の合間に見えていた。


 さらに。


 怪盗の背後には、索道の金具と高圧蒸気管が重なっている。


 弾が逸れれば。


 味方へ当たる。


 蒸気管を撃ち抜けば。


 狭い橋上に、高温の蒸気が噴き出す。


 安全に撃てる射線はなかった。


「鉄柵から離れろ」


 グレアムは銃口を保ちながら命じた。


「撃たないのですか」


「撃てないんじゃない」


 警部は、怪盗の動きを見失わない。


「いまは、撃たんだけだ」


 ルヴェールは鉄柵へ足を掛けた。


 レオンが、外套の端をつかむ。


 白い布が張り詰める。


 一瞬。


 怪盗の身体が、外套の内側で沈んだ。


 長身の男だったはずの輪郭が。


 肩から縮んだように見えた。


 レオンの指から。


 外套の布だけが、滑り抜ける。


 ルヴェールは、鉄柵の外へ身体を投げた。


 落下しない。


 索道の滑車が回る。


 細い金属音。


 白い外套が旗の列へ溶け込み。


 旧契約塔から下層の屋根へ向かって、霧の中を斜めに滑り降りていく。


 グレアムは、横へ踏み出した。


 射線を確保しようとする。


 だが。


 装飾旗が怪盗の姿を断続的に隠し。


 下層通路に配置された部下たちと。


 屋根上の蒸気管が、その向こうへ重なった。


 発砲できる一瞬は、訪れない。


「下へ回れ!」


 グレアムが、拳銃を下げずに部下へ怒鳴った。


「索道の終点を押さえろ!」


 警官たちが走り出す。


 霧の中。


 滑車の音だけが、遠ざかる。


 ミラベルは、鉄柵へ近づいた。


 白い怪盗の姿は。


 もう、輪郭しか見えない。


 外套が風に持ち上がる。


 その一瞬。


 長身の男性と思っていた身体が。


 ずっと小柄で。


 細いものに見えた。


 だが。


 次の旗が、視界を横切る。


 白い姿は再び長く伸び。


 霧の下へ消えようとしていた。


 ミラベルは。


 見た印象を言葉にしようとして。


 やめた。


 体格が変わったのか。


 外套の中の仕掛けが外れたのか。


 索道へ身体を預けた姿勢のためか。


 証明できるものはない。


「記録係のお嬢さん」


 霧の向こうから。


 ルヴェールの声が届いた。


 拡声器を使っているのか。


 橋の鉄骨が、声を伝えているのか。


 発信位置までは分からない。


「どうか、見たものだけをお書きください」


 ミラベルは、白い影へ向けて声を返した。


「見せたかったものだけを書くつもりもありません」


 少しの間。


 風と滑車の音だけが続いた。


 やがて。


 怪盗の笑い声が、霧の底から返ってくる。


「それは楽しみです」


 白い外套は、見えなくなった。


 グレアムは、鉄柵を拳で叩いた。


「また逃がした」


「まだ、部下が追っています」


 ミラベルが言う。


「捕まらん顔をしとる」


「警部も、そう思っている顔です」


「黙れ」


 グレアムは、レオンへ振り返った。


「筒を寄こせ」


「受領時の状態を記録する」


「市警が先だ」


「投げられた時点から、俺が保持している。状態を記録してから渡す」


「俺も見とった」


「ミラベルもいる」


「だから、俺が押収するんだ」


 レオンは、保存筒を腕に抱いたまま留め具を確認した。


 怪盗が閉じた二つの金具。


 外側に目立つ傷はない。


 真鍮枠も変形していない。


「ミラベル。時刻」


 彼女は、懐中時計を見る。


「午前四時三十二分」


「旧保守橋中央。ルヴェールを名乗る人物から、古文書保存筒一個を受領」


 ミラベルが取材帳へ記す。


「受領時、筒の外装に大きな破損なし。内部に緩衝布を確認。橋上で一度開封され、内部に折り畳まれた七葉銀冠と、縫合部に収められた紙片の縁を目視」


「未開封と断定するな」


 レオンが言った。


「目視した範囲では、古い縫い糸が連続し、明らかな切断と再縫合の跡は確認できず」


「それでいい」


 グレアムは、証拠用の封印線を取り出した。


「市警が押収する」


 保存筒の留め具へ線を巻き。


 グレアムの警察印を押す。


 続いて。


 レオンが受領時刻の横へ署名し。


 ミラベルが、立会人として記名した。


 これより先。


 筒を開けば。


 誰が。


 いつ。


 どのような状態で開いたのか。


 記録へ残る。


「王冠は戻った」


 ミラベルが言った。


「まだ、誰のところへ戻ったかは決まっていない」


 レオンは答える。


「市警が預かる」


 グレアムが、封印済みの筒を抱えた。


「証拠品としてな」


「怪盗は捕まりませんでした」


「次は捕まえる」


「正体も分からない」


「次は顔を見る」


 レオンは。


 霧の中へ続く索道を見た。


「見せられた顔だろうな」


「縁起でもないことを言うな」


「市警記録を書き直す必要がありますね」


 ミラベルが言った。


「男性。二十五歳から四十歳。長身」


「全部、推定へ戻せ」


 グレアムが、苦々しく答える。


「白い外套と銀の仮面も?」


「衣装だ」


「紳士は」


「自称だ」


「怪盗は?」


「窃盗事件の被疑者だ」


「そこだけは変わりませんね」


 夜明けの光が。


 霧の上から、旧保守橋へ届き始める。


 黒かった鉄骨の縁が。


 淡い銀色に変わる。


 蒼硝子円蓋も。


 旧契約塔も。


 少しずつ輪郭を取り戻していた。


 七葉銀冠は。


 証拠として、市警の管理へ入った。


 証人別紙らしき紙の縁も。


 目視できる範囲では、古い縫合の内側に残されていた。


 それが本物か。


 何が記されているか。


 怪盗が保持していた時間に、手を加えられていないか。


 土地と王冠を、誰が所有するのか。


 答えは。


 これから正式な鑑定と審査によって、確かめなければならない。


 確定したのは。


 ルヴェールを名乗る人物が。


 盗まれた七葉銀冠を、証拠として返したこと。


 そして。


 レオン=クラウスが、展示ケースから王冠を消した方法を解きながら。


 怪盗紳士ルヴェールを捕らえられなかったことだった。


「探偵殿」


 もう、声は聞こえない。


 それでも。


 霧の底から、怪盗の笑いが残っているように思えた。


 レオンは何も言わず。


 索道の消えた先を見ていた。


 ミラベルは、その横顔を取材帳へ書かなかった。


 代わりに。


 一行だけ記す。


 ――王冠は、証拠として戻った。


 ――怪盗は、記録の外へ逃げた。

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