第2話 坂本龍馬くん
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦一八六七年、日本の京都、近江屋からお越しの、坂本龍馬くん。享年三十三歳。……繰り返します。坂本龍馬くんをお預かりしております。心当たりのある保護者の方は、至急、冥界迷子センター第一ターミナルまでお越しください』
ピンポンパンポーン。
蛍光灯がチカチカと瞬く無機質な待合室に、今日もまた、ひどく事務的で気の抜けた女性のアナウンスが響き渡る。
私、迷子センター受付係のナナシは、受付カウンターの中からその「迷子」の様子を淡々と窺っていた。
「まっこと、痛ぇがじゃ! えげつない斬り方しおってからに!」
黄色いプラスチック製のパイプ椅子の周りを、落ち着きなくウロウロと歩き回っているのは、ボサボサの縮れ毛に、泥と血で汚れた着物姿の男だった。
額からはツーッと血が流れており、本来なら即死レベルのパックリとした太刀傷が開いている。普通なら阿鼻叫喚の惨状だが、ここは死後の世界の待合室だ。多少の痛みはあるようだが、これ以上出血して倒れるようなことはない。私としては、床のリノリウムに血のシミがつかないかどうかのほうが重要である。
「あのー、龍馬くん。とりあえず座ったらどうですか? 血、拭きます?」
私が業務用ボックスから引き抜いたウェットティッシュと、ついでにお茶菓子として用意しておいた『カステラ』を差し出すと、龍馬は目を丸くしてパァッと顔を輝かせた。
「おっ! カステラじゃないか! こりゃあ美味そうぜよ!」
先ほどまでの痛がる素振りはどこへやら、龍馬は血まみれの手でカステラをひったくると、躊躇なくパクッと口に放り込んだ。
「んん〜、美味い!……いや、そうじゃなくて!」
カステラを飲み込んだ瞬間、再び現世への未練が蘇ったのか、龍馬はバンッとカウンターを叩いた。
「わしはまだ死ぬわけにはいかんがじゃ! 薩長同盟も結ばせて、大政奉還も終わって、さあこれから日本を真っ平らな新しい国にするって時やったがぜよ! わしは世界と貿易がしたかった! 蝦夷を開拓して、どデカい会社を創るんじゃ! まだまだやりたい事がいっぱいあったがやき!」
「はいはい、無念でしたねえ。お客様、大きな声を出すと傷口開きますよ」
「そもそも、なんでわしが斬られなきゃならんがじゃ! 風邪引いて頭痛かったき、中岡と火鉢囲んで軍鶏鍋食おうとしとっただけやぞ! 軍鶏肉買いに行かせた峰吉が帰ってくる前に、変な刺客がドカドカ踏み込んできおって! せめて鍋食ってからにしてほしかったぜよ!!」
文句のスケールが「日本の夜明け」から「軍鶏鍋」へと急降下している。どうやら、彼の一番の心残りは「やり残した大事業」と「食べ損ねた夕飯」が同じレイヤーでごちゃ混ぜになっているらしい。
享年三十三歳。若くして国を動かした英雄も、死の直前の混乱状態では、鍋を食べ損ねて駄々をこねる大きな子供のようだった。
ウィーン。
その時、センターの自動ドアが開き、ドスドスという力強い足音が響いた。
「お待たせしました!」
現れたのは、着物の袖をたすき掛けにし、薙刀を片手に持った大柄な女性だった。
身長は百七十センチを優に超えているだろう。その顔立ちは凛々《りり》しく、どこか龍馬に似ているが、まとっている覇気は完全に歴戦の武将のそれだった。
「おっ。お迎えが来ましたよ」
私がタブレットでデータベースを確認すると、そこには『坂本乙女』という名前があった。龍馬の実の姉であり、幼い頃の気弱だった彼に武芸や学問を叩き込んだ、最強の「姉貴」である。
「あ……」
その姿を見た瞬間、先ほどまで「日本の夜明けぜよ!」と威勢よく吠えていた龍馬が、ビクッと肩をすくめ、パイプ椅子の後ろにスススッと隠れた。
「りょうまァァァッ!!」
乙女は凄まじい剣幕でズンズンと歩み寄り、隠れようとした龍馬の襟首をガシッと掴んで引きずり出した。
「痛っ! 痛い痛い! 姉やん、首が締まるがじゃ!」
「この、バカたれがァッ!」
ゴツンッ!!!
冥界の待合室に、乙女の拳骨が龍馬の頭にクリーンヒットする鈍い音が響き渡った。
「あだァァァッ!! な、何するがじゃ姉やん! わしはもう斬られて死んどるのに、これ以上殺す気か!」
「死んでるから殴っておるんじゃ! おんし、昔っから油断しすぎなんじゃ! だから暗殺なんかされるんじゃろが! 何度『気をつけろ』と手紙で書いたと思うておる!」
「そ、そりゃあ……気をつけてはいたがじゃ……でも、風邪引いてて……」
「言い訳すな!」
怒涛の説教に、日本を揺るがした風雲児が、完全に借りてきた猫……いや、姉に叱られる小学生の男の子になっている。
私は、飛び散ったカステラの粉を台布巾で回収しながら、二人の前に温かい緑茶を二つ置いた。
「……まぁ、座りなさいな、姉やんも」
龍馬がしゅんとした声でパイプ椅子を勧めると、乙女は「ふんっ」と鼻を鳴らしてどっかりと腰を下ろした。
「……姉やん。わし、日本を洗濯したかったがじゃ。でも、途中で終わってしもうた。これから、日本はえらいこっちゃになる。わしがおらんくなったら、誰が……」
頭をさすりながら、龍馬がぽつりとこぼす。その声には、先ほどまでの威勢の良さはなく、ただ純粋な無念さと寂しさが滲んでいた。
「中途半端で、カッコ悪い死に方をしてしもうた。姉やんに、もっと立派になった姿を見せたかったぜよ……」
すると、乙女は大きくため息をつき、先ほど拳骨を落とした龍馬の頭を、今度は乱暴に、しかし優しく撫でた。
「……アホか、おんしは」
「えっ?」
「十分じゃ。十分すぎるほど、おんしは走った」
乙女の声が、少しだけ震えていた。
「土佐を脱藩した時、誰がここまでやるとおもうたか。薩摩と長州を手を組ませて、徳川の将軍様に政権を返させた。おんしは、誰も出来んかったことをやってのけたんじゃ。あの寝小便垂れの弱虫龍馬が、日本の歴史をひっくり返したんじゃぞ」
「姉やん……」
「あとは残ったもんがやる。おんしが撒いた種は、嫌でもこれから芽吹く。……三十三年、よう駆け抜けた。自慢の弟じゃ」
その言葉を聞いた瞬間、龍馬の大きな目から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「うぅ……姉やん……っ! わし、わし、頑張ったがじゃ! 刀じゃなくて、話し合いで……血を流さんように、いっぱい走ったがじゃ……っ!」
「おお、知っておる。ようやった。さあ、もう休め」
乙女がポンポンと龍馬の背中を叩く。
大の大人が、それも歴史に名を残した偉人が、姉の前で子供のように泣きじゃくっている。その姿はひどく滑稽で、だけど、とても尊いものに見えた。
やがて、ひとしきり泣いてスッキリしたのか、龍馬は着物の袖で乱暴に顔を拭うと、あの有名な肖像画と同じ、人懐っこい笑顔を浮かべた。
「……腹減ったなぁ。姉やん、向こうに行ったら、美味いもん食えるかの?」
「さあな。じゃが、おんしの大好きなカステラくらいはあるじゃろ」
私はカウンターの奥から「引き渡し完了」のボタンを押した。
ピロン。
心地よい電子音と共に、二人の足元からあの世へ続く真っ白な光の道が現れる。
「お世話になったの、兄ちゃん。カステラ、まっこと美味かったぜよ!」
龍馬が私に向かってニカッと笑い、手を振る。
「ええ。新しい国造り、お疲れ様でした。お気をつけて」
私がマニュアル通りに軽く頭を下げると、二人は並んで光の中へと歩き出していった。
「そういや姉やん、わしの奥さんのお龍は……」
「あの子はまだ現世で生きとるわ! おんしがフラフラするから、あの子も随分と苦労したんじゃぞ。向こうでたっぷり反省せい!」
「痛っ! また叩かんでええやんか!」
賑やかな姉弟の背中は、やがて光の奥へと溶けて消えた。
「ふぅ……。日本の夜明けか。私の定時はまだ先だけどな」
私が空になった紙コップとカステラの包み紙をゴミ箱に捨てた、その時だった。
ピンポンパンポーン。
休む間もなく、無機質なチャイムが響き渡る。
それに続いて流れてきたアナウンスに、私は思わずモップを握り直した。どうやら次は、国内線ではなく「国際線」からの迷子らしい。
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦一七九三年、フランスのパリ、革命広場からお越しの、マリー・アントワネットちゃん。享年三十七歳。……繰り返します。マリー・アントワネットちゃんをお預かりしております——』
「うわぁ、マジかよ……」
私は眉間を揉みほぐしながら、慌てて受付カウンターの奥からフランス語の通訳機と、とびきり上等な紅茶のティーバッグを探し始めた。
どうやら今日の冥界迷子センターも、無事に定時退社とはいかないようだ。




