第48話 アウストラロピテクスくん
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。約三九〇万年前、アフリカ大陸のサバンナからお越しの、アウストラロピテクスくん。享年不明。……繰り返します。初期の人類、アウストラロピテクスくんをお預かりしております。心当たりのある保護者の方は、至急、冥界迷子センター第一ターミナルまでお越しください』
ピンポンパンポーン。
無機質で事務的な電子チャイムの音が、蛍光灯のチカチカと瞬く殺風景な待合室に響き渡った。
私、迷子センター受付係のナナシは、インカムの言語設定を急いで「古人類語」に切り替えながら、受付カウンターの奥で頭を抱えていた。
「次は猿人かよ! ついに文明すら存在しない時代まで遡りやがった! 言葉なんか通じるわけないだろ! どうやってコミュニケーション取ればいいんだよ!」
私は、とりあえず備品の冷蔵庫からバナナを一本取り出し、恐る恐る待合室へと足を踏み出した。
「ウホォォ……。ウッホ、ウホ……ッ」
いつもの黄色いパイプ椅子に、全身を分厚い体毛で覆われ、長く太い腕を持つ、猿と人間の中間のような姿をした小柄な生き物が座っていた。
彼は、前かがみになりながら、自分の腰のあたりを両手で必死にトントンと叩き、ひどく苦しそうに顔をしかめている。
約三九〇万年前のアフリカに生息していた、人類の直接の祖先とも言われる最初期の二足歩行者、アウストラロピテクス。
「あ、あのー、アウストラロピテクスさん。とりあえずバナナ食べますか? あと、腰痛いんですか?」
私がバナナを差し出しながらインカムの翻訳ボタンを押すと、スピーカーからは、ただの猿の鳴き声ではなく、彼の脳内の純粋な感情が「現代日本語」として見事に言語化されて流れてきた。
『……二足歩行、マジで失敗だったウホ。腰が……腰が砕けそうに痛いウホ。だいたい、四本足で歩いてた頃はこんな腰痛なんてなかったのに……!』
「えっ、めっちゃ流暢に愚痴ってる!? しかも死因や未練じゃなくて、二足歩行による腰痛のクレーム!?」
アウストラロピテクスは、私が渡したバナナを器用に剥いてモシャモシャと食べながら、インカム越しに痛切な後悔を語り始めた。
『草むらの向こうを見るために、ちょっと調子に乗って後ろ足だけで立ってみたのが運の尽きだったウホ。目線が高くなって「おっ、俺ちょっと進化しちゃった?」ってドヤ顔した瞬間、草むらに隠れてたサーベルタイガーに首をガブッとやられたウホ!』
「あー、立っちゃったせいで逆に天敵に見つかりやすくなったんですね……。悲しい」
『しかも、二本足で立つと、重たい上半身の体重が全部腰に乗っかるから、常に椎間板ヘルニア予備軍なんだウホ! 内臓も下に下がるし、走るの遅くなるし! 「直立二足歩行」なんて、生物の構造的に完全にバグだウホ! 四足歩行にリセマラさせてくれェェッ!』
人類が初めて立ち上がった偉大な一歩。
しかし、その当事者である彼を縛り付けている未練は、「進化のせいで腰痛になったし、虎に食べられたし、二本足で立つなんてロクなことがない」という、生物の構造的欠陥に対する強烈なクレームだった。
彼が「今からでも手をついて歩くウホ!」と四つん這いになろうとした、その時だった。
ウィーン。
センターの自動ドアが開き、パタパタというよりも、ズンズンと力強い西洋靴の足音が響いた。
「——NO! NO! NO! それは違うぞ、私の偉大なる先祖よ!!」
そこに立っていたのは、もじゃもじゃの白いあご髭を蓄え、立派なヴィクトリア朝のフロックコートを着込んだ初老の紳士だった。手には分厚いスケッチブックと、ゾウガメの甲羅の破片のようなものを持っている。
進化論を提唱し、生物学の歴史を根底からひっくり返した世紀の天才、『種の起源』の著者、チャールズ・ダーウィン。
「ダ、ダーウィン!? なんで19世紀のイギリスの生物学者が、三九〇万年前の猿人を迎えに来るんですか!?」
「決まっているだろう、受付の青年! 彼こそが、私の『進化論』を証明する最も重要なミッシングリンクなのだから! ああ、神よ(私はもうあまり信じていないが)! 生きたアウストラロピテクスに会える日が来るなんて!」
ダーウィンは、恐怖や遠慮など微塵も見せず、アウストラロピテクスに猛ダッシュで駆け寄り、その毛むくじゃらの両手をガシッと握りしめた。
『ウホッ!? な、なんだこの毛の薄いひ弱な猿は!? 俺の手に触るなウホ!』
「おおっ、素晴らしい親指の対向性だ! 木にぶら下がるためではなく、物を掴むために進化し始めている! 君、ちょっと骨盤の形を見せてくれないか! 大腿骨の角度はどうなっているんだね!?」
ダーウィンが興奮のあまりメジャーを取り出して猿人の腰回りを測り始めると、アウストラロピテクスは「セクハラだウホ!」とパニックになってパイプ椅子の上に乗って威嚇した。
「ダーウィンさん! 彼は進化のせいで腰痛になったって後悔してるんです! あんまり無神経に観察しないでください!」
「後悔だと!? 君、自分がどれほど偉大な『最初の一歩』を踏み出したか分かっていないのか!」
ダーウィンはメジャーを置き、真剣な、そして熱を帯びた瞳で猿人を見上げた。
「確かに、二足歩行は腰に負担がかかるし、走るのも遅くなる。生物としての生存競争においては、一時的に不利だったかもしれない」
『そうウホ! だから四本足に戻るウホ!』
「だがね、我が先祖よ」
ダーウィンは、猿人の毛深い手を再び優しく握り、真っ直ぐにその目を見つめた。
「君が無理をして立ち上がり、前足を地面から離してくれたおかげで……我々人類は、その『空いた両手』を手に入れたのだ」
『空いた両手……?』
「そうだ。その手で石を割り、道具を作り、火を起こした。その手で言葉の代わりに文字を書き、芸術を生み出し、海を渡る船を造り、ついには重力を振り切って宇宙へ飛び立つロケットまで創り上げたのだ! 君が腰痛に耐えながら立ち上がってくれたからこそ、現在の人類の圧倒的な文明があるのだよ!」
ダーウィンの言葉に、アウストラロピテクスは自分の両手をまじまじと見つめた。
木に登り、ただ果実をむしるためだけに使っていたこの手が、そんな途方もない未来を切り開いたというのか。自分がサーベルタイガーに噛まれながらも選んだ「二足歩行」というエラーが、奇跡の進化の始まりだったというのか。
『俺の……俺の腰痛が、未来を創ったウホ……?』
「その通りだ! 君の腰痛は、全人類の『進化の勲章』なのだ! 君は間違いなく、地球の歴史を変えた偉大なるパイオニアだ!」
19世紀の天才生物学者による、熱すぎる進化のプレゼンテーション。
その言葉は、種の壁も三九〇万年の時も超え、猿人の魂に深く、深く突き刺さった。
『ウオォォォォォォンッ!!』
アウストラロピテクスは、感極まったように天を仰いで雄叫びを上げた。その目からは、ホモ・サピエンスと何も変わらない、熱く純粋な涙がこぼれ落ちていた。
彼はダーウィンに飛びつき、そのヴィクトリア朝のフロックコートが毛まみれになるのも構わず、力強くハグを交わした。
「おおっ! なんと力強い抱擁だ! 広背筋の発達が素晴らしい! 早くあの世のラボで骨格標本……いや、骨格のレントゲンを撮らせてくれ!」
『ウホウホ! いくらでも撮るウホ! 俺の完璧な腰椎のカーブを見せてやるウホ!』
私は無言で、インカムの翻訳機能を切りながら、タブレットの「引き渡し完了」ボタンをタップした。
ピロン、という電子音と共に、二人の足元に真っ白な光の道が現れる。
「さあ、行くぞ私の偉大なる先祖よ! 向こうの世界のガラパゴス諸島は、現世よりさらに多様な進化を遂げているはずだ! 一緒に観察旅行に出かけよう!」
『任せるウホ! 高いところの木の実を取るのは俺の担当だウホ!』
種の起源を解き明かした天才と、その起源そのものである猿人は、三九〇万年の時を超えた最高のバディとして、肩を組んで光の道へと歩き出していく。
「受付の青年! バナナ感謝する! 進化は決して止まらないぞ!」
「ええ。向こうでは、お二人とも腰を大事にしてくださいね」
私が深く会釈をすると、進化の呪縛から解放された二人の姿は、生命の喜びを爆発させるような歓声と共に、光の中へと完全に溶けて消えていった。
「ふぅ……。どんなに腰が痛くても、それが未来の文明に繋がってると思えば、案外悪くない……かもしれないな」
私が、アウストラロピテクスが食べたバナナの皮をゴミ箱に捨て、自分も少しだけ腰を伸ばしてストレッチをした、その時だった。
ピンポンパンポーン。
休む間もなく、無機質なチャイムが響き渡る。
それに続いて流れてきたアナウンスに、私は思わず自分の耳を疑った。
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦不明、景行天皇の御代、能褒野からお越しの、日本武尊くん。享年三十歳(推定)。……繰り返します。ヤマトタケルくんをお預かりしております——』
「……はぁ!? 今度はヤマトタケル!? 日本神話最大の英雄にして、親にこき使われた超絶悲劇のヤンキー皇子じゃないか!」
私は、もはや歴史の枠を通り越して神話の領域に突入した案内に、受付カウンターの裏で天を仰いだ。
どうやら今日の冥界迷子センターも、私を平和な定時退社へと導いてくれる気は毛頭ないらしい。私は深い絶望と、神話級のパワハラ被害者への同情とともに、次なる「日本古代の最強トラブルメーカー」を迎える覚悟を決めた。




