第13節 ― 二つの午前零時
レオン=クラウスが扉へ手を掛ける。
重い硝子扉が開き。
蒼硝子円蓋室へ、関係者たちの足音が戻った。
王冠が消えたあとの夜は。
まだ、そこに残っていた。
円蓋の向こう。
煤霧に沈んだ空は黒く。
東の端にも、朝の色は見えない。
十基の蒸気灯は消されず。
白い炎を、蒼い硝子へ幾重にも映していた。
壁の時計は。
午前三時に近づいている。
中央の展示ケースには。
七葉銀冠も。
代わりに残された銀板もない。
濃紺の展示布は半ばまでめくられ。
その下に。
銀板を隠していた細長い収納溝が、露出している。
湿度管理口の丸い金属縁には。
地下方向へ続く、新しい擦り傷が残っていた。
王冠そのものは。
まだ、返還されていない。
証人別紙が、本当に内布へ収められているのか。
何が書かれているのか。
文字が無事なのか。
それは、誰にも確認できなかった。
展示ケースの脇には。
市警が運び込んだ、長い証拠卓が置かれていた。
王冠と、ほぼ同じ重さの銀板。
切れた極細銀糸。
熱を受けて変形した樹脂。
保存管から採取された銀粉と、古い織布の微細繊維。
追加濾過器。
その内部から見つかった薬剤容器。
植物性インクだけが薄くなった試験札。
どの証拠品にも。
採取場所。
採取時刻。
封印番号。
移送を確認した警官の署名が付いている。
市警記録係は。
一つずつ封印状態を読み上げ。
警官が、確認済みの品だけを卓上へ置いていった。
証拠卓から離れた位置には。
マリウス=フェインが立たされている。
左右には、制服警官。
その手が卓へ届かない距離を保っていた。
オスカー=ベルム館長と、保存部門主任は。
市警記録係のそば。
セルマ=アストレイは、展示ケースに近い側へ立つ。
再開発組合の代表と、土地記録局の記録官も。
部屋の後方から立ち会っていた。
グレアムは、証拠卓の端。
ミラベルは、その隣で取材帳を開く。
レオンだけが。
王冠の消えた展示台の前に立っていた。
「始めろ」
グレアムが言った。
「旧保守橋へ出した連中を、いつまでも霧の中へ立たせておくわけにはいかん」
「二つの仕掛けは、午前零時に作動した」
レオンは答えた。
「これから確認するのは。その同じ時刻へ、何が重なっていたかだ」
「午前零時は、一度しか来とらん」
「時刻はな」
レオンは、証拠卓を見る。
「計画は二つあった」
「新しい証拠はないんですね」
セルマが尋ねた。
「ない」
レオンは即答した。
「必要な証拠は、すべて確認済みだ」
市警記録係のペンが。
紙の上で止まる。
「なら、最初から聞かせろ」
グレアムが腕を組んだ。
「王冠が消えた方からだ」
◇
レオンは。
展示ケースの封蝋跡を指した。
「まず。犯人が何をしなかったかを確認する」
硝子は、破られていない。
三本の鍵は、使われていない。
封蝋も。
王冠が消えるまで、傷ついていなかった。
重量記録機は正常。
警報鐘も正常。
十基の蒸気灯は消えず。
警官も。
美術館職員も。
レオンも。
ミラベルも。
セルマも。
王冠が形を失う瞬間を見ていた。
「怪盗は、外から展示ケースを開けていない」
オスカーが言った。
「それは、すでに確認されています」
「だから」
レオンは答えた。
「ケースを開けようとする者だけを警戒しても、意味がなかった」
「警備員は、王冠を見ていました」
「円形の王冠をな」
レオンは。
リュシアンから借りた儀礼図の写しを、セルマへ渡した。
セルマは図を広げる。
七枚の銀葉。
それを額へ沿わせ。
頭の周囲へ巻き。
儀礼を終えたあとは。
一枚ずつ重ね、細長い箱へ収める。
「七葉銀冠は」
セルマが言った。
「硬い金属の輪ではありません」
指先で、図の折り目をたどる。
「七枚の銀葉を、可動金具と古い織布でつないだ儀礼具です。頭へ載せるときは円形に開き。保管時には、葉を重ねることができる」
「古い図だけでは」
再開発組合の代表が言った。
「今回展示されていた王冠が、同じ構造を保っていた証拠にはならない」
「はい」
セルマは、反論しなかった。
「図だけなら」
次に。
犯行時の観察記録を開く。
「ですが。午前零時。七枚の銀葉は、実際に一枚ずつ内側へ倒れました」
レオンが、銀葉の動きを。
ミラベルが、展示台と重量記録機を。
セルマが、内布を見ていた。
三人は。
それぞれ別の箇所を観察している。
「円形だった王冠は」
セルマは言った。
「私たちの目の前で、細い銀の帯へ変わった」
「つまり」
グレアムが、市警記録係を見る。
「折り畳み可能な構造は、儀礼図と目撃の両方で確認できる」
記録係が書き留めた。
レオンは次に。
湿度管理口の記録写真を示す。
丸い金属縁。
地下方向へ伸びる擦過痕。
銀粉。
茶褐色の繊維。
引き延ばされた樹脂。
切れた極細銀糸。
「銀製の物体が」
ミラベルが言った。
「古い織布と、柔らかくなった樹脂を伴って。展示ケースから、保存管の奥へ通った」
「銀糸に引かれてな」
グレアムが続ける。
「それを七葉銀冠とは別の物だと言うなら」
レオンは、写真を卓へ戻した。
「同じ銀。同じ種類の古布。同じ固定用樹脂を持つ別の物体を、王冠が消えた時刻に、同じ管へ通したと示す必要がある」
そのような物体は。
館内のどこからも見つかっていない。
「王冠が折り畳まれたことは、図と目撃が示している」
レオンは言った。
「保存管を通ったことは、管内に残された物が示している」
「王冠そのものが戻っていなくても」
セルマが言う。
「展示ケースから消えた方法は、確認できる」
「ああ」
レオンは。
修復記録の写しを手に取った。
「次は。誰が、その変化を仕込める立場にいたかだ」
王冠の修復へ関わった者。
セルマ。
保存技師二名。
そして。
ヴァラン=コートを名乗った修復師。
本物のヴァラン=コートは。
十年前に死亡している。
死亡記録は正式。
職人登録も。
古美術修復資格も。
過去の納入実績も。
身元保証印も。
すべて本物だった。
「偽造した資格で入ったのではない」
ミラベルが言った。
「死者が持っていた、正式な資格を利用した」
「美術館は、資格を照会しました」
オスカーが言う。
「記録上、不備はなかった」
「記録の人物と」
レオンは、館長を見る。
「目の前の人物が同じかは、確認しなかった」
「本物のヴァランの顔を知る職員がいませんでした」
「だから利用された」
正式な修復師として。
王冠へ触れる。
固定具を交換する。
銀葉を開き。
内布を確認し。
展示台の周囲を歩く。
侵入ではない。
美術館の許可を得た、正規の作業だった。
「その人物が、ルヴェールだった」
オスカーが言った。
「可能性はある」
レオンは訂正した。
「だが、証明されていない」
「なぜです」
「怪盗本人ではなく、協力者かもしれない。複数の人物が、同じ資格記録を使った可能性も消えていない」
背の高い老人。
腰の曲がった、小柄な人物。
低い声。
ほとんど話さない。
右手で、大きな道具を使い。
左手で、精密な作業をしていた。
証言は。
一つの身体へ、きれいにはまとまらなかった。
「確認できるのは」
レオンは言った。
「仕掛けが、ヴァラン=コート名義の修復工程へ紛れ込ませられたことまでだ」
保存部門主任が、交換記録を開く。
「腐食していた金属固定具を、保存用樹脂へ交換しています。使用された樹脂も、美術修復で認められた材料です」
「常温ならな」
レオンは。
変形した樹脂片の記録写真を指した。
「午前零時の定時保存運転で、ケース内部へ温められた乾燥空気が入る。その温度で柔らかくなる樹脂が選ばれていた」
固定が緩む。
銀糸が引かれる。
七枚の銀葉が、順に重なる。
ミラベルは。
展示布の下に残された、細長い収納溝を見た。
「同時に、別の銀糸が銀板を引いた」
市警の証拠卓に置かれた。
薄い銀板を見る。
「銀板には、装飾も。歴史も。王の署名もありません」
「あるのは」
グレアムが言った。
「七葉銀冠と、ほぼ同じ重さだけだ」
「重量記録機は」
ミラベルが、記録紙を掲げる。
「王冠を識別していません」
銀か。
王冠か。
王権の象徴か。
機械には分からない。
「展示台の上に、規定された重さがあるかを測っていた」
グレアムは、銀板を持ち上げたときの警報を思い出す。
「銀板を持ち上げれば、警報は鳴った。戻せば止まった」
「機械は、間違えていない」
ミラベルが答える。
「王冠ではなく。同じ重さが残っていると、正しく記録しただけです」
レオンは。
展示ケースと証拠卓を見比べた。
「王冠は、形を変えて保存管へ入った」
銀糸に引かれ。
地下方向へ。
「同時に。王冠と同じ重さが、展示位置へ滑り込んだ」
封印は破られず。
鍵も開かず。
灯りも消えず。
重量警報も鳴らない。
「これが」
レオンは言った。
「王冠を展示ケースから消した、最初の午前零時だ」
オスカーが、地下保存区画の図を見る。
「では、管の先で王冠を受け取ったのは」
「分からない」
レオンは即答した。
「外部点検員では?」
「灰色の外套を着た点検員が」
ミラベルが記録を確認する。
「午前零時三分。正式な緊急連絡票を使い、正面玄関から退出した。それは事実です」
「外部保守所へ、到着していない」
グレアムが続けた。
「顔を、明確に記憶している者もいない」
白い怪盗人形が。
円蓋の上へ現れ。
警官たちの視線を集めていた時刻。
点検員は。
正式な書類を見せ。
正面玄関を通過した。
「点検員が王冠を搬出した可能性は高い」
レオンは言った。
「だが。工具鞄の中を確認した者はいない。王冠を所持していたことは、証明されていない」
「ルヴェール本人だったことも?」
「未確認だ」
「ヴァランを名乗った人物と、同じだったことも」
「分からない」
白い外套。
銀の仮面。
円蓋の上を走った、長身の怪盗。
その正体は。
蒸気圧と清掃用ワイヤーで動かされた人形だった。
確定したのは。
白い姿が囮だったこと。
その間に。
顔の記憶されていない点検員が、正面玄関から退出したことまで。
「王冠を持ち出した者の姿は」
レオンが言った。
「まだ、記録へ所属させられない」
グレアムが鼻を鳴らす。
「王冠を返す保証は」
「返す」
「なぜ言い切れる」
「返さなければ」
レオンは、予告状の写しを見る。
「王冠の内側にあるかもしれない一文を、証拠にできない」
怪盗が別紙だけを取り出せば。
偽造を疑われる。
王冠を戻さなければ。
文書が、犯行前から内布へ収められていたと検証できない。
王冠は、まだ返還されていない。
だからこそ。
展示ケースから消した方法と。
持ち出した者の正体を。
同じ確度で語ってはならなかった。
「王冠を消した計画は、ここまでだ」
レオンの合図で。
警官が。
銀板。
銀糸。
樹脂。
管内採取物。
展示ケースの図を。
証拠卓の左側へまとめた。
続いて。
追加濾過器。
薬剤容器。
試験札。
セルマの内部報告書を。
右側へ置く。
同じ卓の上で。
二つの証拠群が、離された。
「次は」
レオンは、マリウスへ視線を向けた。
「もう一つの午前零時だ」
◇
「保存設備への不正工作も、怪盗の犯行でしょう」
マリウスが言った。
「同じ保存管を使った。同じ午前零時に作動した。怪盗が仕掛けたと考えるのが自然です」
「自然に見えるようにした」
レオンが答えた。
「何を根拠に」
「二つの仕掛けは、逆の結果を求めている」
証拠卓の左側。
王冠をなくす仕掛け。
形を変え。
保存管へ引き込む。
証拠卓の右側。
王冠が展示ケースへ残っていることを前提に。
保存空気へ薬剤を混ぜる仕掛け。
「試験札で確認されたのは」
レオンが言った。
「現代の炭素インクが残り。古い植物性インクだけが薄くなったことだ」
「薬剤の目的は、まだ断定できないはずです」
「そのとおりだ」
マリウスの反論を。
レオンは簡単に認めた。
「成分分析は終わっていない。証人別紙が本当に存在するかも分からない」
「なら」
「だが」
レオンは、セルマの報告書へ手を置く。
「王冠の内布に。古い植物性インクで書かれた文書が隠されていたなら」
薬剤を含んだ保存空気は。
銀を残し。
織布を残し。
紙を残し。
文字だけを、読み取れないほど薄くする可能性があった。
「王冠を展示ケースから消した者は」
ミラベルが言う。
「王冠を、そこからなくそうとした」
「薬剤を仕込んだ者は」
レオンが続けた。
「午前零時を過ぎても、王冠が展示台へ残ることを前提にしていた」
「同じ人物なら」
ミラベルは、試験札を見る。
「王冠を持ち出したあとで、文書を捨てればいい。展示ケースの中へ薬剤を流す必要はありません」
マリウスは黙った。
「薬剤を仕込んだ者は」
グレアムが言った。
「怪盗が王冠を管へ引き込むとは、知らなかった」
「少なくとも」
レオンが訂正する。
「その方法までは、知らなかった」
「では、誰が薬剤を仕込んだ」
オスカーが尋ねる。
「それを、いま確認する」
レオンはセルマを見る。
「内布についての正式な報告書を読んだ者は」
「四人です」
セルマが答えた。
「私。オスカー館長。保存部門主任。そして、マリウス=フェイン認定官」
「あなたは、別紙が存在すると断定した?」
「していません」
「何が書かれているかは」
「分かりません」
「求めたのは」
「展示前の精密調査です」
「館長は」
オスカーが視線を伏せた。
「展示終了後へ延期しました」
「フェイン認定官は」
「法的根拠のない未確認説を、非公開資料として扱うよう意見を付けました」
マリウス自身が答えた。
「確認前の推測で、市民生活を混乱させるべきではない」
「その二日後」
レオンは、濾過器の設置許可書を示した。
「土地記録局の許可によって。七葉銀冠専用の保存管へ、防黴濾過器が追加された」
「古い織布を保護するためです」
「許可印は、あなたのものだ」
「認めています」
「設置時に使われた、土地記録局用保守鍵」
次に。
鍵の使用簿を開く。
「管理番号も、あなたのものだ」
「部下へ任せました」
「誰へ」
マリウスは答えなかった。
「貸出先の名は、使用簿にない」
レオンが言った。
「あなたは、地下保存区画で尋ねられたときも。部下の名を挙げられなかった」
「日常業務の一つです。いま思い出せないだけだ」
「なら。事実だけを並べる」
レオンは、一本指を立てた。
「あなたは、セルマの報告書を読んだ」
二本目。
「その二日後。追加濾過器の設置を許可した」
三本目。
「設置には、あなたの管理下にある保守鍵が使われた。貸出先の名は残っていない」
「それだけで、私が薬剤を入れた証拠にはならない」
「そのとおりだ」
「なら、なぜ私を」
「まだ、残っている」
レオンは、ミラベルを見る。
「あなたは、ミラベルの問いへ答えなかった」
マリウスの表情が。
わずかに固まった。
王冠が消えた直後。
白い人形が、円蓋上へ姿を現した。
警察も。
館長も。
セルマも。
ミラベルも。
白い姿を見上げた。
マリウスは。
保存装置の圧力計を見ていた。
ミラベルは、すでに尋ねている。
何が起きると考えていたのか。
圧力が上がっても。
起きるはずのことが起きなかったから、見ていたのではないかと。
マリウスは。
その問いへ答えなかった。
「沈黙は、自白ではない」
マリウスが言った。
「そうだ」
レオンは認める。
「だから、同じ質問はしない」
「では」
「あなたが、何を守ろうとしているのかを見る」
レオンは。
古エルフ語原文。
百二十七年前の共通語訳。
現在の市が使用していた現代語訳。
三つの文面を、マリウスの前へ並べた。
「現代語訳では」
ミラベルが言った。
「王冠と七つの領地に関する、全所有権の永久譲渡になっています」
「古エルフ語原文には」
セルマが続ける。
「管理を委ねる。守護を託す。そのようにも読める語が使われている」
「市は、百二十七年間、土地を管理してきた」
マリウスが言った。
「道路を造り。工場を誘致し。上下水道を整え。住民と契約し。税を徴収した」
「管理したことと」
レオンが答える。
「所有してよいと証明されたことは、同じではない」
「法律上の所有権は。百二十七年間の行政実績によって成立している」
「それを再検討する資料が、王冠の内側にあるかもしれない」
「未確認の紙片一枚です」
「なら、調べればいい」
「調べた結果」
マリウスの声が強くなる。
「市が所有者ではないとされたら、どうする」
「それを決めるのは、探偵ではない」
「無責任だ」
「権限がない」
「権限のない者は、真実だけを示し。混乱の責任を取らない」
蒸気灯の光が。
マリウスの顔へ、深い影を落とす。
「再開発は、すでに何年も進んでいる。契約も。融資も。移転計画も。土地の所有権認定を白紙へ戻せば、何万人が影響を受けると思っている」
「だから」
レオンは、マリウスから目を逸らさない。
「読ませないことを選んだ」
「古い王の曖昧な一文で」
マリウスの声が、崩れ始める。
「現在の都市を壊すわけにはいかない」
それは。
否定ではなかった。
弁明だった。
セルマが。
ゆっくりと、顔を上げる。
「何が書かれているかも、確認していないのに」
「内容は、想像できる」
「だから、文字を消そうとしたんですか」
「調べれば、争いが始まる」
「調べなくても」
セルマの声は震えていた。
けれど。
言葉は、揺らがなかった。
「そこに書かれていたものは、なくなりません」
「記録されなければ」
マリウスは言った。
「法的には、存在しない」
円蓋室の空気が。
一瞬だけ、完全に止まった。
レオンは。
植物性インクの線が薄れた試験札を持ち上げる。
「だから。紙を焼かなかった」
マリウスの瞳が動いた。
「王冠を壊さず」
銀は残る。
「織布を破らず」
縫い目も残る。
「文書を持ち出さず」
紙も残る。
「文字だけを、薄くする」
あとから見つかっても。
長い年月で自然に褪せたのか。
初めから、何も記されていなかったのか。
断定できない。
「怪盗の予告状が届いた」
ミラベルが言った。
「それでも、あなたは計画を止めなかった」
「保存設備と怪盗の予告は、関係ない」
「関係があると思ったから」
レオンが答えた。
「利用できると考えた」
「何をです」
「王冠の内布が傷ついても。文字が失われても」
怪盗が王冠を盗む。
その混乱の中で。
薬剤が、保存空気へ混じる。
「怪盗の仕業にできる」
マリウスの唇が、かすかに動く。
「王冠が戻ったとしても」
ミラベルが続けた。
「文字が消えていれば。怪盗が消した。怪盗が偽造した。そう言える」
「犯罪者が持ち出した文書に、証拠能力がないのは事実です」
「その言葉で」
セルマが言った。
「あなたは、最初から別紙を調べさせないつもりだった」
「私は」
マリウスの呼吸が乱れる。
「都市を守ろうとした」
グレアムの顔が変わった。
「何からだ」
「百二十七年前の亡霊からだ」
マリウスは。
もう、レオンだけを見ていなかった。
セルマを。
ミラベルを。
オスカーを。
再開発組合の代表を。
自分の判断へ従うべき、都市の構成員を見るように。
順に見た。
「市の所有権が揺らげば、再開発だけでは済まない。現在の契約が争われる。補償請求が起きる。土地価格が崩れる。道路も工場も住宅も、誰の土地へ建っているのか分からなくなる」
「だから」
レオンが言う。
「一文を、読まずに処理した」
「読む必要はなかった」
マリウスは、低く答えた。
「私が濾過器へ入れた薬剤で、文字が薄くなれば。それが自然に褪せたものか。初めから何もなかったのか。誰にも証明できない」
セルマが息を呑んだ。
グレアムの隣で。
市警記録係のペンが。
紙を擦る音だけがした。
マリウス自身も。
口にした言葉の意味へ、遅れて気づいた。
唇を閉ざす。
だが。
言葉は、すでに記録されていた。
「いま」
グレアムが言った。
「自分で入れたと言ったな」
マリウスは答えなかった。
警部が、一歩近づく。
「認定前の濾過器へ」
掠れた声が、円蓋室へ落ちる。
「私が、容器を入れた」
オスカーが息を呑む。
保存部門主任の顔から、血の気が引いた。
「設置作業は」
グレアムが尋ねる。
「通常の認定部品として回した」
「作業員は、中身を知っていたのか」
「知らない」
マリウスは答えた。
「防黴処理を補助する容器だと伝えた」
「土地記録局用の保守鍵は」
「鍵の貸出先を記録へ残さず、通常の設置工程として通した」
「誰へ貸した」
「通常の設置担当者だ」
「名前は」
マリウスは目を閉じた。
「貸出先の欄を、私が空欄のまま通した」
「容器が、何をするか知っていたのは」
グレアムが言う。
マリウスは目を開いた。
「私だけだ」
それは。
都市を守ったという弁明と。
自ら不正工作を行ったという供述が。
同じ人物へ所属した瞬間だった。
◇
「現在の市民を、守ったつもりですか」
ミラベルが尋ねた。
「そうだ」
「美術館前で、立ち退きに反対していた人たちを見ましたか」
「再開発には、移転措置がある」
「市と、正式な契約を結んだ家族が」
ミラベルは。
声を荒らげなかった。
ただ。
その都市の住民を、一人ずつ彼の前へ戻していく。
「市の土地だと信じて住み。市が進める計画によって、追い出されようとしていました」
若いドワーフの工房。
旧王家への単純返還を求めなかった老エルフ。
市との契約を守ったのに。
家を失おうとしていた家族。
「あなたが守ろうとした都市に」
ミラベルは言った。
「あの人たちは入っていますか」
マリウスは、答えなかった。
「旧王家へ土地を返せば、すべて解決するわけではありません」
セルマが言う。
「最後王の末裔が誰かも。王に、そこへ暮らすすべての民の土地を預ける権限があったかも。まだ分からない」
内布の縫い目があるはずの場所へ。
視線を落とす。
そこに王冠はない。
「現在の住民を」
セルマは続けた。
「新しい失権者にしてはならない」
「なら、私の判断は」
「だからこそ」
セルマの声が。
静かに、強くなる。
「あなた一人が、文字を消して決めてよいことではありません」
「百二十七年前の王も」
ミラベルが続ける。
「現在の認定官も。そこに暮らす人たちを、紙の外へ置いて決めてはいけない」
「都市には、決断が必要だ」
マリウスは。
最後まで、その言葉を捨てなかった。
「決断と」
レオンが答える。
「証拠隠滅は別だ」
「真実を示したあと。都市が壊れても、あなたは責任を取らない」
「俺は、土地の所有者を決めない」
「だから、無責任だ」
「決める権限がないからだ」
レオンの声は変わらない。
「あなたには、所有権を認定する権限があった」
「そうだ」
「証拠を消す権限はない」
マリウスの肩が落ちる。
「私は、都市を守った」
もう一度、言った。
「自分の認定を守った」
ミラベルが返す。
「再開発契約を守った」
「市民の暮らしだ」
「どの市民ですか」
返答はなかった。
◇
グレアムが、証拠卓から離れた。
マリウスの前へ立つ。
「マリウス=フェイン」
警部の声が。
蒼硝子円蓋室へ、低く響いた。
「歴史資料に対する損壊未遂。証拠隠滅未遂。保存設備への不正工作。職務権限の不正使用」
左右の警官が動く。
「以上の容疑で逮捕する」
マリウスの両腕が取られ。
拘束具が掛けられる。
金属の閉じる音がした。
「私は、土地記録局の上級認定官だ」
「知っている」
グレアムは答えた。
「だから。印章。保守鍵。認定済み部品の納入経路。貸出記録の不正処理。全部調べる」
「都市機能が止まるぞ」
「止めた奴を調べるのも、市警の仕事だ」
「怪盗は逃げたままだ」
「窃盗犯は、別に追う」
グレアムは。
左右へ分けられた証拠を見る。
「同じ午前零時に起きたからといって、同じ犯罪者にはせん」
マリウスは、連行される前に。
空になった展示ケースを見た。
「王冠が戻ったとしても」
彼は言った。
「中の文書が本物だと、誰が証明する」
「調べます」
セルマが答えた。
「紙。インク。糸。縫い目。織布の劣化」
搬入時の写真乾板。
修復前の記録図。
修復室へ保存された、織布標本。
「怪盗が保持していた時間に加工できたものか。薬剤による影響があったか。それも含めて」
「偽物なら」
「偽物だと記録します」
「本物なら?」
セルマは。
王冠のない場所を見た。
「本物であることを、記録します」
マリウスは。
警官に連れられていった。
扉が閉まり。
靴音が。
回廊の向こうへ、遠ざかる。
壁の時計は。
午前四時を過ぎていた。
円蓋室へ。
遠い機械音だけが戻る。
オスカーが、重い息を吐いた。
「これで、事件は解決ですか」
「一つはな」
レオンが答えた。
「王冠は、まだ戻っていない」
「怪盗の正体も」
セルマが言う。
「分からないままです」
「分かったのは」
レオンは、折り畳み式人形の記録図を見る。
「王冠を展示ケースから消した方法。死者の正式な資格が利用されたこと。白い姿が囮だったこと。顔の記憶されていない点検員が、正面玄関から退出したことまでだ」
「次は、本人を捕まえる」
グレアムが言った。
「本人かどうかは、捕まえてから確かめろ」
「お前は、最後まで面倒な言い方をするな」
壁の伝声管が鳴った。
グレアムが蓋を開く。
『旧保守橋、配置維持。現在まで異常なし』
先行した巡査の声だった。
『橋上に人影なし。旧契約塔側、美術館側とも待機中。索道設備と周辺蒸気管、確認済みです』
「怪しい者は」
『まだ現れていません』
「そのまま動くな」
グレアムが答えた。
「誰か現れても、俺が着くまで手を出すな」
『了解』
蓋を閉じる。
円蓋室に。
歯車の音だけが残った。
「本当に、旧保守橋へ来るんですか」
ミラベルが尋ねる。
「返却場所としては、最も可能性が高い」
レオンは、予告状の写しを外套へ収めた。
「王冠を公的な管理へ戻せる。複数の者が、受け渡しを目撃できる。索道もある。怪盗の演目としても悪くない」
「本人が来るとは限らん」
グレアムが言った。
「人形かもしれない」
「点検員かも」
ミラベルが続ける。
「王冠だけが、空から降りてくるかもしれません」
「何でもありだな」
「白い外套だけを待つよりはましだ」
レオンが答えた。
グレアムは。
帽子を深くかぶる。
「橋へ行くぞ」
オスカーが、一歩出た。
「私も立ち会います。王冠は、美術館の所蔵品です」
「返った瞬間から、事件の証拠品だ」
グレアムが遮る。
「そもそも、誰の所有物かもこれから調べる」
セルマは。
空の展示ケースを見た。
「証人別紙があれば」
「橋の上では開けない」
レオンが答える。
「受け取った状態を記録して封印する。市警、記録院、独立した鑑定人を揃えてから調べる」
「文字が残っているでしょうか」
「それを確かめるために、返させる」
ミラベルは、取材帳を閉じた。
「私も行きます」
「記者は残れ」
グレアムが即答する。
「この街へ返すと、予告状には書かれています」
「市警が記録する」
「警察記録だけでは。また非公開にされるかもしれません」
オスカーと。
土地記録局の記録官が。
同時に、わずかに顔を強張らせた。
「連れていく」
レオンが言った。
「お前は黙っとれ」
「返却を目撃する記録者が必要だ」
「俺もいる」
「警部は、逮捕記録を書く」
「何が悪い」
「怪盗が、王冠を返す意味まで記録するとは思えない」
グレアムは、レオンを睨み。
次に。
ミラベルを見る。
「俺から離れるな」
「どちらへ言っていますか」
「二人ともだ」
「彼女は、俺から離れない」
「お前も、俺から離れるなと言っとるんだ」
レオンは不満そうだったが。
反論はしなかった。
グレアムが、回廊へ出る。
レオンと。
ミラベルが続いた。
王冠は。
まだ、返還されていない。
証人別紙の存在も。
そこに書かれた言葉も。
まだ確認されていない。
それでも。
王冠を展示ケースから消した計画と。
文字を消そうとした計画は。
同じ午前零時から、切り離された。
三人は。
煤霧の向こうに架かる。
夜明け前の旧保守橋へ向かった。




