第50話 ディオゲネスくん
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。紀元前三二三年頃、古代ギリシャのコリントス、あるいはアテナイの樽の中からお越しの、ディオゲネスくん。享年八十九歳。……繰り返します。樽に住んでるディオゲネスくんをお預かりしております。心当たりのある保護者の方は、至急、冥界迷子センター第一ターミナルまでお越しください』
ピンポンパンポーン。
無機質で事務的な電子チャイムの音が、蛍光灯のチカチカと瞬く殺風景な待合室に響き渡った。
私、迷子センター受付係のナナシは、インカムの言語設定を「古代ギリシャ語」に切り替えながら、受付カウンターからそっと顔を出した。
「眩しい! なんだこの人工的な光は! 私を照らしていいのは太陽の光だけだ! それにこの黄色いプラスチックの椅子! 人間を堕落させるような贅沢な座り心地だ! 撤去しろ!」
待合室のど真ん中で。
ボロボロの粗末な布切れ一枚を身にまとい、髪もヒゲも伸び放題の汚らしい老人が、どこから持ち込んだのか、自分の背丈ほどもある「巨大な木樽」の中から顔を出し、わめき散らしていた。
犬儒派の祖にして、家も財産もすべて捨てて路上で生活し、あの世界帝国を築いたアレクサンドロス大王に向かって「そこをどけ、日差しが遮られるから」と言い放ったという、古代ギリシャ最強のホームレス哲学者、ディオゲネス。
「あのー、ディオゲネスさん。ここはあの世の待合室なんで、不法占拠目的で樽を置くのはやめてもらえます? 邪魔なんで。とりあえず、喉も渇いたでしょうし、冷たいお水でも……」
私が紙コップにミネラルウォーターを注いで差し出すと、彼は樽の中から身を乗り出し、私の手から紙コップをひったくった。
「こんな贅沢な器など不要だ!」
グシャッ!
ディオゲネスは、まだ水が入っている紙コップを容赦なく握り潰し、床に水をぶちまけた。そして、自分の両手をすくうように合わせて水たまりの水を飲もうとする素振りを見せた。
「ちょっと! 何やってんですか! 床がビショビショじゃないですか!」
「フン! 子供が両手で水をすくって飲んでいるのを見て、私は悟ったのだ。器などというものは、人間の虚栄心が生み出した無駄な荷物だと! 私はこの身一つで生きる『犬』なのだ! ワンッ!!」
本当に犬のように吠え始めた。
享年八十九歳。すべてを捨て、自然のままに生きた彼が、なぜこの冥界で迷子になっているのか。
「私はな、昼間でもランタンを灯してアテナイの街を歩き回っていたのだ! 『本当に正直な人間』を探してな! だが、現世には嘘つきと偽善者しかいなかった。ならば死後の世界には正直な魂がいるかと思って来てみれば、どうだ!」
ディオゲネスは、霊体でできたボロボロのランタンを掲げ、待合室を照らすように振り回した。
「天下を失って泣き叫ぶ王! 本が売れないと嘆く作家! お金が欲しいと喚く商人! どいつもこいつも、くだらない現世の飾りに執着した愚か者ばかりではないか! このあの世にも、私のランタンで照らすべき『真理に生きる人間』など存在しないのだ!」
彼を縛り付けている未練。それは、死後もなお「自分を納得させるほどの究極の哲学者(正直者)がどこにもいない」という、ある種の絶望と孤独だった。
彼が「こんなあの世のシステムも、ただの虚飾だ! 私は永遠にこの樽に引きこもる!」と宣言した、その時だった。
ウィーン。
センターの自動ドアが開き、パタパタという、どこか気の抜けた、そしてとてつもなく『疲弊しきった』草履の足音が響いた。
「——あー、受付のお兄さん。また僕ですか? もう勘弁してくださいよ……」
ヨレヨレの布をまとい、首から「草むしり用エプロン」を下げたハゲ頭の老人が、死んだ魚の目で入ってきた。
「あ、ソクラテスさん。お疲れ様です」
「お疲れ様じゃないですよ。クサンティッペに『雑草のイデアについて議論する暇があったら手を動かせ』と怒られて冷水ぶっかけられて逃げてきたのに……。だいたい、プラトンくんにジャーマンスープレックスを決められた首の痛みも癒えていないし、さっきニーチェくんを事実陳列罪で泣かせてオンラインサロンに放り込んだばかりで、僕のメンタルも限界なんですよ。なんで僕が『ギリシャ哲学問題児ホイホイ』みたいになってるんですか」
西洋哲学の祖にして、もはや冥界迷子センターの『厄介者処理の外部委託スタッフ』と化しているソクラテスが、深々とため息をついた。
「ソ……ソクラテスッ!!」
ディオゲネスが、樽から勢いよく這い出してきた。
「おお! あなたがソクラテスか! プラトンの野郎から話は聞いている! 『無知の知』! 素晴らしい! 自分の無知を認めることこそが、唯一の正直さだ! さあ、私と議論をしようではないか!」
ディオゲネスがランタンを掲げて大興奮で詰め寄るが、ソクラテスはジト目で彼を一瞥した。
「……あの。プラトンくんが君のことを『狂ったソクラテス』って呼んでたらしいですけど。僕、君みたいに不潔じゃないし、路上で排泄とかしないんで、一緒にしないでくれます?」
「フハハハ! 人間が自然の欲求に従って何が悪い! 隠すことこそが偽善だ!」
「あー、出た。そういう極論」
ソクラテスは、やれやれと首を横に振った。
「ロジカルに考えましょうよ。君は『社会のルールや富は無意味だ』って言って路上生活をしてたわけですよね。でも、君が食べてたそのパン、どこから手に入れたんですか?」
「ん? アテナイの市民が私に恵んでくれたものだ!」
「ですよね。君は社会を否定しながら、その社会の余剰生産物に依存して生きてたんですよ。それって、ただの『寄生虫』じゃないですか?」
ソクラテスの容赦ない『論破王』のロジックが、ディオゲネスに牙を剥いた。
「君がアレクサンドロス大王に『日差しを遮るな』って言ったのも、ただの逆張りパフォーマンスですよね。本気で社会と関わりたくないなら、誰もいない山奥で自給自足すればいいのに、わざわざ人通りの多い広場に樽を置いて住んでた。つまり君は、『社会を批判する自分』を見てもらいたかっただけの、ただの『承認欲求モンスター』なんじゃないですか。はい、答えて」
ニーチェを完全に破壊した、冷徹な事実確認の連続コンボ。
普通なら、ここで顔を真っ赤にしてキレるか、泣き崩れるかである。
しかし。
「……フッ。ウハハハハハッ!!」
ディオゲネスは、腹を抱えて大爆笑し始めた。
「その通りだ!! 私は承認欲求の塊のパラサイトだ! だが、それがどうした!?」
「……え?」
ソクラテスが、初めて虚を突かれた顔をした。
「犬はな、餌をくれる者には尻尾を振り、くれない者には吠えつき、悪党には噛みつく! 私はアテナイの広場で、吠えて、噛みついて、その対価としてパンをもらっていたのだ! それは立派な『労働』であり『自然の摂理』だ! お前のように、理屈をこねくり回して若者を惑わし、裁判で毒人参を飲まされたインテリの詭弁など、私のこの薄汚れた身体一つが体現する『現実』の前には無力だァァッ!」
ディオゲネスは、ソクラテスの目の前で、突然「ワンッ! ワンッ!」と四つん這いになって吠え、ソクラテスのヨレヨレの布に思い切り噛みつこうとした。
「うわっ!? ちょっと、汚い! やめて! 狂犬病の注射打ってます!?」
ソクラテスが慌てて逃げ回る。
「ハハハ! どうだ、これが真理だ! 定義もエビデンスもクソくらえだ! 私は生きている! 腹が減り、排泄し、眠る! それが全てだ!」
私はカウンターの奥で、ぼんやりとその光景を見つめていた。
ソクラテスの『ロジック』が、ディオゲネスの『物理と本能』の前に、機能不全を起こしているのだ。
(……ああ、そうか)
ソクラテスは、走り回りながらハッと気づいたような顔をした。
冷水をぶっかけてくる妻クサンティッペ。
ジャーマンスープレックスを仕掛けてきた弟子プラトン。
「……結局、理屈は『恥を捨てた物理行動』には絶対に勝てないってことですか……。あんた、ある意味で最強の哲学者ですよ……」
ソクラテスは、肩で息をしながら、白旗を上げるように両手を挙げた。
「ディオゲネスくん。君の勝ちだ。君のその清々しいほどの厚顔無恥さは、もはや一種の真理だよ」
「フハハハ! そうだろう! だが、私を論破しようとしたお前のその目、ランタンの光を当てるに値する『正直さ』があったぞ! お前は自分の負けを素直に認めたからな!」
ディオゲネスは満足げに立ち上がり、ランタンの火をフッと吹き消した。
「あの世にも、少しは面白い奴がいるようだな。よし、案内しろソクラテス! アレクサンドロス大王の霊がいるなら、今度はあの世の広場でアイツの悪口を言ってパンをもらってやる!」
「パンなんかないですよ。でも、ニーチェくんが泣いてるから、隣で犬の真似して吠えてあげたらどうですか。もっと泣くと思いますけど」
「素晴らしい! それは極上のエンターテインメントだ!」
私は無言で、床にこぼれた水をモップで拭きながら、タブレットの「引き渡し完了」ボタンをタップした。
ピロン、という電子音と共に、二人の足元に真っ白な光の道が現れる。
「ほら、ディオゲネスくん、その巨大な樽、邪魔だから置いていってくださいね」
「バカを言え! これは私のマイホームだ! あの世の駅前に設置するのだ!」
ディオゲネスは、巨大な木樽をゴロゴロと転がしながら、ソクラテスと共に光の道へと歩き出していく。
「受付の青年! 次はもっと美味いミネラルウォーターを用意しておくことだな! ワンッ!」
「はいはい。あの世ではあんまり他人に噛みつかないでくださいね」
私が軽く手を振ると、古代ギリシャの論破王と最強のホームレスの背中は、騒がしい言い争いの声と共に、光の中へと完全に溶けて消えていった。
「ふぅ……。結局、哲学の行き着く先は『どうやっても恥を捨てた奴には勝てない』っていう、身も蓋もない現実ってことだな」
私が、ディオゲネスが残していった泥の足跡をコロコロで掃除し、今度こそ本当に、宇宙の法則が乱れても定時で帰ると誓ってタイムカードを手に取った——その時だった。
ピンポンパンポーン。
休む間もなく、無機質なチャイムが響き渡る。
それに続いて流れてきたアナウンスに、私はタイムカードを握り潰した。
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦一八四九年、日本の江戸からお越しの、葛飾北斎くん。享年九十歳。……繰り返します。葛飾北斎くんをお預かりしております——』
「……はぁ!? 今度は葛飾北斎!? あの『富嶽三十六景』を描いた、日本美術史における世界最強の変人絵師じゃないか!」
私は、慌てて日本語の通訳機をセットし、彼が待合室の壁をキャンバス代わりにして巨大な富士山やタコを描き始めないよう、大量の画用紙と墨汁を探し始めた。
「生涯に九十三回も引っ越しして、名前を三十回も変えた超絶奇人だぞ! 九十歳で死ぬ間際に『あと五年、いやあと十年寿命があれば本当の絵描きになれたのに!』って泣いたっていう、特大の未練と創作意欲のバケモノじゃないか……!」
どうやら今日の冥界迷子センターも、私を平和な定時退社へと導いてくれる気は毛頭ないらしい。私は深い絶望とともに、次なる「絵を描くこと以外すべてを捨てた狂気の老人」を迎える覚悟を決めた。




