↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
116/228

第13節 ― 二つの午前零時

 レオン=クラウスが扉へ手を掛ける。


 重い硝子扉が開き。


 蒼硝子円蓋室へ、関係者たちの足音が戻った。


 王冠が消えたあとの夜は。


 まだ、そこに残っていた。


 円蓋の向こう。


 煤霧に沈んだ空は黒く。


 東の端にも、朝の色は見えない。


 十基の蒸気灯は消されず。


 白い炎を、蒼い硝子へ幾重にも映していた。


 壁の時計は。


 午前三時に近づいている。


 中央の展示ケースには。


 七葉銀冠も。


 代わりに残された銀板もない。


 濃紺の展示布は半ばまでめくられ。


 その下に。


 銀板を隠していた細長い収納溝が、露出している。


 湿度管理口の丸い金属縁には。


 地下方向へ続く、新しい擦り傷が残っていた。


 王冠そのものは。


 まだ、返還されていない。


 証人別紙が、本当に内布へ収められているのか。


 何が書かれているのか。


 文字が無事なのか。


 それは、誰にも確認できなかった。


 展示ケースの脇には。


 市警が運び込んだ、長い証拠卓が置かれていた。


 王冠と、ほぼ同じ重さの銀板。


 切れた極細銀糸。


 熱を受けて変形した樹脂。


 保存管から採取された銀粉と、古い織布の微細繊維。


 追加濾過器。


 その内部から見つかった薬剤容器。


 植物性インクだけが薄くなった試験札。


 どの証拠品にも。


 採取場所。


 採取時刻。


 封印番号。


 移送を確認した警官の署名が付いている。


 市警記録係は。


 一つずつ封印状態を読み上げ。


 警官が、確認済みの品だけを卓上へ置いていった。


 証拠卓から離れた位置には。


 マリウス=フェインが立たされている。


 左右には、制服警官。


 その手が卓へ届かない距離を保っていた。


 オスカー=ベルム館長と、保存部門主任は。


 市警記録係のそば。


 セルマ=アストレイは、展示ケースに近い側へ立つ。


 再開発組合の代表と、土地記録局の記録官も。


 部屋の後方から立ち会っていた。


 グレアムは、証拠卓の端。


 ミラベルは、その隣で取材帳を開く。


 レオンだけが。


 王冠の消えた展示台の前に立っていた。


「始めろ」


 グレアムが言った。


「旧保守橋へ出した連中を、いつまでも霧の中へ立たせておくわけにはいかん」


「二つの仕掛けは、午前零時に作動した」


 レオンは答えた。


「これから確認するのは。その同じ時刻へ、何が重なっていたかだ」


「午前零時は、一度しか来とらん」


「時刻はな」


 レオンは、証拠卓を見る。


「計画は二つあった」


「新しい証拠はないんですね」


 セルマが尋ねた。


「ない」


 レオンは即答した。


「必要な証拠は、すべて確認済みだ」


 市警記録係のペンが。


 紙の上で止まる。


「なら、最初から聞かせろ」


 グレアムが腕を組んだ。


「王冠が消えた方からだ」


     ◇


 レオンは。


 展示ケースの封蝋跡を指した。


「まず。犯人が何をしなかったかを確認する」


 硝子は、破られていない。


 三本の鍵は、使われていない。


 封蝋も。


 王冠が消えるまで、傷ついていなかった。


 重量記録機は正常。


 警報鐘も正常。


 十基の蒸気灯は消えず。


 警官も。


 美術館職員も。


 レオンも。


 ミラベルも。


 セルマも。


 王冠が形を失う瞬間を見ていた。


「怪盗は、外から展示ケースを開けていない」


 オスカーが言った。


「それは、すでに確認されています」


「だから」


 レオンは答えた。


「ケースを開けようとする者だけを警戒しても、意味がなかった」


「警備員は、王冠を見ていました」


「円形の王冠をな」


 レオンは。


 リュシアンから借りた儀礼図の写しを、セルマへ渡した。


 セルマは図を広げる。


 七枚の銀葉。


 それを額へ沿わせ。


 頭の周囲へ巻き。


 儀礼を終えたあとは。


 一枚ずつ重ね、細長い箱へ収める。


「七葉銀冠は」


 セルマが言った。


「硬い金属の輪ではありません」


 指先で、図の折り目をたどる。


「七枚の銀葉を、可動金具と古い織布でつないだ儀礼具です。頭へ載せるときは円形に開き。保管時には、葉を重ねることができる」


「古い図だけでは」


 再開発組合の代表が言った。


「今回展示されていた王冠が、同じ構造を保っていた証拠にはならない」


「はい」


 セルマは、反論しなかった。


「図だけなら」


 次に。


 犯行時の観察記録を開く。


「ですが。午前零時。七枚の銀葉は、実際に一枚ずつ内側へ倒れました」


 レオンが、銀葉の動きを。


 ミラベルが、展示台と重量記録機を。


 セルマが、内布を見ていた。


 三人は。


 それぞれ別の箇所を観察している。


「円形だった王冠は」


 セルマは言った。


「私たちの目の前で、細い銀の帯へ変わった」


「つまり」


 グレアムが、市警記録係を見る。


「折り畳み可能な構造は、儀礼図と目撃の両方で確認できる」


 記録係が書き留めた。


 レオンは次に。


 湿度管理口の記録写真を示す。


 丸い金属縁。


 地下方向へ伸びる擦過痕。


 銀粉。


 茶褐色の繊維。


 引き延ばされた樹脂。


 切れた極細銀糸。


「銀製の物体が」


 ミラベルが言った。


「古い織布と、柔らかくなった樹脂を伴って。展示ケースから、保存管の奥へ通った」


「銀糸に引かれてな」


 グレアムが続ける。


「それを七葉銀冠とは別の物だと言うなら」


 レオンは、写真を卓へ戻した。


「同じ銀。同じ種類の古布。同じ固定用樹脂を持つ別の物体を、王冠が消えた時刻に、同じ管へ通したと示す必要がある」


 そのような物体は。


 館内のどこからも見つかっていない。


「王冠が折り畳まれたことは、図と目撃が示している」


 レオンは言った。


「保存管を通ったことは、管内に残された物が示している」


「王冠そのものが戻っていなくても」


 セルマが言う。


「展示ケースから消えた方法は、確認できる」


「ああ」


 レオンは。


 修復記録の写しを手に取った。


「次は。誰が、その変化を仕込める立場にいたかだ」


 王冠の修復へ関わった者。


 セルマ。


 保存技師二名。


 そして。


 ヴァラン=コートを名乗った修復師。


 本物のヴァラン=コートは。


 十年前に死亡している。


 死亡記録は正式。


 職人登録も。


 古美術修復資格も。


 過去の納入実績も。


 身元保証印も。


 すべて本物だった。


「偽造した資格で入ったのではない」


 ミラベルが言った。


「死者が持っていた、正式な資格を利用した」


「美術館は、資格を照会しました」


 オスカーが言う。


「記録上、不備はなかった」


「記録の人物と」


 レオンは、館長を見る。


「目の前の人物が同じかは、確認しなかった」


「本物のヴァランの顔を知る職員がいませんでした」


「だから利用された」


 正式な修復師として。


 王冠へ触れる。


 固定具を交換する。


 銀葉を開き。


 内布を確認し。


 展示台の周囲を歩く。


 侵入ではない。


 美術館の許可を得た、正規の作業だった。


「その人物が、ルヴェールだった」


 オスカーが言った。


「可能性はある」


 レオンは訂正した。


「だが、証明されていない」


「なぜです」


「怪盗本人ではなく、協力者かもしれない。複数の人物が、同じ資格記録を使った可能性も消えていない」


 背の高い老人。


 腰の曲がった、小柄な人物。


 低い声。


 ほとんど話さない。


 右手で、大きな道具を使い。


 左手で、精密な作業をしていた。


 証言は。


 一つの身体へ、きれいにはまとまらなかった。


「確認できるのは」


 レオンは言った。


「仕掛けが、ヴァラン=コート名義の修復工程へ紛れ込ませられたことまでだ」


 保存部門主任が、交換記録を開く。


「腐食していた金属固定具を、保存用樹脂へ交換しています。使用された樹脂も、美術修復で認められた材料です」


「常温ならな」


 レオンは。


 変形した樹脂片の記録写真を指した。


「午前零時の定時保存運転で、ケース内部へ温められた乾燥空気が入る。その温度で柔らかくなる樹脂が選ばれていた」


 固定が緩む。


 銀糸が引かれる。


 七枚の銀葉が、順に重なる。


 ミラベルは。


 展示布の下に残された、細長い収納溝を見た。


「同時に、別の銀糸が銀板を引いた」


 市警の証拠卓に置かれた。


 薄い銀板を見る。


「銀板には、装飾も。歴史も。王の署名もありません」


「あるのは」


 グレアムが言った。


「七葉銀冠と、ほぼ同じ重さだけだ」


「重量記録機は」


 ミラベルが、記録紙を掲げる。


「王冠を識別していません」


 銀か。


 王冠か。


 王権の象徴か。


 機械には分からない。


「展示台の上に、規定された重さがあるかを測っていた」


 グレアムは、銀板を持ち上げたときの警報を思い出す。


「銀板を持ち上げれば、警報は鳴った。戻せば止まった」


「機械は、間違えていない」


 ミラベルが答える。


「王冠ではなく。同じ重さが残っていると、正しく記録しただけです」


 レオンは。


 展示ケースと証拠卓を見比べた。


「王冠は、形を変えて保存管へ入った」


 銀糸に引かれ。


 地下方向へ。


「同時に。王冠と同じ重さが、展示位置へ滑り込んだ」


 封印は破られず。


 鍵も開かず。


 灯りも消えず。


 重量警報も鳴らない。


「これが」


 レオンは言った。


「王冠を展示ケースから消した、最初の午前零時だ」


 オスカーが、地下保存区画の図を見る。


「では、管の先で王冠を受け取ったのは」


「分からない」


 レオンは即答した。


「外部点検員では?」


「灰色の外套を着た点検員が」


 ミラベルが記録を確認する。


「午前零時三分。正式な緊急連絡票を使い、正面玄関から退出した。それは事実です」


「外部保守所へ、到着していない」


 グレアムが続けた。


「顔を、明確に記憶している者もいない」


 白い怪盗人形が。


 円蓋の上へ現れ。


 警官たちの視線を集めていた時刻。


 点検員は。


 正式な書類を見せ。


 正面玄関を通過した。


「点検員が王冠を搬出した可能性は高い」


 レオンは言った。


「だが。工具鞄の中を確認した者はいない。王冠を所持していたことは、証明されていない」


「ルヴェール本人だったことも?」


「未確認だ」


「ヴァランを名乗った人物と、同じだったことも」


「分からない」


 白い外套。


 銀の仮面。


 円蓋の上を走った、長身の怪盗。


 その正体は。


 蒸気圧と清掃用ワイヤーで動かされた人形だった。


 確定したのは。


 白い姿が囮だったこと。


 その間に。


 顔の記憶されていない点検員が、正面玄関から退出したことまで。


「王冠を持ち出した者の姿は」


 レオンが言った。


「まだ、記録へ所属させられない」


 グレアムが鼻を鳴らす。


「王冠を返す保証は」


「返す」


「なぜ言い切れる」


「返さなければ」


 レオンは、予告状の写しを見る。


「王冠の内側にあるかもしれない一文を、証拠にできない」


 怪盗が別紙だけを取り出せば。


 偽造を疑われる。


 王冠を戻さなければ。


 文書が、犯行前から内布へ収められていたと検証できない。


 王冠は、まだ返還されていない。


 だからこそ。


 展示ケースから消した方法と。


 持ち出した者の正体を。


 同じ確度で語ってはならなかった。


「王冠を消した計画は、ここまでだ」


 レオンの合図で。


 警官が。


 銀板。


 銀糸。


 樹脂。


 管内採取物。


 展示ケースの図を。


 証拠卓の左側へまとめた。


 続いて。


 追加濾過器。


 薬剤容器。


 試験札。


 セルマの内部報告書を。


 右側へ置く。


 同じ卓の上で。


 二つの証拠群が、離された。


「次は」


 レオンは、マリウスへ視線を向けた。


「もう一つの午前零時だ」


     ◇


「保存設備への不正工作も、怪盗の犯行でしょう」


 マリウスが言った。


「同じ保存管を使った。同じ午前零時に作動した。怪盗が仕掛けたと考えるのが自然です」


「自然に見えるようにした」


 レオンが答えた。


「何を根拠に」


「二つの仕掛けは、逆の結果を求めている」


 証拠卓の左側。


 王冠をなくす仕掛け。


 形を変え。


 保存管へ引き込む。


 証拠卓の右側。


 王冠が展示ケースへ残っていることを前提に。


 保存空気へ薬剤を混ぜる仕掛け。


「試験札で確認されたのは」


 レオンが言った。


「現代の炭素インクが残り。古い植物性インクだけが薄くなったことだ」


「薬剤の目的は、まだ断定できないはずです」


「そのとおりだ」


 マリウスの反論を。


 レオンは簡単に認めた。


「成分分析は終わっていない。証人別紙が本当に存在するかも分からない」


「なら」


「だが」


 レオンは、セルマの報告書へ手を置く。


「王冠の内布に。古い植物性インクで書かれた文書が隠されていたなら」


 薬剤を含んだ保存空気は。


 銀を残し。


 織布を残し。


 紙を残し。


 文字だけを、読み取れないほど薄くする可能性があった。


「王冠を展示ケースから消した者は」


 ミラベルが言う。


「王冠を、そこからなくそうとした」


「薬剤を仕込んだ者は」


 レオンが続けた。


「午前零時を過ぎても、王冠が展示台へ残ることを前提にしていた」


「同じ人物なら」


 ミラベルは、試験札を見る。


「王冠を持ち出したあとで、文書を捨てればいい。展示ケースの中へ薬剤を流す必要はありません」


 マリウスは黙った。


「薬剤を仕込んだ者は」


 グレアムが言った。


「怪盗が王冠を管へ引き込むとは、知らなかった」


「少なくとも」


 レオンが訂正する。


「その方法までは、知らなかった」


「では、誰が薬剤を仕込んだ」


 オスカーが尋ねる。


「それを、いま確認する」


 レオンはセルマを見る。


「内布についての正式な報告書を読んだ者は」


「四人です」


 セルマが答えた。


「私。オスカー館長。保存部門主任。そして、マリウス=フェイン認定官」


「あなたは、別紙が存在すると断定した?」


「していません」


「何が書かれているかは」


「分かりません」


「求めたのは」


「展示前の精密調査です」


「館長は」


 オスカーが視線を伏せた。


「展示終了後へ延期しました」


「フェイン認定官は」


「法的根拠のない未確認説を、非公開資料として扱うよう意見を付けました」


 マリウス自身が答えた。


「確認前の推測で、市民生活を混乱させるべきではない」


「その二日後」


 レオンは、濾過器の設置許可書を示した。


「土地記録局の許可によって。七葉銀冠専用の保存管へ、防黴濾過器が追加された」


「古い織布を保護するためです」


「許可印は、あなたのものだ」


「認めています」


「設置時に使われた、土地記録局用保守鍵」


 次に。


 鍵の使用簿を開く。


「管理番号も、あなたのものだ」


「部下へ任せました」


「誰へ」


 マリウスは答えなかった。


「貸出先の名は、使用簿にない」


 レオンが言った。


「あなたは、地下保存区画で尋ねられたときも。部下の名を挙げられなかった」


「日常業務の一つです。いま思い出せないだけだ」


「なら。事実だけを並べる」


 レオンは、一本指を立てた。


「あなたは、セルマの報告書を読んだ」


 二本目。


「その二日後。追加濾過器の設置を許可した」


 三本目。


「設置には、あなたの管理下にある保守鍵が使われた。貸出先の名は残っていない」


「それだけで、私が薬剤を入れた証拠にはならない」


「そのとおりだ」


「なら、なぜ私を」


「まだ、残っている」


 レオンは、ミラベルを見る。


「あなたは、ミラベルの問いへ答えなかった」


 マリウスの表情が。


 わずかに固まった。


 王冠が消えた直後。


 白い人形が、円蓋上へ姿を現した。


 警察も。


 館長も。


 セルマも。


 ミラベルも。


 白い姿を見上げた。


 マリウスは。


 保存装置の圧力計を見ていた。


 ミラベルは、すでに尋ねている。


 何が起きると考えていたのか。


 圧力が上がっても。


 起きるはずのことが起きなかったから、見ていたのではないかと。


 マリウスは。


 その問いへ答えなかった。


「沈黙は、自白ではない」


 マリウスが言った。


「そうだ」


 レオンは認める。


「だから、同じ質問はしない」


「では」


「あなたが、何を守ろうとしているのかを見る」


 レオンは。


 古エルフ語原文。


 百二十七年前の共通語訳。


 現在の市が使用していた現代語訳。


 三つの文面を、マリウスの前へ並べた。


「現代語訳では」


 ミラベルが言った。


「王冠と七つの領地に関する、全所有権の永久譲渡になっています」


「古エルフ語原文には」


 セルマが続ける。


「管理を委ねる。守護を託す。そのようにも読める語が使われている」


「市は、百二十七年間、土地を管理してきた」


 マリウスが言った。


「道路を造り。工場を誘致し。上下水道を整え。住民と契約し。税を徴収した」


「管理したことと」


 レオンが答える。


「所有してよいと証明されたことは、同じではない」


「法律上の所有権は。百二十七年間の行政実績によって成立している」


「それを再検討する資料が、王冠の内側にあるかもしれない」


「未確認の紙片一枚です」


「なら、調べればいい」


「調べた結果」


 マリウスの声が強くなる。


「市が所有者ではないとされたら、どうする」


「それを決めるのは、探偵ではない」


「無責任だ」


「権限がない」


「権限のない者は、真実だけを示し。混乱の責任を取らない」


 蒸気灯の光が。


 マリウスの顔へ、深い影を落とす。


「再開発は、すでに何年も進んでいる。契約も。融資も。移転計画も。土地の所有権認定を白紙へ戻せば、何万人が影響を受けると思っている」


「だから」


 レオンは、マリウスから目を逸らさない。


「読ませないことを選んだ」


「古い王の曖昧な一文で」


 マリウスの声が、崩れ始める。


「現在の都市を壊すわけにはいかない」


 それは。


 否定ではなかった。


 弁明だった。


 セルマが。


 ゆっくりと、顔を上げる。


「何が書かれているかも、確認していないのに」


「内容は、想像できる」


「だから、文字を消そうとしたんですか」


「調べれば、争いが始まる」


「調べなくても」


 セルマの声は震えていた。


 けれど。


 言葉は、揺らがなかった。


「そこに書かれていたものは、なくなりません」


「記録されなければ」


 マリウスは言った。


「法的には、存在しない」


 円蓋室の空気が。


 一瞬だけ、完全に止まった。


 レオンは。


 植物性インクの線が薄れた試験札を持ち上げる。


「だから。紙を焼かなかった」


 マリウスの瞳が動いた。


「王冠を壊さず」


 銀は残る。


「織布を破らず」


 縫い目も残る。


「文書を持ち出さず」


 紙も残る。


「文字だけを、薄くする」


 あとから見つかっても。


 長い年月で自然に褪せたのか。


 初めから、何も記されていなかったのか。


 断定できない。


「怪盗の予告状が届いた」


 ミラベルが言った。


「それでも、あなたは計画を止めなかった」


「保存設備と怪盗の予告は、関係ない」


「関係があると思ったから」


 レオンが答えた。


「利用できると考えた」


「何をです」


「王冠の内布が傷ついても。文字が失われても」


 怪盗が王冠を盗む。


 その混乱の中で。


 薬剤が、保存空気へ混じる。


「怪盗の仕業にできる」


 マリウスの唇が、かすかに動く。


「王冠が戻ったとしても」


 ミラベルが続けた。


「文字が消えていれば。怪盗が消した。怪盗が偽造した。そう言える」


「犯罪者が持ち出した文書に、証拠能力がないのは事実です」


「その言葉で」


 セルマが言った。


「あなたは、最初から別紙を調べさせないつもりだった」


「私は」


 マリウスの呼吸が乱れる。


「都市を守ろうとした」


 グレアムの顔が変わった。


「何からだ」


「百二十七年前の亡霊からだ」


 マリウスは。


 もう、レオンだけを見ていなかった。


 セルマを。


 ミラベルを。


 オスカーを。


 再開発組合の代表を。


 自分の判断へ従うべき、都市の構成員を見るように。


 順に見た。


「市の所有権が揺らげば、再開発だけでは済まない。現在の契約が争われる。補償請求が起きる。土地価格が崩れる。道路も工場も住宅も、誰の土地へ建っているのか分からなくなる」


「だから」


 レオンが言う。


「一文を、読まずに処理した」


「読む必要はなかった」


 マリウスは、低く答えた。


「私が濾過器へ入れた薬剤で、文字が薄くなれば。それが自然に褪せたものか。初めから何もなかったのか。誰にも証明できない」


 セルマが息を呑んだ。


 グレアムの隣で。


 市警記録係のペンが。


 紙を擦る音だけがした。


 マリウス自身も。


 口にした言葉の意味へ、遅れて気づいた。


 唇を閉ざす。


 だが。


 言葉は、すでに記録されていた。


「いま」


 グレアムが言った。


「自分で入れたと言ったな」


 マリウスは答えなかった。


 警部が、一歩近づく。


「認定前の濾過器へ」


 掠れた声が、円蓋室へ落ちる。


「私が、容器を入れた」


 オスカーが息を呑む。


 保存部門主任の顔から、血の気が引いた。


「設置作業は」


 グレアムが尋ねる。


「通常の認定部品として回した」


「作業員は、中身を知っていたのか」


「知らない」


 マリウスは答えた。


「防黴処理を補助する容器だと伝えた」


「土地記録局用の保守鍵は」


「鍵の貸出先を記録へ残さず、通常の設置工程として通した」


「誰へ貸した」


「通常の設置担当者だ」


「名前は」


 マリウスは目を閉じた。


「貸出先の欄を、私が空欄のまま通した」


「容器が、何をするか知っていたのは」


 グレアムが言う。


 マリウスは目を開いた。


「私だけだ」


 それは。


 都市を守ったという弁明と。


 自ら不正工作を行ったという供述が。


 同じ人物へ所属した瞬間だった。


     ◇


「現在の市民を、守ったつもりですか」


 ミラベルが尋ねた。


「そうだ」


「美術館前で、立ち退きに反対していた人たちを見ましたか」


「再開発には、移転措置がある」


「市と、正式な契約を結んだ家族が」


 ミラベルは。


 声を荒らげなかった。


 ただ。


 その都市の住民を、一人ずつ彼の前へ戻していく。


「市の土地だと信じて住み。市が進める計画によって、追い出されようとしていました」


 若いドワーフの工房。


 旧王家への単純返還を求めなかった老エルフ。


 市との契約を守ったのに。


 家を失おうとしていた家族。


「あなたが守ろうとした都市に」


 ミラベルは言った。


「あの人たちは入っていますか」


 マリウスは、答えなかった。


「旧王家へ土地を返せば、すべて解決するわけではありません」


 セルマが言う。


「最後王の末裔が誰かも。王に、そこへ暮らすすべての民の土地を預ける権限があったかも。まだ分からない」


 内布の縫い目があるはずの場所へ。


 視線を落とす。


 そこに王冠はない。


「現在の住民を」


 セルマは続けた。


「新しい失権者にしてはならない」


「なら、私の判断は」


「だからこそ」


 セルマの声が。


 静かに、強くなる。


「あなた一人が、文字を消して決めてよいことではありません」


「百二十七年前の王も」


 ミラベルが続ける。


「現在の認定官も。そこに暮らす人たちを、紙の外へ置いて決めてはいけない」


「都市には、決断が必要だ」


 マリウスは。


 最後まで、その言葉を捨てなかった。


「決断と」


 レオンが答える。


「証拠隠滅は別だ」


「真実を示したあと。都市が壊れても、あなたは責任を取らない」


「俺は、土地の所有者を決めない」


「だから、無責任だ」


「決める権限がないからだ」


 レオンの声は変わらない。


「あなたには、所有権を認定する権限があった」


「そうだ」


「証拠を消す権限はない」


 マリウスの肩が落ちる。


「私は、都市を守った」


 もう一度、言った。


「自分の認定を守った」


 ミラベルが返す。


「再開発契約を守った」


「市民の暮らしだ」


「どの市民ですか」


 返答はなかった。


     ◇


 グレアムが、証拠卓から離れた。


 マリウスの前へ立つ。


「マリウス=フェイン」


 警部の声が。


 蒼硝子円蓋室へ、低く響いた。


「歴史資料に対する損壊未遂。証拠隠滅未遂。保存設備への不正工作。職務権限の不正使用」


 左右の警官が動く。


「以上の容疑で逮捕する」


 マリウスの両腕が取られ。


 拘束具が掛けられる。


 金属の閉じる音がした。


「私は、土地記録局の上級認定官だ」


「知っている」


 グレアムは答えた。


「だから。印章。保守鍵。認定済み部品の納入経路。貸出記録の不正処理。全部調べる」


「都市機能が止まるぞ」


「止めた奴を調べるのも、市警の仕事だ」


「怪盗は逃げたままだ」


「窃盗犯は、別に追う」


 グレアムは。


 左右へ分けられた証拠を見る。


「同じ午前零時に起きたからといって、同じ犯罪者にはせん」


 マリウスは、連行される前に。


 空になった展示ケースを見た。


「王冠が戻ったとしても」


 彼は言った。


「中の文書が本物だと、誰が証明する」


「調べます」


 セルマが答えた。


「紙。インク。糸。縫い目。織布の劣化」


 搬入時の写真乾板。


 修復前の記録図。


 修復室へ保存された、織布標本。


「怪盗が保持していた時間に加工できたものか。薬剤による影響があったか。それも含めて」


「偽物なら」


「偽物だと記録します」


「本物なら?」


 セルマは。


 王冠のない場所を見た。


「本物であることを、記録します」


 マリウスは。


 警官に連れられていった。


 扉が閉まり。


 靴音が。


 回廊の向こうへ、遠ざかる。


 壁の時計は。


 午前四時を過ぎていた。


 円蓋室へ。


 遠い機械音だけが戻る。


 オスカーが、重い息を吐いた。


「これで、事件は解決ですか」


「一つはな」


 レオンが答えた。


「王冠は、まだ戻っていない」


「怪盗の正体も」


 セルマが言う。


「分からないままです」


「分かったのは」


 レオンは、折り畳み式人形の記録図を見る。


「王冠を展示ケースから消した方法。死者の正式な資格が利用されたこと。白い姿が囮だったこと。顔の記憶されていない点検員が、正面玄関から退出したことまでだ」


「次は、本人を捕まえる」


 グレアムが言った。


「本人かどうかは、捕まえてから確かめろ」


「お前は、最後まで面倒な言い方をするな」


 壁の伝声管が鳴った。


 グレアムが蓋を開く。


『旧保守橋、配置維持。現在まで異常なし』


 先行した巡査の声だった。


『橋上に人影なし。旧契約塔側、美術館側とも待機中。索道設備と周辺蒸気管、確認済みです』


「怪しい者は」


『まだ現れていません』


「そのまま動くな」


 グレアムが答えた。


「誰か現れても、俺が着くまで手を出すな」


『了解』


 蓋を閉じる。


 円蓋室に。


 歯車の音だけが残った。


「本当に、旧保守橋へ来るんですか」


 ミラベルが尋ねる。


「返却場所としては、最も可能性が高い」


 レオンは、予告状の写しを外套へ収めた。


「王冠を公的な管理へ戻せる。複数の者が、受け渡しを目撃できる。索道もある。怪盗の演目としても悪くない」


「本人が来るとは限らん」


 グレアムが言った。


「人形かもしれない」


「点検員かも」


 ミラベルが続ける。


「王冠だけが、空から降りてくるかもしれません」


「何でもありだな」


「白い外套だけを待つよりはましだ」


 レオンが答えた。


 グレアムは。


 帽子を深くかぶる。


「橋へ行くぞ」


 オスカーが、一歩出た。


「私も立ち会います。王冠は、美術館の所蔵品です」


「返った瞬間から、事件の証拠品だ」


 グレアムが遮る。


「そもそも、誰の所有物かもこれから調べる」


 セルマは。


 空の展示ケースを見た。


「証人別紙があれば」


「橋の上では開けない」


 レオンが答える。


「受け取った状態を記録して封印する。市警、記録院、独立した鑑定人を揃えてから調べる」


「文字が残っているでしょうか」


「それを確かめるために、返させる」


 ミラベルは、取材帳を閉じた。


「私も行きます」


「記者は残れ」


 グレアムが即答する。


「この街へ返すと、予告状には書かれています」


「市警が記録する」


「警察記録だけでは。また非公開にされるかもしれません」


 オスカーと。


 土地記録局の記録官が。


 同時に、わずかに顔を強張らせた。


「連れていく」


 レオンが言った。


「お前は黙っとれ」


「返却を目撃する記録者が必要だ」


「俺もいる」


「警部は、逮捕記録を書く」


「何が悪い」


「怪盗が、王冠を返す意味まで記録するとは思えない」


 グレアムは、レオンを睨み。


 次に。


 ミラベルを見る。


「俺から離れるな」


「どちらへ言っていますか」


「二人ともだ」


「彼女は、俺から離れない」


「お前も、俺から離れるなと言っとるんだ」


 レオンは不満そうだったが。


 反論はしなかった。


 グレアムが、回廊へ出る。


 レオンと。


 ミラベルが続いた。


 王冠は。


 まだ、返還されていない。


 証人別紙の存在も。


 そこに書かれた言葉も。


 まだ確認されていない。


 それでも。


 王冠を展示ケースから消した計画と。


 文字を消そうとした計画は。


 同じ午前零時から、切り離された。


 三人は。


 煤霧の向こうに架かる。


 夜明け前の旧保守橋へ向かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。