第5話 ソクラテスくん
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。紀元前三九九年、古代ギリシャのアテナイからお越しの、ソクラテスくん。享年七十一歳。……繰り返します。ソクラテスくんをお預かりしております。心当たりのある保護者の方は、至急、冥界迷子センター第一ターミナルまでお越しください』
ピンポンパンポーン。
無機質で事務的な電子チャイムの音が、蛍光灯のチカチカと瞬く殺風景な待合室に響き渡った。
私、迷子センター受付係のナナシは、古代ギリシャ語の通訳機をインカムに同期させながら、深く、ひどく深いため息をついていた。
「……あの、すみません。一つだけ聞いていいですか?」
黄色いプラスチック製パイプ椅子に座り、ヨレヨレの布をまとった裸足の老人が、パチパチと瞬きを繰り返しながら私をジト目で見上げていた。
西洋哲学の祖にして、アテナイ随一の論破王、ソクラテス。
彼のもたらす疲労感は、これまでのどんな暴君や巨大恐竜とも異質の、最も絡まれたくないタイプの「ねっとりとした徒労感」だった。
「さっきからアナウンスで僕のこと『迷子』って呼んでますよね? それ、事実ベースの話ですか? それとも、あなたの感想ですか?」
「いや、成仏のルートから外れてここにいるという事実ベースですけど。とりあえず、喉も渇いたでしょうから水でも……」
私が紙コップを差し出すと、ソクラテスは首を少し傾け、独特の「相手を無能扱いする時の笑み」を浮かべた。
「あー、やっぱり。そうやってすぐ定義を曖昧にしたまま話を進めるの、やめてもらっていいですか? ロジカルに考えましょう。まず、『迷子』の定義って何ですか? 自分がどこへ行くべきかを知らない状態ですよね? でも僕は『自分が死後の世界について何も知らないということを知っている』んですよ。無知の知です。つまり、自分が迷子であるというメタ認知が完全に完了している時点で、僕は主観的にも客観的にも迷子じゃないんですよ。それなのに『迷子』扱いして無理やりここに留め置くの、不法監禁とかで訴えられたら負けるのあなたの方だと思うんですけど、大丈夫ですか?」
(……うわぁ、最高にめんどくせえジジイが来たぞ)
私はこめかみを揉みほぐした。
死の直前、彼はアテナイの裁判で「若者を堕落させた」という罪を問われ、陪審員たちを煽りに煽った挙句、自ら毒人参をあおって死刑を受け入れた。
だが、その強すぎる「ロジックへの執着」と、論破し足りないという「知的な未練」が、彼をこの待合室に縛り付けているのだ。
「だいたい、あなたは『死』を悪いものだと決めつけてますけど、そのエビデンス、どこにあるんですか? 魂が肉体という牢獄から解放されるというデータがある以上、死はむしろ……」
ソクラテスがドヤ顔で瞬きを加速させた、その時だった。
「ソォォォォォォクラテェェェェェスッッ!!!」
迷子センターの空気を、ロジックよりも速い速度の衝撃波が切り裂いた。
自動ドアを物理的にこじ開けるような勢いで現れたのは、中身の詰まった巨大な買い物カゴを提げた一人の女性だった。
「ヒッ……!!」
ソクラテスの「論破王モード」が、一瞬で「怯える子犬モード」に強制シャットダウンされた。
現れたのは、ソクラテスの妻、クサンティッペ。
歴史上「世界三大悪妻」などと不名誉な呼ばれ方をしているが、その実態は、働かない屁理屈ニートの夫を抱え、ワンオペで家計を回し続けた最強の現実主義者である。
「あんた!! 裁判で陪審員を論破してドヤ顔した挙句、自分から毒飲んで死ぬって何考えてんのよ!!」
「いや、クサンティッペ。落ち着いてください。今のは単なるアテナイの法システムに対するデバッグ作業というか、国法に従うという『善』の脆弱性を指摘してあげただけで……」
「脆弱なのは残されたうちの家計でしょ!!」
クサンティッペは、ソクラテスのヨレヨレのキトンの首根っこをガシッと掴んだ。
「あんたがここで『死の定義』をこねくり回してる間に、私はあんたの葬式代を工面するために、近所中を頭下げて回らなきゃいけないの! 事実として、あんたが無職で死んだから、子供たちのご飯代も私一人で稼がなきゃいけないの! このコスト、あんたのロジックでどう回収するつもり!?」
「……いや、肉体的なコストは魂の解放によって相殺……」
「魂の解放で腹が膨れるっていうエビデンス、あるんですか?」
「…………。ないです、すみません」
最強の論破王が、冥界の入り口で完全敗北を喫した瞬間だった。
「だいたい、あんたが論破して回ってた連中、みんなあんたの死を厄介払いできたって喜んでるわよ! あんたの『無知の知』は、お腹を空かせた家族を満たしてくれたの!? はい、答えなさいよ!」
「……無理です。ごめんなさい……」
ソクラテスが完全にしょげ返ったのを見て、クサンティッペは深くため息をついた。
そして、ふと私の足元にあった「清掃用のモップのバケツ」に目を留めた。
「ちょっとお兄さん、これ借りるわよ」
「え? あ、はい、どうぞ(まだ水、替えてないけど)」
ザバーーーーン!!!
冥界の待合室に、盛大な水音が響き渡った。
クサンティッペは、バケツになみなみと入っていた汚水を、躊躇なく夫の頭からぶちまけたのだ。
「…………っっっっふ!!」
「……それ、今のあんたの屁理屈に対する、私の『感想』よ。
冷たくて気持ちいいでしょ? 論理を超えた物理的リアリティを感じられたかしら?」
ずぶ濡れになったソクラテスは、震えながら、パチパチと瞬きをした。
怒るか、あるいはさらに理屈をこねるか。私がハラハラしながら見守っていると、ソクラテスの口元が、だらしなく緩み始めた。
(……ああ。やはり、彼女は究極の哲学者だ。僕が『死後の魂』を説いている間に、彼女は『水の冷たさ』と『暴力の即効性』を以て、僕の魂を現世……いやあの世のリアルに引き戻してくれた。言葉で勝てない相手がいる……。やっぱり、僕に冷水をかけられるのは彼女しかいない……幸せだなぁ……)
「何ニヤついてんのよ、気味悪い! 分かったらさっさと手続きして行くわよ! 向こうに着いたら、神々の庭の草むしりからやらせるからね! 草をむしるっていう『事実』だけが、唯一の正解よ!!」
「はい、善処します……」
私は、なんだかんだで需要と供給が完璧に一致しているこの夫婦の姿に畏敬の念すら覚えつつ、タブレットの「引き渡し完了」ボタンをタップした。
ピロン、という電子音と共に、二人の足元に真っ白な光の道が現れる。
「ほら、さっさと歩きなさい!」
「はいはい。あ、受付の人、最後に一つだけ。この水、結構雑巾の匂いがしたんですけど、衛生的なデータって……」
「うるさいっ!!」
クサンティッペがソクラテスの背中を蹴り飛ばすようにして促し、古代ギリシャの最強夫婦は、賑やかな悲鳴と共に光の中へと消えていった。
「ふぅ……。論破王も、物理攻撃と嫁には勝てないってことだな」
私が床にぶちまけられたモップの水を、別のモップで拭き取り始めた、その時だった。
ピンポンパンポーン。
休む間もなく、無機質なチャイムが響き渡る。
それに続いて流れてきたアナウンスに、私はモップの柄を握りしめた。
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦一九三三年、日本の岩手県、花巻からお越しの、宮沢賢治くん。享年三十七歳。……繰り返します。宮沢賢治くんをお預かりしております——』
「……岩手、か」
私は新しい紙コップを取り出し、今度は温かいお茶の準備を始めた。
ここ、冥界迷子センター。
今日も歴史に名を残した迷子たちが、誰かが迎えに来てくれるのを、今か今かと待っている。




