新聞社には机がひとつ足りない
観測余録 置いて帰れる場所
新聞には、記事を置く場所があります。
一面、社会面、文化欄、訃報欄。大きな記事には大きな場所が与えられ、数行しかない記事にも、紙面の隅に収まるだけの場所があります。いったん印刷されれば、その紙は日付ごとに綴じられ、やがて資料庫へ運ばれますから、何年かあとになっても、探そうと思えば同じ場所へ戻ることができます。
けれど、記事を書く人の居場所まで、同じように決められているとは限りません。
外へ取材に出ているあいだは机を使わず、戻ってきたときには空いている椅子を借り、締切が近ければ廊下でも資料庫でも原稿を書く。どこでも仕事ができる人ほど、その人だけの場所は要らないと思われることがあります。
それは、たしかに間違いではないのでしょう。
ただ、書きかけの文章や、まだ記事にはなっていない誰かの言葉は、人間より少しだけ居場所を必要とします。
その日、一人の記者は新聞社のあらゆる場所で仕事をしました。
社会部の机でも、校正室の長机でも、資料庫の踏み台でも。
どこでも書くことはできました。
けれど一日の終わりまで、彼女には「ここへ置いて帰れば、明日の朝も同じ場所にある」と思える場所が、ひとつもありませんでした。
――ナミ=エル
午前八時前の《ヴェルム=クロウ日報》編集室には、いつもとは違う音が響いていた。
活字を拾う乾いた音でも、気送管が原稿筒を吐き出す音でもない。木箱の留め金を外し、真鍮部品を床へ下ろし、蒸気管の継ぎ目を工具で締めていく、工房じみた音だった。
出勤したミラベル=ワトリアは、編集室の入口で足を止めた。
昨日まで自分の机があった場所に、大きな木箱が据えられている。
箱の側面には黒々とした文字で、
《ブラス式小型蒸気校正機・第四型》
と印字されていた。
すでに蓋は外され、内部から真鍮製の筐体が半分ほど姿を現している。左右には原稿と校正刷りを差し込む細長い口があり、上部には数字窓と警告灯。背面から伸びる蒸気管を、作業服姿の技師が壁際の給気管へ接続している最中だった。
「そこ、もう半寸右だ」
活字棚の前からロッタ=ケインが言った。
四十代のドワーフ族の女性で、《ヴェルム=クロウ日報》の植字工を長く務めている。煤色の髪を後ろで束ね、分厚い前掛けには鉛粉と黒いインクが染みついていた。
「右へ寄せると気送管の蓋が開かなくなる。あとで原稿筒を取り出せなくなっても、あたしは知らないよ」
「では、こちらの校正台を少し削るしかありませんな」
「削るなら、そっちの新品を削りな。あたしの台は二十年ここで働いてる」
技師は返事に困ったように、新しい校正機と古い校正台を交互に見た。
その機械の陰から、廊下へ向かって木製の脚が一本伸びている。
ミラベルには見覚えがあった。
自分の机だった。
引き出しは半分開き、片方の脚には《資料庫転用》と書かれた紙札が結ばれている。
「編集長」
ミラベルが声を掛けると、社会面の仮組みを読んでいたオルセン編集長が紙面から顔を上げた。
「私の机は、どこへ行くんですか」
「資料庫だ。古い商会名簿を置く台が足りなかったから、ちょうどいい」
「私も資料庫へ移るんですか?」
「いや」
オルセンは、ごく普通の配置換えを説明する調子だった。
「本来、校正機が入るのは来週だった。昨夜になって納品が繰り上がったんだ」
「それで、今日の朝から?」
「ああ。君は社会面にも生活欄にも文化欄にも書くし、事件があれば一日中外へ出ている。固定席を一つ残しておくより、空いている机を使った方が都合がいい」
「空いている机……」
「社会部なら午前中に二席は空く。校正室も昼までは長机の端が使えるし、夕方になれば食堂だって空くだろう」
言われて見回せば、たしかに空席はあった。
鉄道事故の取材へ出ている記者の机。
市政会議へ向かった記者の椅子。
まだ出勤していない夜勤校正係の場所。
どれも今この瞬間には空いていて、少し借りるだけなら誰も困らない。
ただし、持ち主が戻ってくるまでの席だった。
「新型機は」
オルセンが木箱を指した。
「原稿と校正刷りを照合して、数字の写し違い、人名の綴り違い、行の重複や欠落を見つける。昨日だけで、原稿から活字へ移すときに時刻を二件、商会名を一件間違えた。訂正記事を三本載せるくらいなら、機械を一台入れた方が安い」
「原稿の内容そのものが正しいかも分かるんですか?」
「そこまでは無理だ。何が正しいかを決めるのは記者と校正係だよ。こいつが確かめるのは、原稿どおりに活字が並んでいるかどうかだけだ」
オルセンは昨日の訂正欄を指で叩いた。
「役に立つ機械だ。君の記事にもな」
「そうですね」
「外回りの記者に専用机を置いておくより、よほど紙面のためになる」
悪意のない言葉だった。
ミラベルも、それは分かった。
「分かりました」
それだけ答えて、自分の机だったものへ向かった。
引き出しから私物と資料を取り出していく。
取材手帳。
鉛筆。
小型写真機の乾板。
新聞の切り抜き。
灰冠ホテル事件の照合表。
折り畳まれた市警発表。
レオンから渡された部屋番号の訂正メモ。
食べるつもりで忘れていた焼き菓子の包み。
そして、記者名を印字した細長い署名票。
《ミラベル=ワトリア》
署名記事を組むとき、原稿の末尾へ添える紙だった。
それらを革鞄へ詰めてみたが、すべては入らなかった。
ミラベルは残った資料を両腕で抱えた。
設置作業を見ていたロッタが、その紙の山へ目をやる。
「多いな」
「机が持っていた分です」
「人間より働き者だったらしい」
「少なくとも、何も言わず持っていてくれました」
ロッタは一度だけオルセンの方を見た。
しかし何も言わず、校正機と活字棚のあいだへ歩いていく。
前掛けのポケットから短い物差しを取り出し、壁に残っているわずかな幅を測り始めた。
「何を測っているんですか?」
ミラベルが訊くと、ロッタは物差しから目を離さず答えた。
「機械が壁へぶつからないか見てる」
それから壊れた校正台の脇へしゃがみ込み、古い蝶番を一つ、工具で外し始めた。
◇
午前中、ミラベルは社会部の一番端にある机を借りた。
持ち主は朝から環状鉄道の接触事故を取材していて、昼前までは戻らないらしい。
机の右半分には事故記録と路線図が積まれていた。
ミラベルはそれらを一枚も動かさず、左端の狭い空間へ自分の原稿と取材手帳を置いた。
書いているのは、灰冠ホテル事件の続報だった。
仮題は、
《空室へ新聞を届けた人》
殺人の手口や、部屋番号を利用した仕掛けをもう一度説明する記事ではない。
宿泊記録では空室だった五〇七号室へ、誰が新聞を運び、誰が使用済みの茶器を下げ、誰が乱れた寝台を整えていたのか。正式な宿泊者名を知らなくても、そこに人がいると知っていた者たちの話を書く。
掲載枠は夕刊社会面の下段、十六行。
事件の概要と従業員たちの言葉を両方残すには短い。
ミラベルは一行書いては削り、言葉の順番を変え、また書き直していた。
その頭上で気送管が鳴る。
ぽん、と乾いた音を立て、真鍮筒が受け籠へ落ちた。
「市警発表!」
伝令の声に、社会部の記者たちが一斉に振り返る。
鉄道局の遅延報告。
市警の逮捕発表。
港湾組合の声明。
新聞売りが返してきた号外の残部。
写真版を探す助手。
珈琲を運ぶ給仕。
社会部の机は、人と紙が絶えず通過していく場所だった。
「ワトリア、灰冠ホテルの記事は何行だ」
オルセンに呼ばれ、ミラベルは原稿を机へ置いたまま立ち上がった。
「現在十四行です。あと二行に収めます」
「事件の説明は削れ。昨日までに十分書いた」
「従業員の証言は残しても?」
「読ませられるならな」
二人が短いやり取りをしているあいだ、社会部の伝令が机の間を回っていた。
「組版へ送る原稿、回収します!」
各記者は、自分の机の左端へ提出原稿を積んでいる。
伝令は、ミラベルが借りている机の左端にも紙束があるのを見つけた。
そこが誰の机で、いま誰が一時的に使っているのかまでは知らない。
原稿の上に重なっていた小さな取材メモまで、ほかの提出物と一緒に持っていった。
編集長との話を終えてミラベルが戻ると、机の上の紙が少し減っていた。
眉を寄せる。
灰冠ホテルの階係から聞いた言葉を書き留めた、小さな取材メモがない。
「ここにあった紙、見ませんでした?」
「小さい紙では分からん」
隣の記者は顔も上げずに答えた。
「社会部には小さい紙しかない」
ミラベルは机の上を一枚ずつ確かめた。
机の下。
革鞄。
事故記録の横。
どこにもない。
そのとき、外套を煤で汚した男性記者が編集室へ駆け込んできた。
「悪い、戻った」
机の持ち主だった。
脇には取材帳、手には時刻表、口にはまだ削っていない鉛筆をくわえている。
「あと十分で原稿を上げないといけない」
「どうぞ」
ミラベルはすぐ立ち上がった。
「借りていただけですから」
「すまん。午後ならまた空く」
「大丈夫です」
紙束を抱え、椅子を譲る。
男性記者は申し訳なさそうな顔をしたが、腰を下ろした瞬間には事故記事を書き始めていた。
そこは、最初から彼の机だった。
ミラベルは廊下へ出て、抱えた紙を数え直した。
一枚足りない。
ほんの少し前まで目の前にあった誰かの言葉だけが、社会部のどこかへ紛れ込んでいる。
廊下の向こうでは、ロッタが廃棄予定の活字箱から蓋を外していた。
外した木板を壁へ立て掛け、朝に取り外した古い蝶番を、その端へ当てている。
「何か直すんですか?」
ミラベルが訊くと、ロッタは手を動かしたまま答えた。
「捨てる物が多すぎるから、減らしてる」
それ以上は説明しなかった。
◇
昼前の校正室には、紙を擦る赤鉛筆の音が絶え間なく続いていた。
長机の上には校正刷りが広げられ、数字、固有名詞、句読点へ細い訂正線が引かれていく。
ミラベルは、その長机の端に一尺ほど残った場所を借りた。
取材手帳を開き、午前中になくした階係の言葉を記憶から書き直そうとする。
意味なら覚えていた。
新聞を置いた。
翌朝にはなくなっていた。
だから、次の日も置いた。
そこまでは戻せる。
けれど、その人がどの順番で話したのか。どこで少しためらい、どの言葉だけを強く口にしたのか。それまでは、もう正確に再現できなかった。
同じ意味の文章は作れる。
けれど、それは取材相手が実際に言った文章ではない。
「ワトリアさん」
校正係が赤鉛筆の先で原稿を示した。
「ここ、五〇七号室になっていますが、五〇九では?」
「五〇七です」
「事件記録では五〇九号室ですよ」
「宿泊記録上の部屋は五〇九です。でも実際に使われていたのは五〇七でした」
ミラベルは抱えていた紙束から照合表を取り出した。
「記録上の部屋と、客がいた部屋が違うんです。ここを五〇九に直すと、別の部屋の話になってしまいます」
校正係は表と原稿を見比べ、引いたばかりの赤線を消した。
「では、五〇七で確定」
「お願いします」
たった一つの数字だった。
五〇七を五〇九へ変えるだけで、文章としてはほとんど何も変わらない。
けれど出来事の場所は、別の部屋になる。
原稿に五〇七と書かれ、校正刷りにも五〇七と組まれていれば、新しい校正機は《差異なし》と判定するだろう。
しかし、なぜ五〇七でなければならないのか。
そこに誰がいて、誰が新聞を置いたのか。
それは機械には分からない。
確かめるのは、取材した人間の仕事だった。
ミラベルが照合表を戻そうとしたとき、校正刷りの束から見覚えのある紙の端が覗いていることに気づいた。
「あ」
引き抜く。
午前中になくした取材メモだった。
なぜか劇場欄の舞台評へ、紙留めで仮留めされている。
そこには、階係が話した言葉がそのまま残っていた。
《名前は知りませんでした。でも、新聞がなくなっていたから、次の日も置きました》
「それ、ワトリアさんの紙だったんですか」
校正係が言った。
「社会部原稿の束に混ざって届きましたよ」
「借りた机の提出位置へ置いてしまったからです」
伝令は間違えていなかった。
いつもどおり、机の左側へ積まれていた紙を回収しただけだ。
ただ、その紙がいま誰のものなのか、机からは分からなかった。
「悪かったですね」
「いいえ。見つかったので」
ミラベルは取材メモを外し、原稿へ正確な言葉を戻した。
その作業が終わったところで、校正係たちが大判の紙面を長机へ広げ始める。
作業場所を作るため、右側にある紙を順番に左へ寄せていった。
「ワトリアさん」
先ほどの校正係が言いにくそうに声を掛ける。
「あと少しで全面を使うんですが」
「分かっています。次へ行きます」
ミラベルは原稿、取材メモ、手帳、照合表を慌てて重ね、抱えた。
ただ一枚。
原稿の最終段落だけが赤鉛筆の下へ残っていることには、気づかなかった。
◇
新聞社の資料庫には、過去の新聞綴り、市警発表、鉄道時刻表、商会名簿、市議会議事録が天井近くまで並んでいた。
朝までミラベルのものだった机も、すでにそこへ運ばれている。
ただし、机として使える状態ではなかった。
天板の上には前年分の商会名簿と港湾保険台帳が積まれ、引き出しの前にも資料箱が重なっていて、開けることすらできない。
ほかに空いている机はなかった。
ミラベルは仕方なく、書棚用の踏み台へ腰を下ろし、膝の上へ原稿を置いた。
この姿勢では字が少し傾く。
それでも書けないわけではない。
原稿を読み返し、十六行へ収めるため文章を削っていく。
「ワトリアさん」
資料係に呼ばれた。
「その踏み台を使いたいんですが」
「あ、どうぞ」
ミラベルは立った。
資料係が高い棚から新聞綴りを取り出し、踏み台を元へ戻す。
ミラベルがまた座る。
数行書いたところで、別の事務員が入ってきた。
「上から三段目の市議会議事録を取りたいんですが」
「どうぞ」
再び立つ。
そのあとからは、誰かが資料庫へ入ってくる気配がするたび、ミラベルの方が先に踏み台を抱えて道を空けた。
何度目かのあと、資料係が困ったように言った。
「それでは使えませんよ」
「私も、少しそう思っています」
笑って答えようとした。
けれど、うまく笑えなかった。
誰に腹を立てればいいのか、分からなかったからだ。
オルセンは必要な機械を入れた。
社会部の記者は自分の机へ戻った。
校正係は紙面を校正するために長机を使った。
資料係は資料を取るため踏み台を使った。
誰も、ミラベルを追い出そうとしたわけではない。
全員が、自分の仕事をしているだけだった。
膝の上の記事へ目を落とす。
帳簿には名前がなくても、毎朝新聞を置いていた手は、その部屋に誰かがいたことを知っていた。
そういう記事を書こうとしている。
その文章を書いている自分には、まだ記事にもなっていない言葉を、次の瞬間まで置いておく場所すらなかった。
「ワトリア!」
資料庫の外からオルセンの声が飛んだ。
「仮組みが出たぞ。確認しろ!」
ミラベルは紙束を抱えて編集室へ戻った。
夕刊の社会面下段には、小さな記事が組まれている。
《灰冠ホテル事件続報》
ミラベルは数行読み、すぐに異変へ気づいた。
文章が途中で終わっている。
最後の二行がない。
さらに、その下へ入るはずだった署名も空白だった。
「社会部名義で処理する」
オルセンが締切盤を見ながら言った。
「署名票が来ていない。締切まで時間もない」
「署名票は、朝、机から出しました」
「組版には届いてない」
ミラベルは手にしている原稿を確かめた。
最終段落もない。
本文。
最後の二行。
自分の名前。
朝から一日かけて、一つの記事が新聞社の中で三つの場所へ分かれていた。
「探します」
「あと十五分だ」
「十五分あれば、新聞社の中は回れます」
「外へ行くより広いぞ」
「知っています」
◇
取材メモは、すでに戻っている。
残るのは最終段落と署名票だった。
ミラベルは、その日自分が使った場所を逆に辿った。
最初は校正室。
大判の紙面をめくり、赤鉛筆の周囲を探す。
やがて、紙の端へ赤い粉のついた一枚が見つかった。
「これです」
「また混ざったんですか?」
校正係に訊かれ、ミラベルは首を振った。
「今度は、私が置き忘れました」
最終段落を本文へ重ねる。
あとは署名票だけだ。
朝、自分の机の引き出しから取り出したことは覚えている。
ほかの資料へ重ねたつもりだった。
けれど革鞄へ入らない紙を抱えたとき、細長い一枚だけが引き出しの奥へ滑った可能性がある。
資料庫へ走った。
旧机の天板には、まだ重い帳簿が積み上がっている。
「どけるぞ」
背後からロッタの声がした。
小柄な身体で港湾台帳の束を持ち上げ、隣の資料箱へ移していく。片方の腕には、廃棄予定だった活字箱の蓋を抱えていた。
端には、古い蝶番が取り付けられている。
「重くないんですか?」
「重いから持つんだ。軽けりゃ吹き飛ばしてる」
帳簿を退け、引き出しを開く。
一番奥に、細長い紙が一枚残っていた。
《ミラベル=ワトリア》
「ありました」
思わず、長く息が抜けた。
ロッタは署名票と最終段落を受け取ると、本文へ重ね、順番を揃えた。
「活字には全部、戻す箱がある」
そう言いながら、前掛けのポケットから小さな鉛活字を一つ取り出す。
「使ったあとに違う箱へ戻せば、次に必要なとき出てこない」
「私は活字ではありません」
「知ってる。活字より場所を取る」
ロッタは原稿を抱え、編集長の机へ向かった。
「今日だけで、この記者の引用が一枚、本文が二行、署名が一枚、別々の場所へ行った」
オルセンは時計を確認した。
「本人の管理不足も入っているな」
「机をなくした結果でもある」
「社会部へ専用机を増やす余裕はない」
「分かってる」
「場所もない。校正機を廊下へ置くわけにもいかん」
「大きな机が欲しいわけではありません」
ミラベルが言うと、オルセンが彼女を見た。
「では、何が欲しい」
少し考えてから、ミラベルは答えた。
「置いて帰っても、翌朝そこへ戻れば、同じ物が同じ場所にあるところです」
「資料なら資料庫がある」
「資料庫へ入れる前のものです」
取材の途中の紙。
書きかけの原稿。
まだ記事になるかどうかも決まっていない言葉。
「空いている机は使えます。でも、どの机も誰かが戻ってくるまでの場所です。そこには、取材の途中を置いて帰れません」
「鞄へ入れればいい」
「全部は入りません」
「整理しろ」
「整理して減らせるのは、私の紙だけです」
声を荒らげるつもりはなかった。
けれど、思ったより強い声が出た。
「取材した人の言葉まで、私の都合で減らしたくありません」
一瞬だけ、編集室の音が薄くなった。
新型校正機の中では、試運転の歯車が変わらず回っている。
かちり。
かちり。
原稿と校正刷りの違いを探すための機械。
そのすぐ隣でミラベルは、まだ原稿にもなっていない言葉を置いておく場所を求めていた。
オルセンは腕を組んだ。
「専用机は置けん」
「分かっています」
「正式な備品を買う予算もない」
「それも分かっています」
「なら、どうする」
「もう作った」
ロッタが言った。
皆が振り返る。
編集室の壁際に、薄い木板が取り付けられていた。
朝まで廃棄予定だった活字箱の蓋。
壊れた校正台から外された蝶番。
壁へ打ち込んだ二本の真鍮留め具。
ロッタが木板を手前へ倒す。
小さな机になった。
原稿を二、三枚と、手帳を一冊置けばいっぱいになる程度の広さしかない。
下には薄い棚。
横には鉛筆を一本差し込める革輪。
使わないときには壁へ畳めるので、通路も塞がない。
朝、ロッタが壁の幅を測っていた理由。
校正台から蝶番を外していた理由。
廃棄予定の活字箱の蓋を抱えていた理由が、そこで一つにつながった。
「いつの間に」
ミラベルが訊く。
「昼から、廃材がうるさかった」
ロッタは答えた。
「捨てる前に黙らせた」
オルセンは机を開き、閉じ、通路との幅を確認した。
「費用は?」
「廃材と余っていた留め具だけ」
「通路は」
「閉じれば壁から三寸も出ない」
「校正機の配管には?」
「当たらない」
「原稿を探す時間は減るか」
「今日よりはね」
オルセンは締切盤を見た。
残り五分。
それから小さな机を見る。
「通路を塞がず、備品費も掛からず、締切を遅らせないなら置け」
決め方は、朝と変わらなかった。
場所。
予算。
紙面。
締切。
その全部を計算した結果だった。
「ただし、仮の机だ」
「はい」
ミラベルは折り畳み机を開いた。
取材手帳。
本文。
戻ってきた最終段落。
署名票。
鉛筆。
一つずつ、その上へ置いていく。
「仮でも、名前があれば戻ってこられます」
ミラベルは鉛筆を取り、机の裏側へ小さく書いた。
《ミラベル=ワトリア》
「備品への落書きは禁止だ」
オルセンが言った。
「正式な備品ではないんですよね」
編集長が口を開きかける。
その前にロッタが締切盤を指した。
「あと五分だよ」
オルセンは原稿をつかみ、組版係へ渡した。
「見出しは《空室へ新聞を届けた人》。十六行。署名あり」
◇
活字が拾われる。
組版が締められる。
原稿と校正刷りが、新型校正機の左右の口へ差し込まれた。
真鍮歯車が回転する。
細い針が紙面をなぞり、数字窓が進んでいく。
警告灯は点かなかった。
《原稿との差異なし》
《数字不一致なし》
《行末欠落なし》
《署名票あり》
《ミラベル=ワトリア》
機械には、なぜ五〇七号室が正しいのかは分からない。
帳簿の上では空室だった場所に、誰がいたのかも知らない。
毎朝そこへ新聞を置いた人が、どんな気持ちでそうしていたのかも知らない。
けれど、ミラベルが確かめて原稿へ残した言葉は、そのまま正しく活字へ移されていた。
本文も。
最後の二行も。
署名も。
今度はすべて、あるべき場所にあった。
◇
夕刊が刷り上がった。
編集室では、誰も大げさに祝ったりはしなかった。
新型校正機は正常に動き、その日だけで二件の数字の写し違いと、一件の人名誤植を見つけた。
社会部の記者は、自分の机で翌朝の記事を書いている。
校正係は次の赤鉛筆を削る。
ロッタは使い終えた鉛活字を、一つずつ本来の箱へ戻していた。
ミラベルの記事は、夕刊社会面の下段に載った。
十六行。
見出しは、
《空室へ新聞を届けた人》
最後の二行には、こうある。
《帳簿では空室だった。それでも毎朝新聞を置いた者は、そこに客がいたことを知っていた》
その下に、小さな署名。
《ミラベル=ワトリア》
ミラベルは新しい折り畳み机を開き、翌日の取材予定を書いた紙を一枚、その上へ置いた。
鞄を持ち、編集室の出口まで歩く。
そこで一度振り返った。
紙は同じ場所にある。
誰かの事故記録へ混ざらず、劇場欄の裏へ留められず、帳簿の下にも埋まっていない。
明日の朝、自分が戻ってくる場所に置かれている。
ミラベルは小さく息を吐き、そのまま帰ろうとした。
「ワトリア」
ロッタの声が飛んだ。
「何ですか?」
「閉じて帰れ。そこは通路だ」
「あ」
ミラベルは慌てて戻り、折り畳み机を壁へ戻した。
ところが翌日の取材予定まで一緒に挟み込んでしまい、もう一度開いて紙を取り出す。
ロッタは呆れたように鼻を鳴らした。
「場所ができても、使う人間がこれではね」
「明日から慣れます」
「明日もあると思うな。仮だぞ」
紙面越しにオルセンが言う。
ミラベルは、机の裏側に書いた自分の名前を指先で確かめた。
「分かっています」
そう答えると、今度こそ新聞社を出た。
観測余録 名前を書いた場所
その日の《ヴェルム=クロウ日報》の備品台帳には、小型蒸気校正機一台が新しく加わり、旧式木製机一台が資料庫へ転用されたことが記されました。
壁へ取り付けられた小さな折り畳み机については、何も書かれていません。
番号もありません。
購入価格もありません。
新しく買われた物ではなく、捨てられるはずだった木板と、壊れた机の蝶番から作られたものだったからです。
けれど翌朝、一人の記者が新聞社へ戻ってきたとき、書きかけの紙は前の日と同じところにありました。
誰かが帰ってくるまで借りる机ではなく、誰かに使われる前に急いで片づける場所でもありません。
ほんの数枚の紙しか置けない、小さな場所です。
それでも、その数枚がまだ記事になっていないあいだ、そこへ置いておくことができます。
人の居場所というものは、大きな机や正式な備品番号だけで決まるわけではないのかもしれません。
戻ってきたとき、自分が昨日置いたものが残っている。
その小さな確かさがあるだけで、場所は少しずつ、その人のものになっていきます。
机の裏には、一人の記者の名前が鉛筆で書かれていました。
備品台帳には載らない名前です。
けれど、彼女がそこへ戻るには、それで十分でした。
まだ記事になっていない誰かの言葉にも、朝まで置いておける場所ができたのですから。
――ナミ=エル




