第52話 コペルニクスくん
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦一五四三年、ポーランドのフロムボルクからお越しの、ニコラウス・コペルニクスくん。享年七十歳。……繰り返します。コペルニクスくんをお預かりしております。心当たりのある保護者の方は、至急、冥界迷子センター第一ターミナルまでお越しください』
ピンポンパンポーン。
無機質で事務的な電子チャイムの音が、蛍光灯のチカチカと瞬く殺風景な待合室に響き渡った。
私、迷子センター受付係のナナシは、インカムの言語設定を「ラテン語」に切り替えながら、受付カウンターの奥から慌てて飛び出した。
「ビリリッ! クチャ、ムシャムシャ……ッ! ダメだ、やはりこんな本は燃やしてしまわねば! いや、燃えカスから復元されるかもしれない、私が食べて証拠隠滅を……ウグッ、紙が喉に詰まる……!」
パイプ椅子の上で分厚い僧侶のローブを着込んだ初老の男が、一冊の真新しい、そしてとてつもなく分厚い書物のページを必死に引きちぎり、自分の口の中にねじ込んで咀嚼しようとしていた。
中世の天動説を根底からひっくり返し、人類の歴史上最も偉大なパラダイムシフト地動説を提唱した天文学者、ニコラウス・コペルニクス。
「ちょっ、ストップストップ! 何やってんですかコペルニクスさん! 歴史的偉業の書物『天球の回転について』をヤギみたいに食べないで!」
私が慌てて紙の束を口から引っ張り出そうとすると、コペルニクスは涙とよだれでぐしゃぐしゃになった顔を私に向けた。
「放してくれ! 私は……私は取り返しのつかないことをしてしまったのだ! 『地球が太陽の周りを回っている』だなんて、そんな神に喧嘩を売るような異端の説を本にして出版してしまった! ああ、ローマ教皇庁の異端審問官がやってくる! 私の墓は暴かれ、骨は火あぶりにされ、魂は永遠に地獄の業火で焼かれるのだァァァッ!」
「いや、あなたもう死んであの世に来てるんだから、教会の火あぶりなんか関係ないでしょうに」
「関係ある! 私は怖いのだ! ずっと、ずっと怖かったのだ!」
コペルニクスは、残った本を抱きしめるようにして、パイプ椅子の上でガタガタと震え始めた。
「私は、計算で宇宙の真理に気づいてしまった。だが、それを発表すれば教会から絶対に殺される。だから三十年以上も机の引き出しに隠して、死ぬ直前になってようやく出版の許可を出したのだ。……私は、真理よりも自分の命を惜しんだ、ただの卑怯者だ……! こんな本、やはり世に出すべきではなかったのだ……っ!」
享年七十歳。
天文学の巨星を縛り付ける未練。それは、世紀の大発見の喜びなどではなく、「真理を語る恐怖に屈し、死の間際まで逃げ続けた自分への激しい自己嫌悪」だった。
彼が「やはりこの本は私が全部食べる!」と再びページを破り始めた、その時だった。
ウィーン。
センターの自動ドアが開き、竹簡がカチャリ、カチャリと擦れ合う、重々しい音が響いた。
「——真理の重さから逃げ出さなかったのだ。己を卑怯者と蔑む必要がどこにあろうか」
深く、そしてとてつもない『覚悟』を宿した、威厳に満ちた声だった。
そこに立っていたのは、西洋の天文学者たちでも、教会の関係者でもなかった。
古代中国のゆったりとした官服に身を包み、その両腕に抱えきれないほどの大量の竹簡と木簡を抱えた、静かな瞳の男だった。
「な、なんだ貴様は……!? 東洋の異教徒か!?」
コペルニクスが怯えて身をすくめると、私は手元のタブレットを見て、思わず「えっ!?」と声を上げた。
「し、司馬遷……!? 古代中国の前漢の時代に、中国最高の歴史書『史記』を書き上げた、あの偉大なる歴史家ですか!?」
「いかにも。あの世のデータベースが、この怯える天文学者を導くのに最も適しているのは、私だと判断したようでな」
司馬遷は、抱えていた『史記』の竹簡をドサリと受付カウンターの上に置き、コペルニクスの前にゆっくりと歩み寄った。
「こ、来ないでくれ! 東洋の歴史家が、宇宙の真理を恐れる私の気持ちなど分かるものか! 時の権力者に逆らうということが、どれほどの恐怖か……!」
「分かるさ」
司馬遷は、静かに、だが岩のように揺るぎない声で言い放った。
「権力者に逆らい、真実を書き残すことの恐怖。その絶望の底を、私は誰よりも知っている」
司馬遷は、ふっと自らの官服の裾を握りしめ、遠い過去を思い出すように目を伏せた。
「私は、友、李陵の無実を皇帝に訴えただけで、皇帝の逆鱗に触れ、死刑か、さもなくば『去勢の刑』という、男として最大の屈辱を受ける二択を迫られた。当時の常識であれば、名誉のために潔く死を選ぶのが立派な男の道であった」
「きょ、去勢……」
コペルニクスが、そのあまりにも生々しい恐怖に息を呑んだ。
「だが、私は生きた。皇帝に土下座し、世間の者から『男の恥を晒してまで生き延びた宦官』と後ろ指を指され、嘲笑われながらも、泥水をすする思いで生き恥を晒したのだ。……すべては、父から受け継いだこの『史記』を、世界の真実を書き残し、後世に伝えるためだけにな」
司馬遷の言葉には、想像を絶する血の涙と、筆を握り続けた者の壮絶な『執念』が宿っていた。
「ニコラウス・コペルニクスよ。お前は、教会に殺されるのが怖かったのだろう。三十年も本を隠し持ち、死の間際まで怯え続けたのだろう」
「あ、ああ……。私は、あなたのように権力に立ち向かう勇気すらなかったのだ……」
「だが」
司馬遷は、コペルニクスが口に入れようとしていた、よだれまみれの『天球の回転について』のページを、優しく、傷つけないように取り上げた。
「お前は、この本を燃やさなかった。恐れおののきながらも、最後の最後に、これをこの世に遺した。……真理を記した書物を後世に託す。それこそが、我々『記録者』の最大の戦いであり、最高の勝利ではないか」
「私の……勝利……?」
「そうだ。お前がどれほど震えていようと、どれほど泣き叫んでいようと関係ない。お前が遺したその『真理』は、やがて教会の権威を打ち砕き、人類の目を宇宙の果てへと開かせたのだ。……よくやった。お前は立派な、真理の記録者だ」
肉体と尊厳を奪われてもなお歴史を書き上げた東洋の巨人と、恐怖に怯えながらも宇宙の真理を遺した西洋の巨人。
司馬遷の深く温かい肯定の言葉に、コペルニクスの目から、恐怖ではなく、安堵の涙が堰を切ったように溢れ出した。
「ああ……っ! おおおっ……! 地球は……地球は動いているのだ! 私が計算した通りに、美しく、太陽の周りを回っているのだ……ッ!」
コペルニクスは、残された本を胸に抱きしめ、子供のように声を上げて泣き崩れた。彼を縛っていた教会の恐怖は、古代の歴史家が示した「真理を遺した誇り」によって、完全に打ち砕かれたのだ。
私は無言で、コペルニクスが吐き出した紙くずをホウキで片付けながら、タブレットの「引き渡し完了」ボタンをタップした。
ピロン、という電子音と共に、二人の足元に真っ白な光の道が現れる。
「さあ、行きましょうか、天文学者殿。あの世の書庫で、あなたの記した星々の歴史と、私の記した人間の歴史を、心ゆくまで語り合おうではないか」
「はいっ……! 喜んで、司馬遷先生!」
洋の東西を超え、「真実を記録する」という重すぎる業を背負った二人の学者は、互いの書物を抱えながら、晴れやかな顔で光の道へと歩き出していく。
「受付の青年! 私の本を食べなくてよかった! 宇宙の真理は、本当に美しいぞ!」
「ええ。向こうの世界では、異端審問官もいませんから、心置きなく星を眺めてくださいね」
私が深く会釈をすると、人類の視点を変えた大天才と、歴史の記録者は、楽しげな学術談義を響かせながら光の中へと完全に溶けて消えていった。
「ふぅ……。結局、権力の恐怖より、自分の見つけた『真理』を愛するオタクの執念の方が強いってことだな」
私が、カウンターに散らばったよだれまみれの紙くずをゴミ箱に捨て、今度こそ本当に、絶対に、天動説が復活しても定時で帰ると誓ってタイムカードを握りしめた——その時だった。
ピンポンパンポーン。
休む間もなく、無機質なチャイムが響き渡る。
それに続いて流れてきたアナウンスに、私はタイムカードを握り潰した。
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦一八八八年、イギリスのロンドン、ホワイトチャペルからお越しの……お名前不明。享年不明。……繰り返します。未だ正体不明の連続殺人鬼、ジャック・ザ・リッパーくんをお預かりしております——』
「……はぁ!? 今度はジャック・ザ・リッパー!? あの『切り裂きジャック』かよ!」
私は、慌てて英語の通訳機をセットし、彼が待合室でナイフを振り回し始めた時のために、防刃チョッキとさすまたを探し始めた。
「ちょっと待て、正体不明って、どうやって処理すればいいんだよ! 顔も名前も分からない猟奇殺人鬼が、一体どんな未練を抱えてこの迷子センターに来るって言うんだ! というか物騒すぎるだろ!」
どうやら今日の冥界迷子センターも、私を平和な定時退社へと導いてくれる気は毛頭ないらしい。私は深い絶望と、かつてない身の危険への恐怖とともに、次なる「世界一有名な正体不明の犯罪者」を迎える覚悟を決めた。




