第46話 ベートーヴェンくん
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。システムエラーから復旧しました。西暦一八二七年、オーストリアのウィーンからお越しの、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンくん。享年五十六歳。……繰り返します。ベートーヴェンくんをお預かりしております。心当たりのある保護者の方は、至急、冥界迷子センター第一ターミナルまでお越しください』
ピンポンパンポーン。
無機質で事務的な電子チャイムの音が、先ほどのパレットレンジャーのせいで絵の具まみれになり、異臭の漂う殺風景な待合室に響き渡った。
私、迷子センター受付係のナナシは、インカムの言語設定をドイツ語に切り替え、耳栓を限界まで奥に押し込みながら、受付カウンターの裏で頭を抱えていた。
ダダダダーン!! ダダダダーン!!
「違う! 違うのだ! もっと重く! もっと暗く! 深淵から這い上がってくるような絶望の響きが足りないィィッ!!」
幼児用の黄色いプラスチック製パイプ椅子を蹴り飛ばし、私のいる受付カウンターを巨大な手でバンバンと叩きまくっている、ライオンのたてがみのようなボサボサ頭の男がいた。
クラシック音楽の歴史を覆し、数々の不朽の名作を生み出した人類最高峰の天才作曲家にして、超絶気難しい『楽聖』、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン。
「あ、あのー! ベートーヴェンさん! カウンターをピアノ代わりにフルスイングで叩くのやめてもらえます!? 天板が割れる!」
私が耳栓越しにメガホンで叫ぶと、ベートーヴェンはハッとして動きを止め、血走った目で私を睨みつけた。
「……聞こえる。お前のその貧弱な叫び声が、私の耳にハッキリと聞こえるぞ!」
「そりゃどうも。ここあの世なんで、生前の難聴は治ってるんですよ。良かったですね」
「良くないわァァァッ!!」
ベートーヴェンは再びカウンターに突っ伏し、ボサボサの頭を掻きむしった。
「私はな! 耳が聞こえないという圧倒的な絶望と孤独の中で、魂を削って『運命』や『第九』を書き上げたのだ! 音が聞こえないからこそ、私の内なる宇宙の響きは完璧だった! それがどうだ、死んで耳が聞こえるようになった途端、頭の中に入ってくるのは『絵の具が床に滴るチャピチャピ音』とか『空調のブーンというノイズ』ばかり! インスピレーションが完全にノイズでかき消されている!」
享年五十六歳。
偉大なる楽聖の未練。それは、「耳が聞こえるようになったせいで、逆に最高の曲が書けなくなってしまったスランプへの恐怖」という、皮肉すぎるクリエイターの業だった。
「頼む、受付の青年! 私にもう一度、あの『運命が扉を叩く音』を聞かせてくれ! 私の魂を震え上がらせるような、究極の絶望と恐怖のビートを!」
彼が「いっそ自分で自分の鼓膜を破るか!」と物騒なことを叫び始めた、その時だった。
スゥゥゥ……。
センターの自動ドアが、なぜか開かない。
その代わり、待合室の空気が急激に氷点下まで下がり、蛍光灯がジリジリと嫌な音を立てて明滅を始めた。
トントン、トン……。
誰もいないはずの自動ドアの向こうから、不気味なノックの音が響く。
トントン、トン……。
そして。
「——あそぼ……」
ゾクッとするような冷たい少女の声と共に、待合室の隅の何もない空間から、赤い吊りスカートにおかっぱ頭の小学生の女の子が、スゥッと這い出すように現れた。
「ヒィィィッ!? な、何だ貴様はァァッ!」
ベートーヴェンが悲鳴を上げ、パイプ椅子の後ろに縮み上がった。
日本の学校の怪談の代表格にして、トイレの絶対的支配者。
『トイレの花子さん』である。
「あのー、花子さん」
「お迎えご苦労様ですけど、ここ女子トイレじゃないんで。あと、さっきモネが床を水浸しにしたばっかりなんで、水回り系のポルターガイストはやめてくださいね」
私が冷静にツッコミを入れると、花子さんはホラー映画のような不気味な表情を一瞬で崩し、やたらとチャラい口調で笑った。
「アハハッ! お兄さんマジ冷静じゃん! ウケル〜!」
「……は?」
「おっす、ベートーヴェン先輩! 迎えに来ましたよ! 相変わらず髪の毛爆発しててオーラすんげぇッスね!」
おかっぱ頭の怨霊ギャルは、縮み上がっている大作曲家に向かって、気さくに右手を挙げて挨拶した。
「せ、先輩だと……? なぜ極東の幼き怨霊が、この私を知っているのだ!?」
「え、何言ってんスか先輩。ウチら、日本の『学校の怪談』界隈のズッ友じゃないスか!」
花子さんがドンッと胸を叩く。
「夜の学校っていったら、アタシら『トイレの花子さん』と、『理科室の人体模型』と、そして『音楽室のベートーヴェンの肖像画』がトップ3のレギュラーメンバーっしょ! 先輩の『夜になると目が動く』やつ、昭和のガキどもをめっちゃ震え上がらせてて、マジリスペクトしてたんスよ!」
「なっ……!?」
ベートーヴェンは目を見開いた。
「私が……極東の学び舎で、夜な夜な子供たちに恐怖を与えていたと……? 私の厳めしい肖像画が、怪談のアイコンとして機能していたというのか!?」
「そうッスよ! でもね、先輩……最近、ウチら怪談業界、マジで不況なんスよ」
花子さんが、少しだけ寂しそうに赤いスカートの裾を握りしめた。
「トイレは全部綺麗な洋式ウォシュレットになっちゃって、アタシが出る幕ないし。先輩の肖像画も、『子供が怖がるから』って理由で音楽室から撤去する学校が増えてるんス。このままじゃ、ウチら『過去の遺物』になっちゃう……!」
「私の……私の肖像画が撤去だと!?」
「だからね、先輩!」
花子さんは顔を上げ、爛々と目を輝かせた。
「先輩のその『究極の恐怖と絶望のビート』で、令和のガキどもをチビらせる最強の『新曲』を作ってほしいんス! アタシが最高の効果音出すんで!」
花子さんが指をパチンと鳴らすと、待合室の窓ガラスが一斉にガタガタと震え始め、空調からヒュォォォという不気味な風の音が鳴り響いた。
ドン、ドン、ドン、バンッ!!
花子さんがリノリウムの床を踏み鳴らし、トイレのドアを叩くような強烈な四拍子のリズムを刻む。
「……ッ!!」
ベートーヴェンの全身に、電流が走った。
「これだ……! この、骨の髄まで響き渡るような、根源的な恐怖の律動! これぞまさに、死の世界の底から運命が扉をブチ破ってくる音だァァァッ!!」
楽聖の瞳に、狂気と歓喜の炎が灯った。
「素晴らしいぞ、花子! 君のその怪奇現象、私の交響曲に完璧にマッチしている! さあ、テンポを上げろ! もっとだ! もっと窓を揺らせ!」
「オラァッ! これでどうスか先輩ィィッ!!」
バリンバリンッ! ガシャァァァン!!
花子さんのポルターガイストが限界突破し、ついに待合室の蛍光灯が次々と破裂し始めた。ベートーヴェンは割れたパイプ椅子を指揮棒のように振り回し、ノリノリで空中の見えないオーケストラを指揮している。
「やめろォォォッ!! 音楽室の怪談セッションをここでやるなァァァッ!!」
私は鼓膜が破れそうな爆音と怪奇現象の嵐の中、決死のダイブでタブレットの「引き渡し完了」ボタンを叩き潰すようにタップした。
ピロンッ!! という必死の電子音と共に、二人の足元に、真っ白……ではなく、薄暗く不気味な青白い光の道が現れる。
「行くぞ花子! あの世の音楽室で、私の『交響曲第十番・ホラーエディション』を完成させるのだ!」
「マジ最高ッス先輩! 閻魔大王もチビらせてやりましょうぜ!」
大作曲家と日本の怨霊ギャルは、窓ガラスを割りまくりながら、やかましい爆音の怪談交響曲を響かせ、光の彼方へと消えていった。
「ふぅ……。結局、天才のインスピレーションを刺激するのは、時代を超えた『恐怖と怪談のビート』ってことだな……修繕費が怖いけど」
私が、粉々になった蛍光灯の破片をホウキで掃き集め、今度こそ本当に、絶対に、宇宙が滅亡しても定時で帰ると誓ってタイムカードを握りしめた、その時だった。
ピンポンパンポーン。
休む間もなく、無機質なチャイムが響き渡る。
それに続いて流れてきたアナウンスに、私はタイムカードを二つに叩き割った。
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦一九三〇年、イギリスのサセックスからお越しの、アーサー・コナン・ドイルくん。享年七十一歳。……繰り返します。コナン・ドイルくんをお預かりしております——』
「……はぁ!? 今度はコナン・ドイル!? 世界一有名な名探偵『シャーロック・ホームズ』の生みの親じゃないか!」
私は、慌てて英語の通訳機をセットし、彼が待合室で虫眼鏡を使って私の粗探しを始めないよう、デスクの上の私物を必死に隠し始めた。
「自分でホームズを殺してシリーズを終わらせようとしたら、ファンから脅迫状が届きまくってノイローゼになったっていう、世界初の『炎上被害作家』だぞ! しかもミステリー作家のくせに晩年はオカルトにドップリ浸かってたし、絶対にめちゃくちゃな理屈と未練を持ち込んでくるに決まってる……!」
どうやら今日の冥界迷子センターも、私を平和な定時退社へと解放してくれる気は、シャーロック・ホームズが生き返る確率よりも低いらしい。私は深い絶望とともに、次なる「ミステリーの巨匠にしてオカルトおじさん」を迎える覚悟を決めた。




