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冥界迷子センター  作者: てっぺい


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第6話 宮沢賢治くん

『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦一九三三年、日本の岩手県いわてけん花巻はなまきからお越しの、宮沢賢治みやざわけんじくん。享年きょうねん三十七歳。……繰り返します。宮沢賢治くんをお預かりしております。心当たりのある保護者の方は、至急、冥界めいかい迷子センター第一ターミナルまでお越しください』


 ピンポンパンポーン。

 無機質な電子チャイムの音が、蛍光灯のチカチカとまたたく殺風景な待合室に響き渡る。


 私、迷子センター受付係のナナシは、カウンターの奥で温かいほうじ茶をれながら、そっとため息をついた。


 ここ『冥界迷子センター』には、現世への未練みれんや死の直前の混乱から、すんなりと成仏じょうぶつできなかった「迷子」たちがやってくる。権力への執着、裏切られた怒り、承認欲求。これまで数多くのエゴを見てきたが、今回の迷子は、少し毛色が違っていた。


「……申し訳ありません。私のようなデクノボーが、このような清潔な場所を汚してしまって」


 黄色いプラスチック製パイプ椅子に、その男は背中を丸めて座っていた。


 着古した粗末な背広に、泥のついた長靴。手には、使い込まれた黒い手帳が大切そうに握られている。その顔は病的なまでに青白く、ひどく痩せこけており、時折、胸の奥から絞り出すような重いせきをしていた。急性肺炎きゅうせいはいえん。それが彼を現世から切り離した直接の原因だ。


「いえ、汚れてなんかいませんよ。ここは元々、そういう場所ですから」


 私が湯気を立てるほうじ茶の紙コップと、ついでに用意した『ふかし芋』を差し出すと、宮沢賢治は恐縮したように何度も頭を下げた。


「もったいない。私には、そんな温かいものをいただく資格などありません。私は……何一つ、成し遂げられなかった、石ころ以下の人間ですから」


 賢治はほうじ茶に口をつけることもなく、泥にまみれた自分のゴツゴツとした両手をじっと見つめた。


 彼が冥界の迷子になってしまった理由。それは、これまで見てきた偉人たちのような「己の欲望が満たされなかった」という無念ではない。あまりにも純粋すぎる「他者への献身」が、彼自身を呪縛じゅばくしていたのだ。


「冷害の年でした……。夏になっても、ちっとも日が照らない。ヤマセという冷たい風が吹いて、稲は青いまま枯れていく。農民たちは泣いていました。私は肥料の計算をして、土壌を改良しようと駆け回ったけれど、自然の残酷さの前では、私の知識など何の役にも立ちませんでした」


 ぽつり、ぽつりと、賢治は懺悔ざんげのように語り始めた。


「私は、みんなの本当の幸せを探したかったんです。雨にも負けず、風にも負けず……いつも静かに笑っている、デクノボーになりたかった。褒められもせず、苦にもされず、ただみんなの悲しみを背負えるような人に。……でも、現実は違った」


 賢治の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ち、泥のついた長靴を濡らした。


「私はただの、世間知らずの金持ちのボンボンでした。親の金でレコードを買い、農民たちが食べるものにも困っている時に、空想の童話や詩を書いていた……。あんなおとぎ話、飢えをしのぐための米一粒にもならないのに! 私は、彼らを救えなかった。それどころか、病に倒れて、親兄弟にまで看病の苦労をかけて……なんて、なんて無価値な人生だったのでしょう」


 深い深い、自己嫌悪と罪悪感の底。

 彼は誰かを恨むのではなく、ひたすらに己の無力さを責め続けていた。その姿は、見ていて胸が締め付けられるほどに痛々しい。私は、普段の事務的な相槌あいづちを打つことすらできず、ただ黙って彼の言葉を聞いていた。


 ウィーン。

 その時、センターの自動ドアが、静かに開いた。


 吹き込んだ風が、ふわりと、冷たく澄んだ雪の匂いを運んできた。


「——お兄ちゃん。そんなことないよ」


 りんとした、鈴の転がるような優しい声だった。

 そこに立っていたのは、女学生のような清楚せいそはかま姿の若い女性だった。血色は良く、その顔立ちには賢治とどこか似た、聡明そうめいな光が宿っている。


「……ト、シ?」


 賢治が弾かれたように顔を上げた。

 宮沢トシ。賢治の最愛の妹であり、二十四歳という若さで結核けっかくによりこの世を去った女性。賢治の人生において、最も深い悲しみと、最も強い影響を与えた「保護者」が、そこに立っていた。


「とし子……! ああ、とし子……っ!」


 賢治はパイプ椅子から立ち上がろうとしたが、足がもつれ、そのまま床に膝をついた。


「ごめんね……ごめんな。お前が苦しんでいた時、俺は何にもしてやれなかった。お前が死んでしまってから、俺はずっと、暗い夜の底を歩いているようだった……っ」


 泣き崩れる賢治の前に、トシは静かに歩み寄り、泥だらけの兄をそっと抱きしめた。


「お兄ちゃん。あの日のこと、覚えてる?」


 トシは、賢治の背中を優しく撫でながらささやいた。


「私が熱で苦しくて、『あめゆじゅとてちてけんじゃ(みぞれ雪を取ってきてちょうだい)』って頼んだ日のこと。お兄ちゃんは、暗いみぞれが降る中、曲がった鉄砲玉みたいに飛び出していって、松の枝から、真っ白な雪を取ってきてくれたよね」


「ああ……覚えている。でも、あんな雪、何の特効薬にもならなかった。お前を助けられなかった……」


「ううん。あの二つの欠けた陶器のお椀に入った雪はね、この世で一番綺麗だったの。私の熱い体と心を、すーっと透き通らせてくれた。あの雪のおかげで、私は少しも怖がらずに、天国に旅立つことができたんだよ」


 トシの言葉に、賢治は顔を上げ、すがりつくように妹を見つめた。


「お兄ちゃんは『自分の書いたものは、米一粒にもならない』って泣くけれど。そんなことない。絶対に、そんなことない」


 トシは、賢治の泥だらけの頬を両手で包み込み、真っ直ぐに目を見た。


「お兄ちゃんのつむいだ言葉は、星の光みたいなの。すぐにお腹を満たすことはできないかもしれないけれど……暗闇で迷っている人の足元を照らし、冷え切った心を温める、永遠の光になる。これから先、百年も二百年も後の子供たちが、お兄ちゃんの『銀河鉄道』に乗って、本当の幸せを探しに旅に出るんだよ」


「俺の……言葉が……?」


「そう。だから、自分を石ころだなんて言わないで。お兄ちゃんは、立派にみんなの悲しみを背負った、世界で一番優しくて、素敵な『デクノボー』だったよ」


 トシの目から、一筋の美しい涙がこぼれ、賢治の頬に落ちた。


 その瞬間、賢治を縛り付けていた、重く冷たい罪悪感の鎖が、音を立てて砕け散るのが分かった。


 無力だと思っていた自分の人生が、決して無駄ではなかったのだと。自分の祈りが、いつか誰かの心に届くのだと知った時。


 宮沢賢治は、子供のように声を上げて泣いた。


「ああ……ああ……っ! とし子……ありがとう、ありがとう……っ!」


 後悔の涙ではない。それは、魂が救済される、純粋な喜びの涙だった。


 私は無言で、持っていた箱ティッシュではなく、新品の白いタオルをそっと二人の前に置いた。この聖なる瞬間に、私の事務的な言葉など、何一つはさむ余地はなかった。


 やがて、泣き疲れてスッキリとした顔になった賢治が、立ち上がった。


 私がカウンターの奥で「引き渡し完了」のボタンを押すと、ピロンという静かな電子音と共に、二人の足元に真っ白な光の道——まるで、星々がきらめく銀河のレールのような道が現れた。


「……受付の方。泥を落としてしまって、本当にすみませんでした。温かいお茶、ありがとうございます」


 賢治は私に向かって、深く、深く一礼をした。


「いえ。どうか、向こうではゆっくりお休みください」


 私は、普段の適当な会釈えしゃくではなく、彼への最大限の敬意を込めて、背筋を伸ばし深く頭を下げた。


 賢治とトシは手を取り合い、光のレールの上を歩き出す。


「お兄ちゃん、向こうに行ったら、またチェロを弾いてね。今度は、ゴーシュみたいに上手に弾けるようになっているといいけど」


「ははは。あちらの畑仕事の合間に、たくさん練習しておくよ。トシ、今度は一緒に星巡りの歌を歌おう」


 二人の姿は、やがて美しい星屑ほしくずのような光の粒子となって、冥界の奥へと溶けて消えた。


 待合室には、ほうじ茶の甘い香りと、かすかな雪の匂いだけが残されていた。


「ふぅ……。たまには、こういうのも悪くないな」


 私が目元をぬぐい、冷めたふかし芋を片付けようとした、その時だった。


 ピンポンパンポーン。

 容赦なく、そして空気を読まない電子チャイムが響き渡る。


 続くアナウンスを聞いた瞬間、私は自分の耳を疑った。


『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦一九三五年、日本の東京、渋谷駅前からお越しの、ハチくん。秋田犬あきたいぬ。享年十一歳。……繰り返します。ハチくんをお預かりしております——』


「……は? 犬!? 動物も来るのここ!?」


 私は慌ててカウンターから身を乗り出した。

 パイプ椅子の前に、一匹の大きな秋田犬が、ピンと耳を立ててお座りをして、自動ドアの方をジッと見つめていた。


「うわぁ……マジかよ。ドッグフード、備品にあったっけな……」


 私は急いでタブレットで「冥界 ペット用品 経費精算」と検索をかけ始めた。


 ここ、冥界迷子センター。

 どうやら今日は、言葉の通じない、しかし誰よりも深い「愛」を持った迷子を相手にしなければならないようだ。

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