第8話 ゴッホくん
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦一八九〇年、フランスのオーヴェール・シュル・オワーズからお越しの、フィンセント・ファン・ゴッホくん。享年三十七歳。……繰り返します。フィンセント・ファン・ゴッホくんをお預かりしております。心当たりのある保護者の方は、至急、冥界迷子センター第一ターミナルまでお越しください』
ピンポンパンポーン。
無機質で事務的な電子チャイムの音が、蛍光灯のチカチカと瞬く殺風景な待合室に響き渡った。
私、迷子センター受付係のナナシは、フランス語の通訳機を右耳に押し込みながら、頭を抱えていた。
「違う! 違う違う違うッ!! こんな黄色は死んでいる! 太陽の灼熱も、生命の鼓動も、何も感じられない! もっとだ! もっと強烈で、もっと狂気じみた、ひまわりのような黄色を!!」
受付カウンターの向こう側で、凄まじい叫び声が上がっていた。
黄色いプラスチック製パイプ椅子の前で、一人の男が持参したパレットと絵筆を振り回し、あろうことか備品の椅子にベタベタとマスタード色の絵の具を塗りたくっているのだ。
よれよれの古びたジャケットに、落ち窪んだ目。ボサボサの赤毛に、ざらついた無精髭。そして何より痛々しいのは、彼の左耳から頭部にかけて、グルグルと分厚い包帯が巻かれていることだった。
歴史に名を残す狂気の天才画家、フィンセント・ファン・ゴッホ。
前回の忠犬ハチ公の感動的な余韻など完全にぶち壊す、超絶ド級のお絵描き魔神の登場である。
「あー、お客様。お気持ちは分かりますが、備品に油絵の具を直塗りするのはやめてもらえます? 経費で落ちないんで」
私が業務用モップを片手に注意するが、ゴッホは血走った目で私をギロリと睨みつけた。
「備品だと!? これはキャンバスだ! 世界そのものが私のキャンバスなのだ! なぜ誰も私の芸術を理解しない! 私は魂を削って、命を燃やして絵を描いてきたというのに! 生前に売れた絵は『赤い葡萄畑』たったの一枚だけ! たったの四百フランだぞ!?」
「はいはい、世間の目は節穴でしたねえ。とりあえず筆を置きましょうか」
「置けるものか! 私は貧困のどん底で、パンも買えずに絵の具を食べて飢えを凌いだこともある! ゴーギャンには逃げられるし、耳は切り落とす羽目になるし、最後は麦畑で自分の腹をピストルで撃ち抜くしかなかった! こんな理不尽な世界、間違っている! 私を評価しない現世なんて、黄色く塗り潰してやる!!」
ゴッホは怒り狂いながら、さらにパイプ椅子に絵の具を厚塗りしていく。うねるような独特の筆致で、ただの安っぽいプラスチック椅子が、妙に立体感のある前衛的なオブジェへと変貌しつつあった。
芸術家の未練というのは、本当に面倒くさい。特に彼の場合、生前の不遇と貧困に対する強烈な怨嗟が、凄まじいエネルギーとなって冥界の入り口で大爆発しているのだ。
このままでは、迷子センターの壁という壁が『星月夜』のようなぐるぐる模様に塗り替えられてしまう。
私は深くため息をつくと、受付カウンターの奥からタブレット端末を取り出した。
「……あのー、ゴッホさん。ちょっとこれ、見てくれます?」
「なんだ! 私は今、究極の黄色を生み出すのに忙しいんだ! くだらない機械など見せ……」
私が突き出したタブレットの画面を見た瞬間、ゴッホの言葉がピタリと止まった。
そこに表示されているのは、現代の『Wikipedia』と、世界的な美術品オークションの落札履歴のページである。
「えーとですね。あなたの絵、今は現世でめちゃくちゃ評価されてるんですよ。ほら、あなたが描いた『ひまわり』。これ、一九八七年のオークションで、日本円にして約五十八億円で落札されました」
「……は?」
「あと、こっちの『医師ガシェの肖像』。これは一九九〇年に、約百二十五億円です。現在あなたが残した絵画は、どれも国宝級の扱いで、世界中の美術館が喉から手が出るほど欲しがってます。ちなみに、名前のついたグッズもバカ売れしてますよ」
ゴッホは、血走った目を極限まで見開き、タブレットの画面と私を交互に見比べた。
「ひ……ひゃくにじゅう……おく……?」
「ええ。たぶん、歴史上の画家の中でも、トップクラスの稼ぎ頭ですね。死後の評価ですけど」
「…………」
ゴッホは持っていたパレットと筆を、ポロリと床に落とした。
そして、パチパクと金魚のように口を何度か開閉させた後——白目を剥いて、その場にバタンと仰向けに倒れ込んだ。
「あ、お客様? 大丈夫ですか?」
あまりの金額のインフレに、脳の処理能力が追いつかずショートしたらしい。
私が慌てて救急箱を探そうとした時、ゴッホは「ムクッ」とゾンビのように起き上がった。
「……フッ」
「え?」
「フッフッフ……ハァーッハッハッハッ!!」
ゴッホは突然、高笑いを上げながら立ち上がった。その顔からは、先ほどまでの悲壮感や怨嗟の影が綺麗さっぱり消え去り、代わりに鼻持ちならないほどの『ドヤ顔』が張り付いていた。
「当然だ!! 私は最初から分かっていた! 私の芸術が、いつか世界を平伏させるということをな! 百二十五億だと!? 安すぎるくらいだ! ああ、私が歴史上最高の天才大画伯であったと、ようやく現世の愚民どもも理解したか!」
(……手のひら返しが凄まじいな)
「おい受付の青年! 百二十五億の男が座るのだぞ、もっとマシな椅子はないのか! 最高級のベルベットのソファを持て! あと、極上のアブサン(酒)と葉巻もだ!」
突如として態度がLサイズになり、ふんぞり返るゴッホ。未練どころか、すっかり現世での大成功(死後だが)を満喫し始めている。
私がこの面倒くさい成金おじさんをどう処理しようか悩んでいた、その時だった。
ウィーン。
センターの自動ドアが、勢いよく開いた。
「……いたぞ。見つけたぞ、兄さんッ!!」
現れたのは、ゴッホとよく似た顔立ちの、しかし彼よりずっと身なりの良いスーツを着た青年だった。
青年——ゴッホの弟であり、彼の最大の理解者でもあったテオドルス・ファン・ゴッホ(通称テオ)
生前、売れない画家だった兄のために、絵の具代からキャンバス代、生活費、果ては娼婦を囲う金まで、すべてを援助し続けて過労で倒れ、兄の後を追うように亡くなった苦労人の弟である。
「お、おお! テオじゃないか! 遅かったな! 聞いたか、私の絵が百二十五億だぞ!」
「ええ、聞きましたとも! 外のスピーカーまで兄さんの高笑いが響いてましたからね!!」
テオはズンズンと大股で歩み寄り、ドンッ!と受付カウンターの上に「分厚い紙の束」を叩きつけた。
「な、なんだいテオ。その紙の山は……」
「請求書に決まってるでしょうがァァッ!!」
テオの怒声が、迷子センターの待合室にビリビリと響き渡った。
「兄さんが生前、僕に払わせた絵の具代! キャンバス代! アルルで借りた『黄色い家』の家賃! ゴーギャンを接待するための家具代! 大量に飲んだアブサンの酒代! 極めつけに、自分で切り落とした耳の治療費ッ!!」
「ヒィッ!?」
「そんなに価値が出た大金持ちの大画伯様なら、僕が心身を削って仕送りしたお金、利子をつけて全額返せるよね!? きっちり、耳を揃えて返してもらうからな! あっ、兄さん右耳ないけどね!!」
「テ、テオ! 落ち着け! あれは現世のオークションの話で、私の手元に百二十五億あるわけじゃ……!」
「うるさーい! 僕がどれだけ胃に穴を開けて画商の仕事をしたと思ってるんだ! 向こうの世界に画材屋のツケも溜まってるんだぞ! 死んでからも借金取りに追われる僕の身にもなれ!!」
テオはゴッホのよれよれのジャケットの襟首をガシッと掴むと、そのままズルズルと出口の方へ引きずり始めた。
「待って! やめてテオ! まだ私には黄色が足りないんだ! 受付の青年、助けてくれェェ!」
「あー、ご兄弟で話し合って解決してくださいねー。はい、引き渡し完了っと」
私がタブレットを操作すると、二人の足元に真っ白な光の道が現れた。
「兄さんが絵を描くのは勝手だけど、これからは稼いだ分、ちゃんと僕に還元してもらうからね!」
「わ、分かった! 分かったから引っ張るな! 耳の傷が開くゥゥーッ!」
大画伯から一転、借金取りの弟に追われるダメ兄貴となったゴッホの情けない悲鳴が響き渡り、二人の姿はドタバタと光の中へ引きずり込まれるようにして消えていった。
「ふぅ……。芸術の価値ってのは、死んでから上がるもんだな。だが、借金のツケは死んでも消えないらしい」
私は深くため息をつき、ゴッホが黄色に塗りたくったパイプ椅子を、除光液とモップで必死にゴシゴシと擦り始めた。
なんとか汚れが落ちてきたところで、再びあの無機質なチャイムが響き渡る。
ピンポンパンポーン。
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。紀元前三十年、エジプトのアレクサンドリアからお越しの、クレオパトラちゃん。享年三十九歳。……繰り返します。クレオパトラちゃんをお預かりしております——』
「うわぁ……。今度は紀元前かよ。しかも歴史上最高の絶世の美女ときたもんだ」
私は除光液の匂いが充満する待合室で、慌ててエジプト語(古代ギリシャ語)の通訳機と、最高級のミネラルウォーターを探し始めた。
どうやら冥界迷子センターの業務は、時代も国境も、そして面倒くささも限界を突破していく一方らしい。




