第7話 ハチくん
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦一九三五年、日本の東京、渋谷駅前からお越しの、ハチくん。秋田犬。享年十一歳。……繰り返します。ハチくんをお預かりしております。心当たりのある保護者の方は、至急、冥界迷子センター第一ターミナルまでお越しください』
ピンポンパンポーン。
無機質な電子チャイムの音が、蛍光灯のチカチカと瞬く殺風景な待合室に響き渡った。
私、迷子センター受付係のナナシは、持っていたモップを取り落としそうになりながら、カウンターから身を乗り出した。
「……は? 犬!? 動物も来るのかよ、ここ!?」
これまで、天下統一を夢見た魔王や、革命の波に飲まれた王妃など、数々の歴史的偉人のクレーム対応をしてきた私だが、さすがに「犬」の迷子はお初にお目にかかる。
受付カウンターの向こう側。いつもなら人間がドカッと腰を下ろす黄色いプラスチック製のパイプ椅子の前に、一匹の大きな犬がちょこんと座っていた。
ピンと立った右耳と、少し垂れ下がった左耳。がっしりとした骨格に、淡い茶色と白の毛並み。紛れもない、日本犬の代表格である秋田犬だった。
ハチは、パイプ椅子に座ることも、待合室をウロウロと嗅ぎ回ることもなかった。ただ一点、センターの入り口である自動ドアの方へ体を向け、前足を揃えて、背筋をピンと伸ばして「お座り」をしている。
「あのー、ハチ、くん? 言葉、分かるかな?」
私がカウンターから出て近づいてみても、ハチはチラリとこちらへ視線を向けただけで、すぐにまた自動ドアへと顔を戻してしまった。威嚇して吠えることも、尻尾を振って甘えてくることもない。
その瞳は、ただひたすらに、ただ静かに、来るはずの「誰か」を待ち続けていた。
「……おいおい、マジか。ここを渋谷駅の改札口か何かだと思い込んでるのか」
私は頭を掻きむしった。
人間であれば、言葉が通じる。現世の愚痴を聞き、誤解を解き、納得させれば、未練は断ち切れる。だが、相手は犬だ。
『君はもう死んでるんだよ』と言い聞かせたところで伝わるはずもない。
生前、彼がどれほどの時間を渋谷駅で過ごしたのか、私は歴史の知識として知っている。ご主人が突然この世を去ってから、雨の日も、雪の日も、照りつける太陽の下でも、彼は来るはずのない帰りを十年間も待ち続けたのだ。
そして死してなお、この冥界の入り口で、あの日と同じように姿勢を正して待っている。
「ご主人が改札から出てくるまでは、絶対にここを動かない」という、あまりにも健気で、あまりにも純粋すぎる忠誠心。それが、彼をこの世とあの世の狭間に縛り付けている「未練」の正体だった。
「……腹、減ってないか? 向こうの世界じゃ、焼き鳥の串をもらったりしてたんだろ?」
私は手元のタブレットを操作し、「冥界通販 ペット用品 経費精算」で検索をかけた。一番高価な特選和牛の無添加ジャーキーを大至急取り寄せ、紙皿に乗せてハチの鼻先にそっと置いた。
極上の肉の匂いが待合室に広がる。
ハチは、ピクッと鼻を動かした。そして、ジャーキーの匂いをフンフンと嗅ぐと——ぷいっ、と顔を背け、再び自動ドアの方へと視線を戻してしまった。一切口をつけようとしないのだ。
「……食わないのか。最高級品だぞ?」
私が苦笑しながら言うと、ハチは「クゥン」と小さく一度だけ鳴いた。まるで「今は待ち合わせ中だから、おやつは後にして」とでも言うように。
「……お前なぁ。人間の未練なんて、金だの天下だのプライドだの、ドロドロしててくだらないモンばっかりなのに。犬の未練ってのは、どうしてこんなに綺麗なんだよ」
私はパイプ椅子に腰掛け、ハチの隣で一緒に自動ドアを見つめることにした。
彼が待っている「ご主人」は、十年も前に亡くなっている。普通に考えれば、とうの昔に三途の川を渡り、輪廻転生の輪に入っているか、はるか彼方の天国で暮らしているはずだ。
この迷子センターに、彼を迎えに来る者が現れる保証など、どこにもない。
それでも、ハチは微動だにせず、真っ直ぐにドアを見つめていた。時折、清掃員が通ったり、空調の風でドアが誤作動で開いたりするたびに、ハチはピクッと耳を立てて身を乗り出す。しかし、そこに見慣れた姿がないと分かると、寂しそうに耳を伏せ、また元の姿勢に戻るのだ。
その繰り返しを見ているだけで、私の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛んだ。
「もう十年も待ったんだ。……あのおっさんは、もう来ないかもしれないぞ。一人で向こうに行っても、誰も怒らないさ」
私がハチの頭をそっと撫でようと手を伸ばした、その時だった。
ウィーン。
センターの自動ドアが、ゆっくりと開いた。
そこに立っていたのは、大正から昭和初期にかけて流行したような、仕立ての良い古いスーツを着た初老の男だった。丸眼鏡の奥の目は、待合室の様子を必死に探るように泳いでいる。
男は、パイプ椅子の前に座る一匹の秋田犬を見つけると、ハッとして息を呑んだ。
「……ハチ?」
震えるような、低く優しい声だった。
その声を聞いた瞬間。
十年もの間、渋谷駅で決して崩すことのなかったハチの「お座り」の姿勢が、ビクンと跳ね上がった。
ハチは、信じられないものを見るように男を見つめ、前足で一歩、二歩と近づいた。そして、男の足元の匂いをフンフンと嗅いだ。
ピタリと、ハチの動きが止まった。
間違いない。ずっと、ずっと、ずっと嗅ぎたかった匂い。泥と雨の匂いの上書きに負けず、記憶の底に刻み込まれていた、大好きなご主人の匂いだ。
「ワウッ! ワォーーン!!」
ハチは、パイプ椅子をガタンッ!と蹴り飛ばす勢いで飛びかかった。
「おわっ! ハハハ、こらこらハチ、重いぞ! 大きくなったなぁ!」
男——東京帝国大学教授、上野英三郎は、飛びついてきた巨大な秋田犬の重みに耐えきれず、リノリウムの床に背中からドスンと倒れ込んだ。
ハチはそんなことお構いなしに、上野教授の顔中を舐め回した。千切れんばかりに尻尾をブンブンと振り回し、顔を摺り寄せ、「キュゥゥーン、クゥゥゥーン!」と甘ったるい声を上げながら、何度も何度も教授の胸元に顔をうずめる。
それは、忠犬でもなんでもない、ただご主人の帰りを待っていた、寂しがり屋の一匹の「飼い犬」の姿だった。
「すまなかったなぁ……。ずっと、ずっと待たせちまって。偉かったな、ハチ、偉かったな……っ」
上野教授もまた、ハチの大きな頭を抱きしめながら、丸眼鏡の奥からボロボロと大粒の涙をこぼしていた。
「私が急に死んでしまってから、お前はずっと改札で待っていると、後から来た者たちに聞いてな。……どうしても、もう一度お前を抱きしめたくて、お前がここへ来るのを、十年、ずっとあの世の入り口で待っていたんだ」
「クゥーン、ワンッ!」
「そうか、そうか。もう絶対に、お前を一人にはしない。これからはずっと一緒だ」
床に寝転がって抱き合う一人と一匹。
その光景をカウンターの中から見ていた私の視界も、なぜだかひどくぼやけていた。
「……やれやれ。これじゃあ、床が涙とよだれでビショビショじゃないか」
私はインカムのマイクを切り、鼻をズビズビとすすりながら、業務用モップを強く握りしめた。
犬の未練というのは、本当に厄介だ。理屈じゃない。ただ純粋な「愛」だけで構成されているからこそ、これほどまでに人の心を揺さぶってくる。
「……あのー、感動の再会のところすみません」
私は真っ赤になった目をこすりながら、パンパンと手を叩いた。
「ここは一応、迷子センターなんで。引き渡し手続き、いいですかね」
「ああ、すまないね受付の青年! さあハチ、行こうか。あっちには、お前が大好きな特上のお肉がたくさんあるぞ」
上野教授が立ち上がってズボンの埃を払うと、ハチもピタッとその横に寄り添った。
私がタブレットの「引き渡し完了」ボタンをタップすると、ピロンという電子音と共に、二人の足元に真っ白な光の道が現れる。
「ありがとうございました。お気をつけて」
私が深く頭を下げると、ハチは私の方を振り返り、短い尻尾をパタパタと振りながら「ワンッ!」と明るく一声吠えた。まるで「おやつは食べなかったけど、一緒に待っててくれてありがとう」と礼を言っているようだった。
一人と一匹は、光の道の上を嬉しそうに駆け出していく。
時折、ハチがご主人の手や顔を舐めようと飛び跳ね、教授が「こらこら、歩きづらいじゃないか」と嬉しそうに笑う声が響き、やがてその姿は完全に光の中へと溶けて消えた。
「ふぅ……。今日はもう、業務終了にしたい気分だぜ」
私がため息をつきながら、ハチが口をつけなかった高級和牛ジャーキーを片付けようとした、その時だった。
ピンポンパンポーン。
休む間もなく、無機質なチャイムが響き渡る。
それに続いて流れてきたアナウンスに、私は今度こそモップを床に放り投げた。
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦一八九〇年、フランスのオーヴェール・シュル・オワーズからお越しの、フィンセント・ファン・ゴッホくん。享年三十七歳。……繰り返します。フィンセント・ファン・ゴッホくんをお預かりしております——』
「……また国際線かよ! しかもまた三十七歳! なんでどいつもこいつも三十七歳で死んで迷子になるんだよ!」
私は慌ててフランス語の通訳機を耳に突っ込みながら、今度こそ大荒れになりそうな冥界迷子センターのカウンターへと戻っていった。




