第55話 ヴラド三世くん
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦一四七六年、ワラキア公国のブカレスト近郊からお越しの、ヴラド三世くん。通称、ヴラド・ツェペシュくん。享年四十五歳。……繰り返します。ヴラド・ドラキュラくんをお預かりしております。心当たりのある保護者の方は、至急、冥界迷子センター第一ターミナルまでお越しください』
ピンポンパンポーン。
無機質で事務的な電子チャイムの音が、蛍光灯のチカチカと瞬く殺風景な待合室に響き渡った。
私、迷子センター受付係のナナシは、ルーマニア語の通訳機をインカムにセットしながら、待合室のパイプ椅子をすべてバックヤードに隠し終え、恐る恐るカウンターから顔を出した。
「……血など吸わん。私は、血など一滴も吸ったことはないのだァァァッ!!」
パイプ椅子を片付けられてしまったため、冷たいリノリウムの床の上に直接あぐらをかき、立派な口髭を蓄えた中世の君主が、頭を抱えて絶叫していた。
豪奢なマントに身を包み、その眼光は鷹のように鋭い。だが、その顔には深い疲労と、拭い去れない「風評被害」への絶望が色濃く刻まれていた。
祖国ワラキアを守るため、大国オスマン帝国の兵士二万人を串刺しにして森を作り、敵の戦意を完全にへし折った冷徹なる愛国者。そして、のちのアイルランドの作家ブラム・ストーカーによって、世界で最も有名な吸血鬼『ドラキュラ伯爵』のモデルにされてしまった男、ヴラド三世。
「あ、あのー、ヴラドさん。落ち着いてください。とりあえず、温かいトマトジュースでも飲みます? あ、血みたいで嫌ですかね? じゃあミネラルウォーターで……」
私が紙コップを差し出すと、ヴラド三世は血走った目で私をギロリと睨みつけた。
「トマトジュースだと!? 私をコウモリ野郎扱いする気か! 私はな、キリスト教の盾として、圧倒的な戦力差のあるオスマン帝国から祖国を死に物狂いで守り抜いた誇り高き君主だぞ! 串刺し刑は確かに残酷だったかもしれんが、あれは敵に恐怖を与えるための高度な心理戦だったのだ! 決して私が個人的な趣味で串刺しフェチだったわけではない!」
「はぁ、まあ、戦時のプロパガンダとしては大成功でしたよね。敵の皇帝もドン引きして帰っちゃったくらいですし」
「それなのに!」
ヴラド三世は、床をバンバンと叩きながら号泣し始めた。
「私が死んで四百年も経ってから! イギリスの小説家が勝手に私の名前を使って、血を吸うわ、十字架を怖がるわ、ニンニクの匂いで逃げ出すわという、ふざけたモンスター小説を書きやがったのだ! 私はニンニクたっぷりのルーマニア料理が大好きだったのに! なんで私が『夜しか出歩けないコミュ障の吸血鬼』として映画やアニメで消費されなきゃならんのだァァァッ!」
享年四十五歳。
ワラキアの英雄を縛り付ける未練。それは、戦で散った無念などではなく、「19世紀のゴシックホラー小説のせいで、自分のアイデンティティが完全な『化け物』に上書きされてしまった」という、特大の理不尽と風評被害への怒りだった。
彼が「ブラム・ストーカーの野郎をあの世で串刺しにしてやる!」と喚き散らしていた、その時だった。
ウィーン。
センターの自動ドアが開き、コツ、コツと、ひどく神経質そうな足音が響いた。
「——その苦しみ、痛いほどよく分かりますよ。偉大なるワラキア公」
そこに立っていたのは、18世紀末から19世紀初頭の、少し煤けた白衣のようなロングコートを羽織った、青白い顔の青年だった。
その目には、狂気的なまでの知性と、そしてヴラド三世と同じ「深い絶望」が宿っている。
「な、なんだ貴様は……!? ヴァンパイアハンターか!?」
ヴラド三世が警戒して後ずさると、青年は深くため息をつき、頭を振った。
「いいえ。私はヴィクター・フランケンシュタイン。……あの世のデータベースで『19世紀のイギリス怪奇小説によって、本来の姿を捻じ曲げられた風評被害者の会』の会長を務めている者です」
「フ、フランケンシュタインだと!?」
私がカウンターの奥から思わず身を乗り出した。
「ちょっと待って! それって、メアリー・シェリーが書いた小説の主人公じゃないですか! 死体をつなぎ合わせて怪物を作った、あの天才科学者!」
「その通りです、受付の青年!」
フランケンシュタイン博士は、突然スイッチが入ったように私の前に詰め寄り、白衣を振り乱して絶叫した。
「私は! 生命の神秘を解き明かし、人類の科学を何百年も進ませるはずだった天才科学者だ! それなのに、現世の連中ときたらどうだ! 私が作ったあの『名もなき怪物』のことを、こぞって『フランケンシュタイン』と呼びやがる! 私は作った側の人間だぞ! 首にボルトなんか刺さってないし、緑色の大男でもない! なんで私が『ウガァァ』しか言えないモンスターの名前として定着しているんだァァァッ!」
ヴィクター・フランケンシュタイン博士。
彼もまた、小説から一人歩きしたポップカルチャーのイメージによって、「モンスター=フランケンシュタイン」という決定的な勘違いを世界中に広められてしまった、最大の被害者であった。
「……お前も、イギリスの小説家の被害者なのか」
ヴラド三世が、床から立ち上がり、博士の肩にそっと手を置いた。
「そうです……! 私は科学者としての名誉を奪われ、あなたは救国の英雄としての誇りを奪われた。我々は、後世のエンタメ業界に人生を蹂躙された同志なのです!」
「おお……おおっ! 分かってくれるか、ヴィクターよ! 血を吸うだけのモンスター扱いされる私の気持ちが!」
「分かりますとも! 自分の名前が、ハロウィンの仮装で変な緑色のマスクとして売られているのを見た時の私の気持ちが、あなたなら分かるはずだ!」
ルーマニアの救国の英雄と、生命科学の天才。
本来なら絶対に出会うはずのない二人が、「ゴシックホラー小説による特大の風評被害」という一点において完全に意気投合し、待合室のど真ん中で肩を抱き合って男泣きを始めた。
「許せんな、ヴィクター! こうなったらあの世の裁判所に、ブラム・ストーカーとメアリー・シェリーを名誉毀損で訴え出てやろうではないか!」
「素晴らしいアイデアです、ヴラド公! 私の科学的な証拠と、あなたの圧倒的な統率力があれば、必ずや勝訴できるはずだ!」
私は無言で、彼らが結成した「被害者の会」の結束を温かく見守りながら、タブレットの「引き渡し完了」ボタンをタップした。
ピロン、という電子音と共に、二人の足元に真っ白な光の道が現れる。
「さあ、行きましょうか、ヴラド公! あの世の法廷で、我々の真のアイデンティティを取り戻すのです!」
「おう! 我々の真の恐ろしさを、ゴシップ作家どもに叩き込んでやろうぞ!」
吸血鬼のモデルと、怪物の生みの親。
世界中のホラー映画を支える二大巨頭は、全く怖くない、むしろ涙ぐましいほどの連帯感を滲ませながら、光の道へと意気揚々と歩き出していく。
「受付の青年! トマトジュースは遠慮したが、水は美味かったぞ! 次来る時は、ニンニク料理を用意しておいてくれ!」
「はいはい。あの世では、裁判の準備頑張ってくださいね」
私が深く会釈をすると、ホラーの呪縛から解放された二人の被害者は、熱い法廷闘争の作戦会議を響かせながら、光の中へと完全に溶けて消えていった。
「ふぅ……。結局、歴史に残るようなホラーアイコンも、中身は『自分の名前を正しく覚えてほしい』っていう、切実な承認欲求を抱えたおじさんたちってことだな」
私が、ヴラド三世が飲んだ紙コップをゴミ箱に捨て、隠していたパイプ椅子をバックヤードから元に戻し、今度こそ本当に、悪魔が来ても定時で帰ると誓ってタイムカードに手を伸ばした——その時だった。
ピンポンパンポーン。
休む間もなく、無機質なチャイムが響き渡る。
それに続いて流れてきたアナウンスに、私はタイムカードを壁に投げつけた。
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦一九一八年、ロシアのエカテリンブルクからお越しの、アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァちゃん。享年十七歳。……繰り返します。アナスタシアちゃんをお預かりしております——』
「……十七歳。今度は……ロシア帝国最後の皇帝の、第四皇女じゃないか」
どうやら今日の冥界迷子センターも、私を平和な定時退社へと導いてくれる気は毛頭ないらしい。私は深い絶望よりも遥かに強い、歴史の残酷な波に飲み込まれた少女の魂を受け止める覚悟を胸に抱き、次なる「最も有名な悲劇のプリンセス」を迎える準備を始めた。




