第4話 太宰治くん
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦一九四八年、日本の東京、玉川上水からお越しの、津島修治くん——ペンネーム、太宰治くん。享年三十八歳。……繰り返します。太宰治くんをお預かりしております。心当たりのある保護者の方は、至急、冥界迷子センター第一ターミナルまでお越しください』
ピンポンパンポーン。
無機質でどこか気の抜けた電子チャイムの音が、蛍光灯の瞬く殺風景な待合室に響き渡る。
私、迷子センター受付係のナナシは、カウンターの奥からブルーシートと業務用モップを取り出し、深々とため息をついた。
「……あー、太宰くん。悪いんだけど、もうちょっとそっちのシートの上に移動してもらえます? 床が水浸しになっちゃうんで」
私がブルーシートを広げて促すと、黄色いプラスチック製パイプ椅子に座っていた男は、ゆっくりと顔を上げた。
季節外れのウールの着物に、黒い外套。その全身はずぶ濡れで、ボサボサの髪からはポタポタと絶え間なく水滴が落ちている。
青白く痩せこけた顔。落ち窪んだ目。そこには、この世のすべての絶望を煮詰めたような、ねっとりとした暗い影が落ちていた。
「……恥の多い生涯を送って来ました」
「はいはい、そうですね。とりあえずバスタオル置いときますんで、頭拭いてください。風邪引きますよ。あ、もう死んでるから引かないか」
「私には、人間の生活というものが、見当つかないのです……。ああ、死のうと思って、ついに死ねたというのに、どうしてこうも惨めな気持ちになるのでしょうか。水底の泥は冷たくて、息ができなくて、本当に苦しかった。こんなことなら、もっと違う死に方を……いや、私のような人間は、生まれてこない方が良かったんだ……」
太宰は私が渡したバスタオルを受け取りもせず、両手で顔を覆ってウジウジと呟き始めた。
ここ『冥界迷子センター』には、死を受け入れられなかったり、現世への未練が強かったりする「迷子」がやってくる。武将や王侯貴族なら「無念」や「怒り」を爆発させるのが常だが、この手の『文豪』と呼ばれる人種は、とにかくベクトルが内側に向かっていて面倒くさい。自己評価が異常に低いクセに、プライドだけはエベレストよりも高いのだ。
「あのー、温かいお茶でも淹れましょうか。それとも、味の素でも舐めます?」
私が彼の好物を提案してみたが、太宰はブルブルと首を横に振った。
「いいえ……私には、そんなものを口にする資格すらありません。私は、人間失格なのです……。それにしても、あんまりだ。私が一体何をしたというのです。ただ、少しばかり女性にだらしなくて、少しばかりお酒が好きで、少しばかり薬に頼って、少しばかり借金をして、何度か心中未遂をしただけじゃないですか!」
(……字面にすると完全なクズだな)
「私が本当に欲しかったものは、ただ一つだけだったのに! 川端の野郎……川端康成の野郎ッ!!」
突如、太宰はバンッ!とパイプ椅子から立ち上がり、血走った目で虚空を睨みつけた。
水も滴るメンヘラ文豪が、突如として牙を剥いた瞬間だった。
「なんで私に芥川賞をくれなかったんだ! 『作者の現在の生活に嫌な雲がある』だと!? 生活態度と小説の評価は別でしょうが! 私があんなに、あんなに『どうか私に希望を与えてください』って、長文の手紙まで送って懇願したのに! あいつ、小鳥なんか飼って悠々自適に暮らしやがって! ああ、思い出すだけで腹が立つ! 刺す! 大悪党だ!」
「お客様、落ち着いてください。ここでは他人の誹謗中傷はお控え願います」
「だって! 私は芥川先生を神のように尊敬していたんですよ!? 先生の『羅生門』も『鼻』も全部暗記するくらい読んで、ノートに『芥川龍之介』って何百回も書きなぐって、写真のポーズまで真似したのに! その冠がついた賞をもらえなかった私の人生なんて、もう価値なんてないんだァァッ!」
太宰はバシャバシャと地団駄を踏み、床に水しぶきを撒き散らしながら泣き叫んだ。
日本文学史に残る大傑作を次々と生み出した天才作家の、これが等身大の姿だった。
死の瞬間の苦しみ以上に、彼をこの迷子センターに縛り付けているのは、文学への異常なまでの執着と、憧れの人物に認められたかったという、あまりにも純粋で子供っぽい「承認欲求」なのだろう。
「それに……書きかけだったんだ」
ひとしきり暴れて体力を使い果たしたのか、太宰は再びパイプ椅子に力なく座り込んだ。
「新聞連載の『グッド・バイ』……まだ途中だったのに。あんな見事なタイトルをつけておいて、途中で放り出してしまうなんて。読者はどう思うだろう。やっぱり私は、最後までダメな男だったんだ……。ああ、死にたい……もう死んでるけど」
「まあまあ。作品は未完でも、あなたの名前は永遠に残りますから。とりあえず、お迎えが来るまで静かにしててくださいね」
私が事務的にモップで水を拭き取っていると。
ウィーン。
センターの自動ドアが、静かに開いた。
「……君ねえ。あまり大きな声で僕の名前を叫ばないでくれないか。恥ずかしいじゃないか」
呆れたような、しかしどこか涼やかな声が響いた。
そこに立っていたのは、身の丈に合った上質な着物を着流し、ほっそりとした体つきの男だった。青白い顔に、神経質そうな切れ長の目。その指先には、火のついた煙草が挟まれている。
私にとってはお馴染みの顔だった。彼もまた、かつてこの迷子センターを通り過ぎた「元・迷子」の一人である。
「あ……」
太宰の全身が、ビクンと大きく跳ねた。
男はゆっくりと歩み寄り、太宰の前で立ち止まって、フウと紫色の煙を吐き出した。
「お迎えに上がりましたよ。太宰さん」
私が軽く会釈をすると、芥川龍之介は「ご苦労様」と短く応え、目の前で固まっている太宰を見下ろした。
「あ、あ、あ……あくたがわ、せんせい……?」
「まったく。僕も『ぼんやりとした不安』なんて理由で睡眠薬を煽った身だから、人の自殺をどうこう言える立場じゃないがね。君の死に方はあまりにも泥臭くて、スマートじゃないな。それに、ノートに僕の名前をびっしり書くのは、ちょっと気味が悪いからやめてほしかったよ」
「あ、あああ……っ!」
太宰はパイプ椅子から転げ落ちるようにして、床に両手をついた。
憧れであり、神とまで崇めた文学界の巨星が、今、自分の目の前に立っている。太宰の大きな目からは、川の水ではない、本物の大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。
「せ、先生……っ! 私、私……ずっと、先生にお会いしたくて……っ! でも、私なんか……人間失格のクズで……芥川賞も、もらえなくて……っ!」
「泣くな。みっともない」
芥川は短く窘めると、持っていた手拭い《てぬぐい》を、太宰の濡れた頭にポンと乗せた。
「……賞なんて、ただの現世の飾りにすぎない。そんなものがなくたって、君の書いたものは、ちゃんと後世に残る。僕も向こうで読ませてもらったよ。『走れメロス』、あれはなかなか綺麗に書けていたじゃないか」
「ほ、ほんとうですか……!?」
「ああ。ただ、女にだらしがないのは僕も辟易するがね。……ほら、立て。こんな水浸しの所でいつまでもウジウジしていないで、行くぞ」
芥川が細く白い手を差し出すと、太宰は震える両手でその手をしっかりと握りしめた。
「は、はい……っ! どこまでも、お供いたします、先生……!」
芥川に手を引かれ、太宰は鼻水をすすりながら立ち上がった。その顔は、先ほどまでの絶望に満ちた表情が嘘のように、憧れの先輩に褒められて喜ぶ純粋な少年のように輝いていた。
「……あー、お取り込み中すみません」
私はパンパンと手を叩いて、二人を見た。
「太宰くんも、未練はなくなったみたいですし。引き渡し手続き、いいですかね」
「ええ。お騒がせしたね、受付の青年。彼の後始末、よろしく頼むよ」
私がタブレットの「引き渡し完了」ボタンをタップすると、ピロンという電子音と共に、二人の足元からあの世へと続く真っ白な光の道が現れた。
芥川が先を歩き、太宰がその斜め後ろを、まるで忠犬のように嬉しそうについていく。
「先生! 向こうに行ったら、私の『グッド・バイ』の続き、読んでいただけますでしょうか! あと、川端の野郎の悪口を一緒に……」
「君は本当にやかましいな。小説の構想なら聞いてやるが、悪口はご免だ。僕は向こうで、漱石先生のところに顔を出さなきゃならないんだから」
「そ、漱石先生に……!? どうか私もご一緒に……!」
文学の鬼たちの賑やかなやり取りは、やがて真っ白な光の奥へと溶けて、完全に消え去った。
「ふぅ……。日本の文学史も、案外めんどくさいオタクの集まりみたいなもんだな」
私が大きく伸びをして、濡れたブルーシートを片付け始めた、その時だった。
ピンポンパンポーン。
休む間もなく、無機質なチャイムが響き渡る。
それに続いて流れてきたアナウンスに、私はモップの柄を握りしめた。
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦一九三三年、日本の岩手県、花巻からお越しの、宮沢賢治くん。享年三十七歳。……繰り返します。宮沢賢治くんをお預かりしております——』
「……岩手、か」
私は新しい紙コップを取り出し、今度は温かいお茶の準備を始めた。
ここ、冥界迷子センター。
今日も歴史に名を残した迷子たちが、誰かが迎えに来てくれるのを、今か今かと待っている。




