第51話 葛飾北斎くん
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦一八四九年、日本の江戸からお越しの、葛飾北斎くん。享年九十歳。……繰り返します。葛飾北斎くんをお預かりしております。心当たりのある保護者の方は、至急、冥界迷子センター第一ターミナルまでお越しください』
ピンポンパンポーン。
無機質で事務的な電子チャイムの音が、蛍光灯のチカチカと瞬く殺風景な待合室に響き渡った。
私、迷子センター受付係のナナシは、インカムの言語設定を「江戸時代の日本語」に切り替えながら、バインダーを盾にして受付カウンターからそっと顔を出した。
「違う! これじゃねぇ! 波のしぶきが、風の動きがまだ描けねぇ! 鳥が羽ばたくその一瞬の『止まった姿』が、ワシの目じゃ追いきれねぇんだ! クソッ、もっとだ! もっと生きた線を引かせろォォッ!」
床一面に、大量の和紙と筆、そして墨汁が散乱していた。
ヨレヨレの汚い着物を羽織り、髪はボサボサ。部屋を片付けるという概念を完全に親の腹の中に置いてきたような不潔な老人が、ものすごい形相で画用紙に筆を走らせては、「気に入らねぇ!」とクシャクシャに丸めて放り投げている。
生涯に九十三回も引っ越しを繰り返し、名前を三十回も変え、ただひたすらに「森羅万象」を描くことだけに取り憑かれた、日本美術史における最高にして最強の変人絵師、葛飾北斎。
「あ、あのー、北斎さん! 待合室の壁にタコの絵を描くのやめてもらえます!? それに床に墨汁こぼしすぎ!」
私が怒鳴ると、北斎は血走った目をギロリと私に向けた。
「うるせぇ! 画工が絵を描いて何が悪い! ここはあの世の待合室だか何だか知らねぇが、ワシはまだ死ぬわけにはいかねぇんだ! 天の神様よぉ、あと十年……いや、せめてあと五年寿命をくれりゃあ、ワシは本当の『絵描き』になれたのによぉォォッ!」
九十歳という、当時としてはあり得ないほどの大往生を遂げたはずの男の未練。
それは、「九十年間描き続けても、肉体の限界により、まだ自分の絵に満足できていない」という、果てしなく底なしの創作意欲と特大の執念だった。
彼が「こうなったら閻魔の顔でもスケッチしてやる!」と墨汁をぶちまけようとした、その時だった。
フォォォォォォンッ……!!
センターの自動ドアが開き、鼓膜を震わせるような甲高いエンジン音の幻聴と共に、一陣の熱い風が待合室に吹き込んだ。
「——信じられない。これはまさに、僕が『神の領域』で見た景色そのものだ」
待合室に飛び込んできたのは、黄色に緑のラインが入った奇妙なヘルメットを小脇に抱え、真っ赤なレーシングスーツに身を包んだ、鋭い眼光の西洋人だった。
その男は、床一面に散らばった北斎の描き損じの『波』の絵を見るなり、地面に這いつくばって、まるで奇跡に触れるかのように震える手でそれを拾い上げた。
「あのモナコの雨の中、時速三百キロでコーナーに突っ込んだ時……僕のバイザーにぶつかって弾け飛ぶ雨粒は、完全に空間で静止して見えた。あなたの描くこの波のしぶきは、あの極限状態の『静止した時間』を、完璧に紙の上に定着させている!」
その顔には見覚えがあった。
音速の世界で神懸かり的なドライビングテクニックを誇り、「音速の貴公子」と呼ばれたF1の伝説的ワールドチャンピオン、アイルトン・セナである。
「なんだオメェは? ピチピチの赤い南蛮服を着て、奇妙なカブトを持ちやがって。ワシのゴミに触るんじゃねぇ、邪魔だ退け!」
北斎が鬱陶しそうに筆を振るうが、セナは全く気にする様子もなく、ズンズンと北斎の前に歩み寄った。
「マスター・ホクサイ! 僕はアイルトン。最速を追い求めるレーサーです! あなたの絵は素晴らしい。人間の目が捉えられないはずの一瞬を、なぜあなたは描けるのですか!?」
「ケッ。ワシの頭の中に焼き付いてる残像を絞り出して描いてるだけだ! だがな、年を取って目がかすんできやがった! 本当の波のしぶきが弾ける瞬間、鳥が羽を裏返す瞬間……もっと速いモノの『止まった姿』が見てぇのによぉ!」
北斎が悔しげに画用紙を握りつぶすと、セナは大きく目を見開き、そして深く頷いた。
「……なるほど。あなたの究極の芸術には、『究極の目』が足りないのですね」
「目、だと?」
「ええ」
セナは、自らの両目を指差した。
「僕の目は、時速三百キロを超える世界で、飛んでくる小石の模様すら見切ることができます。極限の集中状態に入れば、周囲の景色はスローモーションになり、雨粒一つ一つの軌道がハッキリと見える。僕のこの『動体視力』は、神が与えてくれたものです」
「じ、時速三百……なんだかよく分からねぇが、オメェ、波が砕けるその一瞬の水の粒が、止まって見えるっていうのか!?」
北斎が、パイプ椅子から転げ落ちる勢いで身を乗り出した。
「見えます。風が空気を切り裂く形すらも」
「ス、スゲェェェェッ!!」
江戸の老絵師は、音速の貴公子の前で完全に興奮状態に陥った。
「おい南蛮人! オメェのその目、ワシに貸せ! オメェが見た限界の景色を、オメェの口でワシに一分一秒の狂いもなく説明しろ! ワシの筆で、それを完璧に紙の上に写し取ってやる!」
「素晴らしい提案だ! 僕が音速で切り裂いた世界を、あなたが永遠の芸術として残してくれるのですね! 最高のピットインだ!」
「そうだ! オメェはワシの最高級の『カラクリ望遠鏡』だ! フハハハハッ、これであと十年生きなくても、究極の絵が描けるぞ!!」
私は無言で、壁に描かれた巨大なタコの絵を除光液で消す算段をしながら、タブレットの「引き渡し完了」ボタンをタップした。
ピロン、という電子音と共に、二人の足元に真っ白な光の道が現れる。
「さあ行きましょう、マスター・ホクサイ! あの世には、僕のF1マシンが最高のチューニングで待っています! 助手席に乗って、究極のGとスピードを体感してください!」
「おう! 振り落とすんじゃねぇぞ! ワシの真の傑作は、これから始まるんじゃ!」
絵画狂いと、音速の貴公子。
彼らは国境も時代もジャンルも超え、「極限の一瞬を捉える」という固い絆で結ばれ、やかましくも楽しげに光の道へと歩き出していった。
「受付の兄ちゃん! 壁のタコ、消すんじゃねぇぞ! 百年後には国宝になるからな!」
「なりません! 器物損壊です! 早く行ってください!」
私が怒鳴り声で見送ると、二人の狂気的な天才は高笑いとエンジン音の幻聴を響かせながら、光の中へと完全に溶けて消えていった。
「ふぅ……。どんなに未練タラタラでも、『究極の動体視力』と『無限に創作できる環境』があれば、クリエイターの魂は簡単に救われるってことだな」
私が、北斎が散らかした墨汁の海をモップで必死に拭き掃除し、今日こそは本当に、絶対に定時で帰ると誓ってタイムカードを手に取った——その時だった。
ピンポンパンポーン。
休む間もなく、無機質なチャイムが響き渡る。
それに続いて流れてきたアナウンスに、私はタイムカードを真っ二つに叩き割った。
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦一五四三年、ポーランドのフロムボルクからお越しの、ニコラウス・コペルニクスくん。享年七十歳。……繰り返します。コペルニクスくんをお預かりしております——』
「……はぁ!? 今度はコペルニクス!? 『地動説』を唱えて、人類の宇宙観を根底からひっくり返した天文学の超絶大物じゃないか!」
私は、慌ててラテン語の通訳機をセットし、彼が待合室のデスクやパイプ椅子を太陽系に見立てて大掛かりな軌道シミュレーションを始めないよう、備品を壁際に寄せ始めた。
「異端審問にビビりすぎて、死ぬ直前まで自分の本を出版できなかった筋金入りのチキンな天才だぞ! 絶対に『ああっ、やっぱり私の本は回収してくれ! 教会に火あぶりにされる! でも地球は動いているんだァァ!』っていう、大発見と保身の狭間でパニックを起こすに決まってる……!」
どうやら今日の冥界迷子センターも、私を平和な定時退社へと導いてくれる気は毛頭ないらしい。私は深い絶望と、天動説のようなどっしりとした胃痛とともに、次なる「宇宙の真理に気づいてしまった小心者」を迎える覚悟を決めた。




