第3話 マリーアントワネットちゃん
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦一七九三年、フランスのパリ、革命広場からお越しの、マリー・アントワネットちゃん。享年三十七歳。……繰り返します。マリー・アントワネットちゃんをお預かりしております。心当たりのある保護者の方は、至急、冥界迷子センター第一ターミナルまでお越しください』
ピンポンパンポーン。
無機質で事務的な電子チャイムの音が、蛍光灯のチカチカと瞬く殺風景な待合室に響き渡った。
私、迷子センター受付係のナナシは、官給品の黒い自動翻訳機を右耳に装着しながら、深く深くため息をついた。
ここ『冥界迷子センター』は、あの世の玄関口である三途の川の手前に併設された特殊施設だ。死を受け入れられなかったり、現世への未練や恐怖が強すぎたりして、成仏の正規ルートから外れてしまった「迷子」たちを一時的に保護する場所である。
「信じられないわ! なんて無礼極まりないの! あんな、あんな粗末な荷車に私を乗せて、市中を引き回すなんて!」
受付カウンターの向こう側。幼児が座るような黄色いプラスチック製のパイプ椅子に、その「迷子」は優雅に、しかしひどく不機嫌そうに腰掛けていた。
彼女の服装は、かつてベルサイユ宮殿で着ていたような絢爛豪華なドレス……ではなく、真っ白で簡素な木綿の肌着ドレスだった。それは彼女が処刑台に上がる直前に着せられていたものだ。
美しく結い上げられていたはずの金髪は、うなじが見えるほど短く無残に刈り取られ、白く染まっている。
そして何より目を引くのは、彼女の細く白い首筋に、ぐるりと一周、赤い糸のように細い「線」が入っていることだった。断頭台による切断痕。
怒りに肩を震わせ、威圧的に振る舞う彼女だったが、その膝の上で組まれた両手は、血の気を失い、ガタガタと小刻みに震え続けていた。
「あのー、アントワネットさん。とりあえず落ち着きましょうか。温かい紅茶でも淹れますんで」
私が業務用ポットのお湯を沸かし、紙コップにティーバッグを入れると、彼女は青筋を立ててこちらを睨みつけた。
「紙のコップ!? セーヴル焼きのティーカップはないの!? ここはなんて野暮な場所なの! 私を誰だと思っていて? フランス王妃よ! ああもう、最悪の気分だわ。ただでさえ、あのギロチンの刃が落ちてくる瞬間の冷たい感触と、群衆の歓声が耳にこびりついて離れないのに!」
「はいはい、お辛かったですねえ。でもここでは皆平等に『迷子』ですから。ほら、お砂糖は一つでいいですか?」
「五つよ! ミルクもたっぷり入れてちょうだい!」
私は言われた通りに超甘めのミルクティーを作り、カウンター越しに差し出した。
彼女は文句を言いながらも紙コップを受け取り、震える両手でそれを包み込むようにして口をつけた。一口飲むと、張り詰めていた肩の力が、ほんの少しだけ抜けたようだった。
「……ふぅ。淹れ方は最悪だけど、温かいわね」
「それはどうも。で、どうしました? 処刑のショックで迷子になっちゃいました?」
「ショックなのは処刑だけじゃないわ!」
アントワネットは再び声を荒げたが、その声には先ほどの怒りよりも、深い絶望が混じっていた。
「私が一体何をしたっていうの……。確かに若い頃は少しばかりお洒落や賭博にお金を使ったかもしれないわ。でも、後半はドレスだって質素なものにしたし、慎ましく暮らしていたのよ! それなのに、民衆は何かあれば全部私のせいにして!」
「まあ、ヘイトを集めやすい立ち位置でしたからねえ」
「極めつけはあの言葉よ! 『パンがなければお菓子を食べればいいじゃない』って、私が言ったことになってるらしいわね!? 言ってないわ! 私、あんなこと一言も言ってない!」
彼女は紙コップを握りしめ、血走った目で、しかしポロポロと涙をこぼしながら私に訴えかけた。
「ひどいわ……本当にひどい。私はただ、フランスという国を愛そうとしただけなのに。立派な王妃になろうと努力したのに。最後なんて、暗くて冷たい石牢に入れられて、愛する子供たちからも引き離されて……。夫のルイだって、私よりずっと前に処刑されてしまったし。私、ずっと一人ぼっちだったのよ……」
享年三十七歳。断頭台の露と消えた悲劇の王妃の、これが等身大の姿だった。
「……でも、死の恐怖よりも、群衆の罵声よりも、私がいちばん恐ろしかったのは……」
アントワネットはうつむき、まるで幼い子供のように震える声で呟いた。
「お母様に……顔向けができないことよ」
「お母様?」
「ええ。私のお母様は、神聖ローマ帝国を治める偉大な女帝、マリア・テレジア。私は十四歳の時、祖国オーストリアとフランスの同盟のために、たった一人で嫁いできたの。お母様はずっと、手紙で私を厳しく叱咤し続けていたわ。『あなたはフランス王妃なのだから、自覚を持ちなさい』『祖国の恥にならないように』って……。お母様にとって、私はただの政治の道具だったのかもしれないけれど、それでも……私は、お母様に褒められたかった」
ポツリ、ポツリと、彼女の口から零れ落ちる本音。
それは歴史に名を残す「悪女」でも「悲劇の王妃」でもなく、ただ母親の愛と承認を求めてやまない、孤独な一人の少女の姿だった。
「国は滅び、王制は倒れ、私は罪人として首をはねられた。フランスも、祖国オーストリアも、全てを裏切ってしまった。……ああ、どうしよう。死後の世界でお母様に会ったら、私はきっと、見捨てられてしまうわ。私がこんな所で迷子になっているのは、きっと、お母様に会うのが怖いからなのね……」
両手で顔を覆い、嗚咽を漏らすアントワネット。
その時だった。
ウィーン。
センターの自動ドアが、静かに開いた。
慌ただしい足音ではない。
コツン、コツンと、杖を突くような重厚で、しかしどこか急ぎ足な靴音が、殺風景な待合室に響き渡る。
私が顔を上げると、そこには喪服のような漆黒の豪奢なドレスに身を包んだ、恰幅の良い初老の女性が立っていた。
その身に纏う圧倒的な威厳と気品は、ただ者ではないことを一目で悟らせる。しかし、彼女の瞳は赤く腫れ上がり、息は荒かった。
「……アントニア」
震えるような、深く、温かい声。
その声を聞いた瞬間、パイプ椅子に座っていたアントワネットの背中がビクリと跳ねた。「アントニア」とは、彼女の祖国での幼名だ。
アントワネットは恐る恐る振り返り、その女性の姿を認めた途端、顔面を蒼白にして床に崩れ落ちた。
「お、お母様……!!」
現れたのは、ハプスブルク家の傑物にして神聖ローマ帝国女帝、マリア・テレジアその人だった。
アントワネットより十三年も前に世を去っていた彼女は、真っ直ぐに娘の元へと歩み寄った。
「ごめんなさい! ごめんなさいお母様!!」
アントワネットは床に這いつくばり、女帝のドレスの裾を掴んで泣き叫んだ。
「私、立派な王妃になれませんでした! 国をめちゃくちゃにして、ギロチンにかけられて……ハプスブルク家の名に、泥を塗ってしまいました! 怒ってください、見捨てないでください! 私は、私は、お母様の期待に……ッ!」
それ以上言葉を続けることができず、震える娘。
マリア・テレジアは無言のまま、手に持っていた豪奢な杖を床に投げ捨てた。
カラン、と無機質な音が響く。
そして女帝は、漆黒のドレスが汚れることも厭わず、冷たいリノリウムの床に膝をついた。血の気を失い、ガタガタと震え続ける娘の細い肩を、そのふくよかな両腕で力強く、きつく抱きしめたのだ。
「……えっ?」
「……あんなにも冷たく、暗い場所で。よく、一人で耐え抜きましたね。私の、可哀想なアントニア」
マリア・テレジアの声は、威厳に満ちた女帝のものではない。
喉を引き攣らせ、後悔に咽び泣く、一人の母親のものだった。
「お母、さま……? 怒って、いないの、ですか……? 私は、国を……」
「国などどうでもいい!!」
待合室の空気を震わせるほどの、悲痛な絶叫だった。
マリア・テレジアは、無残に短く刈り上げられた娘の白髪を震える手で撫でた。そして、その細い首筋にくっきりと残る、赤い切断痕を見つめ——ふっと息を呑んだ。
女帝の顔が、見る影もなく歪む。
彼女はその痛々しい赤い線に、自らの頬をすり寄せるようにして泣き崩れた。
「ああ、なんという酷いことを……。こんな細い首で……どれほど痛かったでしょう。どれほど怖かったでしょう。ごめんなさい、ごめんなさいね、アントニア……ッ!」
「お母、さま……」
「お前が死刑判決を受けた日も、あの荷車で引き回された時も……私はずっと、この世界の『出発ロビー』からお前を見ていました。後ろ手に縛られ、群衆に罵られるお前を前に、私は扉を叩いて叫ぶことしかできなかった……! 死んでしまった私には、その冷え切った手を、握ってやることすらできなかった!」
ヨーロッパ全土を震え上がらせた女帝の目から、大粒の涙が滝のようにこぼれ落ち、娘の粗末な木綿の肌着を濡らしていく。
「十四歳。あんなにも幼いお前を、平和という名目のために異国へ売り飛ばしたのはこの私です。お前が孤独に泣いているのを知りながら、手紙で小言ばかり言って、重圧をかけ続けたのも私です……! 私が、私がお前を殺したのだ……!」
「違います、お母様! そんなこと……」
「私は後悔で狂いそうだった。お前が苦しんでいるのに、神聖ローマ帝国の女帝である私には、祈ることしかできなかった。……アントニア。私を許しておくれ。王妃になど、ならなくてよかった。歴史になど、名を残さなくてよかった。お前はただ、私の腕の中で笑う、可愛い娘のままでいればよかったのに……ッ!」
それは、歴史の闇に消えた「王妃と女帝」の姿ではない。
時代という巨大な濁流に引き裂かれ、ようやく温もりを取り戻した、ただの不器用な「母と娘」の姿だった。
アントワネットは、母の胸の中でゆっくりと顔を上げた。
ずっと自分を縛り付けていた「王妃としての呪い」が、そして死の瞬間の「首の冷たさ」が、母の熱い涙によって溶けていくのを感じていた。
「……お母様。私、最期は取り乱したりしませんでした。フランス王妃として、ハプスブルクの娘として……堂々と、胸を張ってあの階段を上りました。……私、少しは、お母様の誇りになれましたか?」
マリア・テレジアは涙で顔をくしゃくしゃにしながら、娘の冷たい頬を両手で包み込み、何度も、何度も頷いた。
「ええ。ええ! 誰よりも気高く、美しかった。お前は私の、世界で一番の誇りです」
「……よかったぁ」
その瞬間、アントワネットの顔から、すべての苦悩と恐怖が抜け落ちた。
処刑のトラウマも、歴史の悪意も、もう彼女を縛ることはない。彼女はついに、大好きな母親の温もりの中で、一人の無邪気な少女に戻ったのだ。
私は無言で、箱ティッシュを二人の前にそっと置いた。
「……あー、すみません。感動の再会のところ申し訳ないんですが」
私はパンパンと手を叩いて、二人の間に割って入った。
「迷子センターは長居する場所じゃないんで。誤解も解けたようですし、未練もなくなったでしょう。そろそろ引き渡し手続き、いいですかね」
マリア・テレジアは立ち上がり、ドレスの埃を払うと、再び気高い女帝の顔に戻り……いや、少しだけ照れくさそうに笑って、私に軽く頭を下げた。
「ええ。世話をかけましたね、受付の青年。……さあ、行きましょう、アントニア。もう、誰もお前を傷つけはしない。これからはずっと、私と一緒ですよ」
母が優しく手を差し出し、娘がその手を取る。
私がタブレットの「引き渡し完了」ボタンをタップすると、ピロン、と心地よい電子音が鳴り、二人の足元から、あの世の奥へと続く真っ白な光の道が現れた。
二人は並んで、光の中へとゆっくりと歩き出していく。
「そういえばお母様。私、ずっとウィーンのお菓子が食べたかったの。あちらの世界に、美味しいクグロフはあるかしら?」
「ええ、もちろんありますよ。お前が好きなだ
け、いくらでも食べさせてあげますからね」
「ふふっ、嬉しい。……私、お腹ぺこぺこよ」
親子の温かい笑い声が響き、やがて二人の姿は完全に光の中へと溶けて消えた。
後に残されたのは、ほんのりと甘い、ミルクティーの香りだけだった。
「ふぅ……。フランス革命の裏側に、こんな悲しい母と娘の物語があったとはな。歴史学者も涙腺崩壊するぜ」
私が空になった紙コップとティーバッグをゴミ箱に捨て、大きく伸びをした、その時だった。
ピンポンパンポーン。
休む間もなく、無機質なチャイムが響き渡る。
それに続いて流れてきたアナウンスに、私は思わず持っていたモップを取り落としそうになった。
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦一九四八年、日本の東京、玉川上水からお越しの、津島修治くん——ペンネーム、太宰治くん。享年三十八歳。……繰り返します。太宰治くんをお預かりしております——』
「うわぁ……またとんでもなく面倒くさいのが来たぞ。今度は超絶メンヘラ文豪かよ」
私は深い絶望とともに、受付カウンターの奥から胃薬の瓶を探し始めた。
どうやら今日の冥界迷子センターも、定時退社は絶望的なようである。




