第49話 ヤマトタケルくん
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦不明、景行天皇の御代、能褒野からお越しの、日本武尊くん。享年三十歳(推定)。……繰り返します。ヤマトタケルくんをお預かりしております。心当たりのある保護者の方は、至急、冥界迷子センター第一ターミナルまでお越しください』
ピンポンパンポーン。
無機質で事務的な電子チャイムの音が、蛍光灯のチカチカと瞬く殺風景な待合室に響き渡った。
私、迷子センター受付係のナナシは、インカムの言語設定を「上代日本語」に切り替え、彼が白鳥に変身して暴れ回った時のために、巨大な虫取り網とコロコロを構えてカウンターからそっと顔を出した。
「……ブラックだ。いくらなんでも、うちの親父はブラックすぎるだろ……」
幼児用の黄色いプラスチック製パイプ椅子の上で。
古代のゆったりとした衣服をまとい、髪を耳の横で束ねる古代の髪型に、筋骨隆々の若者が、両手で顔を覆ってブツブツと文句を吐いていた。
その体は無数の傷跡に覆われ、衣服はボロボロに引き裂かれ、泥と血にまみれている。
日本神話において数々の武勇伝を残しながらも、最後は力尽きて白鳥となった悲劇の英雄、ヤマトタケル。
「あのー、タケルさん。とりあえず白鳥になって羽を撒き散らすのはやめてくださいね、掃除が大変なんで。温かいお茶でも飲みます?」
私が紙コップを差し出すと、彼は血走った目で私をギロリと睨みつけた。
「茶など飲んでいられるか! 聞いてくれよ受付の! 俺はな、西の熊曽建を討伐しろって言われて、女装までして敵の宴会に潜り込んで暗殺を成功させたんだぞ! 思春期の男にとってどれだけトラウマになる任務か分かるか!? なのに、大和に帰って一息つく間もなく、親父は『次は東の国を平定してこい』って言いやがったんだ!」
「あー、典型的な『優秀な部下に仕事を全振りするダメ上司』のパターンですね。おまけに軍勢もくれなかったとか」
「そうなんだよ!!」
タケルはパイプ椅子から立ち上がり、バンバンと床を叩きながら号泣し始めた。
「『お前一人でなんとかしてこい』って、完全にワンオペのブラック労働じゃないか! 伊勢の叔母上(倭比売命)に挨拶に行ったら、『天皇はあなたを死なせたいのよ』って泣きながら草薙剣をくれたんだぞ! 実の父親から『死んでこい』って言われてるようなもんじゃないか! 俺が一体何をしたっていうんだ!」
享年三十歳(推定)。
神話最強の英雄を縛り付ける未練。それは、死への恐怖でも敵への恨みでもない。
「どんなに過酷な任務をこなしても、実の父親から愛してもらえなかった」という、あまりにも人間臭く、悲痛な『親からの愛情への渇望』だった。
「おまけに俺もバカだった! 調子に乗って、その草薙剣を嫁のミヤズヒメのところに置いて、素手で伊吹山の神をボコりに行ったら、デカい白いイノシシ(神の化身)に氷の雨を降らされて、高熱を出して死んじまった! 俺は……俺はただ、もう一度大和に帰りたかっただけなのに……っ!」
タケルが、「大和は国のまほろば……」と有名な望郷の歌を泣きながら口ずさみ始めた、その時だった。
ウィーン。
センターの自動ドアが開き、ザザーッ……と、荒々しい波の音と、強い潮風の匂いが待合室に吹き込んだ。
「——タケル様ッ!!」
そこに立っていたのは、美しい古代の衣装を身にまとった女性だった。
しかし、その姿は異様だ。着物はぐっしょりと海水を吸って重く垂れ下がり、長い黒髪からはポタポタと水滴が落ちている。
「お、弟橘媛……!?」
タケルが、弾かれたように顔を上げた。
弟橘媛。
東征の途中、相模の海で海神の怒りに触れて船が沈みそうになった際、「私が海神の生贄になります」と自ら荒れ狂う海へと身を投げ、タケルの命を救った、愛と自己犠牲の象徴とも言える彼の妃である。
「お前……! どうしてここに! お前は俺をかばって、あの冷たい海の底に……っ!」
「タケル様! ずっと、ずっとお待ちしておりました!」
弟橘媛は、自分がずぶ濡れであることなど全く気にする様子もなく、水たまりを作りながら猛ダッシュでタケルに駆け寄り、その泥だらけの胸に勢いよく飛び込んだ。
「ごめんなさい……! 俺が不甲斐ないばかりに、お前をあんな海に沈めてしまって……! 俺は、お前を失ってからずっと『あづまはや(ああ、我が妻よ)』と泣いてばかりいたんだ……っ!」
タケルは、濡れた弟橘媛の背中に腕を回し、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
「いいえ、タケル様」
弟橘媛は、タケルの泥と涙にまみれた顔を、冷たく濡れた両手で優しく包み込んだ。
「私は、天皇の命令のために身を投げたのではありません。タケル様、あなたが大好きだったからです。……相模の野原で、敵に火を放たれて囲まれた時、あなたは草薙剣で必死に草を薙ぎ払い、私を守ってくれましたね。あの時のあなたの背中は、誰よりも雄々しく、優しかった。だから私は、自分の意志であなたを守ったのです」
「オトタチバナ……」
「天皇があなたをどう思っていようと、関係ありません。あなたは、使い捨ての駒などではない。……私の、世界でたった一人の、最高の英雄です」
その言葉を聞いた瞬間。
タケルを縛り付けていた「父親に愛されなかった」という深い呪縛が、波に洗われるようにスゥッと溶けて消えていった。
自分は、孤独ではなかった。
ワンオペのブラック労働の中で、たしかに自分を愛し、命を懸けて守ってくれた存在が、自分の胸の中にいるのだ。
「……ああ。そうだな。親父の評価なんて、もうどうでもいい」
タケルは、弟橘媛をしっかりと抱きしめ直し、憑き物が落ちたような、清々しい笑顔を浮かべた。
「大和に帰れなかったのは心残りだが……お前がいてくれるなら、そこが俺の大和だ」
私は無言で、床に広がった海水をモップで拭きながら、タブレットの「引き渡し完了」ボタンをタップした。
ピロン、という電子音と共に、二人の足元に真っ白な光の道が現れる。
「さあ、行こうオトタチバナ。あの世の海は荒れていないだろうから、今度こそ一緒にゆっくり船旅でもしよう」
「はいっ、タケル様! どこまでも、お供いたします!」
二人はしっかりと手を繋ぎ、光の道へと歩き出す。
その時、タケルの背中から、フワリと純白の美しい羽根が数枚舞い落ち、まるで巨大な白鳥が羽ばたくような幻影が、光の中に一瞬だけ浮かび上がった。
「受付の! 茶、もらっておくぞ! ブラックな職場から抜け出せて、最高にいい気分だ!」
「ええ。向こうでは、素手で山の神に喧嘩を売ったりしないで、奥さんと平和に過ごしてくださいね」
私が深く会釈をすると、日本神話最大の悲劇の英雄と、彼を愛した妃は、幸せそうな笑い声を響かせながら、光の彼方へと完全に溶けて消えていった。
「ふぅ……。どんなに親がブラックでも、たった一人、自分の価値を分かってくれるパートナーがいれば、魂は救われるってことだな」
私が、タケルが残していった美しい白鳥の羽根を一枚拾い上げ、記念にデスクの引き出しにしまった、その時だった。
ピンポンパンポーン。
休む間もなく、無機質なチャイムが響き渡る。
それに続いて流れてきたアナウンスに、私は引き出しをバタンと閉めて天を仰いだ。
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。紀元前三二三年頃、古代ギリシャのコリントス、あるいはアテナイの樽の中からお越しの、ディオゲネスくん。享年八十九歳。……繰り返します。樽に住んでるディオゲネスくんをお預かりしております——』
「……はぁ!? 今度はディオゲネス!? あの『犬儒派』の祖にして、家も持たずに路上で木樽に住んでた古代ギリシャの究極のホームレス哲学者じゃないか!」
私は、慌てて古代ギリシャ語の通訳機をセットし、彼が待合室のど真ん中に巨大な木樽を設置して住み着かないよう、台車と「不法占拠禁止」の貼り紙を探し始めた。
「アレクサンドロス大王に向かって『そこをどけ、日差しが遮られる』って言い放ったガチの奇人だぞ! 絶対に『この待合室のパイプ椅子は贅沢すぎる!』とか言って備品を破壊し始めるに決まってる……!」
どうやら今日の冥界迷子センターも、私を平和な定時退社へと解放してくれる気は、彼が樽から出てくる確率よりも低いらしい。私は深い絶望とともに、次なる「哲学をこじらせた半裸の変人」を迎える覚悟を決めた。




