第54話 ピカソくん
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦一九七三年、フランスのムージャンからお越しの、パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・フアン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・シプリアノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソくん。享年九十一歳。……繰り返します。ピカソくんをお預かりしております。心当たりのある保護者の方は、至急、冥界迷子センター第一ターミナルまでお越しください』
ピンポンパンポーン。
無機質で事務的な電子チャイムの音が、アナウンスのあまりの長さに息継ぎのノイズを混じらせながら、殺風景な待合室に響き渡った。
私、迷子センター受付係のナナシは、インカムの言語設定をスペイン語に切り替えながら、受付カウンターの奥からそっと顔を出した。
「違う! これでは一方向からしか物事を捉えられないではないか! この黄色いプラスチックの椅子、なぜ座面と脚と背もたれが別々の次元に展開されていないのだ! 私は同時にすべての角度を見たいのだァァッ!」
待合室のど真ん中でボーダー柄のシャツを着た、鋭い眼光と禿げ上がった頭を持つ小柄な老人が、幼児用のパイプ椅子をハンマーで叩き壊し、無理やり平面上に並べて『三次元の解体と再構築』を物理的に実行しようとしていた。
20世紀最大の天才画家にして、その作品だけでなく、私生活も名前の長さも規格外の男、パブロ・ピカソ。
「あ、あのー、ピカソさん! 備品の椅子をキュビスム化するのやめてもらえます!? ただの粗大ゴミになっちゃうんで! あと、アナウンスで名前を全部呼ばせるの、時間がかかって業務の支障になるんですけど!」
私が怒鳴ると、ピカソはハンマーを置き、血走った目を私に向けた。
「無礼な! パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・フアン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・シプリアノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソだ! 一文字たりとも省略することは許さん! この名前の長さこそが、私の多面的なアイデンティティと芸術の広がりを象徴しているのだ!」
「いや、ただ洗礼名とか親戚の名前を全部くっつけただけですよね!?」
彼が「私の名前をさらに長くするために改名の手続きを!」と喚いていた、その時だった。
ウィーン。
センターの自動ドアが開き、パタパタという草履の足音が響いた。
「——呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン! おいら並に名前が長い奴がいるって聞いて、あの世の落語長屋から飛んできたよ!」
そこに立っていたのは、西洋の画家でもパトロンでもなかった。
着物を着て、頭のてっぺんを綺麗に剃り上げた、絵に描いたような江戸の子供だった。
「な、なんだ貴様は! 私の絵のモチーフには合わない、平面的すぎる顔の子供だな!」
ピカソが胡散臭そうに睨みつけると、その子供は胸を張り、大きく息を吸い込んだ。
「おいらの名前か? よく聞けよ、南蛮のおっさん! おいらの名前は、寿限無、寿限無、五劫の擦り切れ、海砂利水魚の、水行末 雲来末 風来末、食う寝る処に住む処、やぶら小路のぶら小路、パイポパイポ パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの、長久命の長助だァァァッ!!」
「…………ッ!!」
ピカソの目が、限界まで見開かれた。
「な、なんだその呪文のような連なりの名前は! しかもそれぞれに深い意味と縁起物が込められているだと!? 私の単なる親族の名前の羅列とは次元が違う! 文字のキュビスムだ!」
「へへん! どうだ、おいらの名前の方が長くてありがたいだろ! パブロなんとかのおっさん!」
「おっさんではない! パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・フアン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・シプリアノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソだ!」
「長ぇよ! でもおいらの、寿限無、寿限無、五劫の擦り切れ、海砂利水魚の、水行末 雲来末 風来末、食う寝る処に住む処、やぶら小路のぶら小路、パイポパイポ パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの、長久命の長助には負けるね!」
「負けてたまるか! パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・フアン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・シプリアノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソだァァァッ!!」
待合室のど真ん中で、20世紀最高の天才画家と、江戸落語の架空の子供による、史上最悪の『フルネーム連呼ラップバトル』が勃発した。
「寿限無、寿限無、五劫の擦り切れ——」
「パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ——」
「海砂利水魚の、水行末 雲来末 風来末——」
「デ・パウラ・フアン・ネポムセーノ——」
「……あのー」
私は、インカムの電源を叩き切った。
「うるさーーーーーいッ!!! 二人とも名前が長すぎて、原稿の文字数が無駄に膨れ上がってるんですよ! 読者さんも読み飛ばしてますよ!!」
私がメガホンを投げつけると、二人はハッとして口を閉じた。
「……フッ。極東にこれほどの多面的な名前を持つ者がいたとはな。私の負けだ。君の名前は、私の『ゲルニカ』すらも凌駕する情報量を持っている」
「おっさんの方も、舌噛みそうな呪文でなかなかやるじゃねえか! あの世の長屋に来いよ、おいらの親父に紹介してやる!」
ピカソと寿限無。
芸術的変人と落語のキャラクターという絶対に出会うはずのない二人は、「名前が長すぎて日常に支障をきたしている」というニッチすぎる共通点で完全に意気投合し、ガッチリと握手を交わした。
私は無言で、タブレットの「引き渡し完了」ボタンを連打した。
ピロン、という電子音と共に、二人の足元に真っ白な光の道が現れる。
「さあ行こうか、ジュゲム! 君の名前をモチーフにした新作を、あの世のキャンバスに描き殴ってやる!」
「おう! いくぜ、パブロ・ディエゴ・ホセ……えーっと、ピカソのおっさん!」
互いのフルネームを早口で詠唱し合いながら、二人はやかましくも楽しげに光の道へと歩き出していく。
「受付の青年! 私の名前を省略した罪は許してやろう! 芸術は爆発だ!」
「それ岡本太郎のセリフです! 早く行ってください!」
私が怒鳴り声で見送ると、カオスな名前長すぎコンビは、高笑いを響かせながら光の中へと完全に溶けて消えていった。
「ふぅ……。結局、天才も架空のキャラも、似たようなアイデンティティを持った同志がいれば、あっという間に仲良くなれるってことだな」
私が、ピカソが破壊して平面に並べたパイプ椅子の残骸をゴミ袋に詰め込み、今度こそ本当に、絶対に、時間がキュビスム化しても定時で帰ると誓ってタイムカードを握りしめた——その時だった。
ピンポンパンポーン。
休む間もなく、無機質なチャイムが響き渡る。
それに続いて流れてきたアナウンスに、私はタイムカードを握り潰した。
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦一四七六年、ワラキア公国(現在のルーマニア)のブカレスト近郊からお越しの、ヴラド三世くん。通称、ヴラド・ツェペシュくん。享年四十五歳。……繰り返します。ヴラド・ドラキュラくんをお預かりしております——』
「……はぁ!? 今度はヴラド・ツェペシュ!? あの『串刺し公』にして、吸血鬼ドラキュラのモデルになった超絶ヤバい君主じゃないか!」
私は、慌ててルーマニア語の通訳機をセットし、彼が待合室のパイプ椅子を分解して串刺しの刑具を作り始めないよう、予備の椅子をすべてバックヤードに隠し始めた。
「祖国を守るためにオスマン帝国軍を二万人も串刺しにして森を作った、ガチの恐怖政治家だぞ!」
どうやら今日の冥界迷子センターも、私を平和な定時退社へと導いてくれる気は毛頭ないらしい。私は深い絶望と、首筋を噛まれる恐怖とともに、次なる「吸血鬼の元ネタになった狂人」を迎える覚悟を決めた。




