第42話 伊能忠敬くん
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦一八一八年、江戸の八丁堀からお越しの、伊能忠敬くん。享年七十三歳。……繰り返します。伊能忠敬くんをお預かりしております。心当たりのある保護者の方は、至急、冥界迷子センター第一ターミナルまでお越しください』
ピンポンパンポーン。
無機質で事務的な電子チャイムの音が、蛍光灯のチカチカと瞬く殺風景な待合室に響き渡った。
私、迷子センター受付係のナナシは、インカムの言語設定を「江戸時代後期の日本語」にセットしつつ、カウンターの奥からそっと顔を出した。
「い〜ち、に〜い、さ〜ん……。ふむ、自動ドアから受付の机までの距離、およそ十五歩。歩幅から逆算して……約十メートルといったところか。よし、記録しておこう」
待合室の端から端までを、一定の歩幅でひたすらウロウロと歩き回っている老人がいた。
地味な着物に身を包み、腰には矢立と筆。首からは方位磁針をぶら下げ、手元の和紙に何やらブツブツと呟きながら間取りを書き込んでいる。
五十五歳から十七年もの歳月をかけて日本全国を歩き回り、日本で初めて実測による正確な日本地図『大日本沿海輿地全図』を作り上げた偉人、伊能忠敬。
「あのー、伊能さん。待合室の測量するのやめてもらえます? ここはただの四角い部屋なんで地図作っても意味ないですよ。温かいほうじ茶でも飲みます?」
私が紙コップを差し出すと、伊能は立ち止まり、神経質そうに眉間に皺を寄せた。
「測量に意味のない場所などない! ここはあの世とこの世の境界線であろう? ならば、その正確な緯度と経度、そして面積を割り出すのが測量家の務めだ! だいたい私はな、こんなところで足止めを食らっている暇はないのだ! まだ地図が完成しておらんのだぞ!」
伊能は手元の和紙を握りしめ、悔しそうに声を震わせた。
「蝦夷地から九州まで、十七年歩き続けた……。だが、地図の完成を待たずに、私の寿命が尽きてしまったのだ! 弟子たちが私の死を隠して地図の編纂を続けてくれているが、もし計算が狂っていたらどうする! 海岸線に数ミリのズレがあったら、これまでの四千万歩の道のりがすべて台無しになるのだぞ!」
享年七十三歳。
彼の未練は、「自分の足で歩き切った巨大なプロジェクトの、最終的な完成を見届けられなかった」という、あまりにも生真面目で職人肌な責任感だった。
「あー、それなら大丈夫ですよ。あなたの地図、三年後にバッチリ完成して幕府に献上されますから」
「な、本当か!? ズレはなかったか!?」
「ええ。現代の衛星画像と重ね合わせても、海岸線の誤差がたったの〇・二パーセントっていう、江戸時代とは思えない化け物じみた精度で世界中から大絶賛されてます。ほら、見てみます?」
私は彼を安心させようと、受付カウンターのタブレット端末を取り出し、『Googleマップ』のアプリを起動した。
「これが現代の地図です。あなたの測量技術がいかに正確だったか、現代の地図と比べて……」
「な、なんだこの光る板は! ……む!? こ、これは……日本列島!? いや、異国の形まで完璧に描かれているではないか!」
伊能はほうじ茶を放り出し、食い入るようにタブレットの画面を覗き込んだ。
「おおお……! なんという精密さだ! この縮尺はどうなっているのだ!? ちょっと待て、画面を指で広げると……なっ!? 拡大されたぞ!? 道が、川が、家の一軒一軒まで表示されるだと!?」
「そうですよ。ほら、ここに人型のアイコンを落とすと……『ストリートビュー』って言って、その場所の実際の風景まで立体で見られるんです。江戸の八丁堀、見てみます?」
「ヒィィィッ!? 家が見える! 空から見下ろしているかのようだ!」
伊能はタブレットを握りしめ、全身をガタガタと震わせ始めた。
職人として、現代の完璧すぎる地図に感動している……かと思いきや。
「受付の青年よ! 現代の人間は、一体何百年かけてこの世界地図を描き上げたのだ!? これほどの精度、数百万人の測量家が、何万年も歩き続けなければ不可能だぞ!」
「あ、いや。歩いてないですよ」
「……は?」
「『人工衛星』っていう、空のはるか彼方、宇宙を飛んでる機械が、上からカメラでパシャッて撮影してるんです。あとはGPSっていう電波で位置を割り出してるんで、地球全体の地図を作るのに、人間の足で歩く必要は一歩もないんです。一瞬ですよ」
「…………」
伊能忠敬は、パクリと口を開けたまま、フリーズした。
「い、一歩も……歩いていない、だと?」
「ええ。なんなら現代人は、スマホ……この板をポケットに入れておけば、自分が今どこにいるか、一メートル単位で現在地が分かるんです。迷子になる方が難しいくらいで」
「アァァァァァァァァァァッッッ!!!」
突然、伊能忠敬が両手で頭を抱え、待合室の床を転げ回って発狂し始めた。
「空から!? 一瞬で!? 歩かずにィィィ!? 私の十七年はなんだったのだァァッ!! 蝦夷の極寒の中で凍えそうになりながら測量ロープを引っ張った日々は! 擦り切れた何千足もの草鞋は! 膝の痛みは! 血の小便を流しながら歩いた四千万歩はァァッ!」
「あ、いや、伊能さん! 落ち着いて!」
「落ち着けるかァァッ! 空から写真撮って終わりなら、最初からそうしろォ! なんで誰も江戸時代に人工衛星を作ってくれなかったのだ! チクショォォォ! 文明の利器が憎いィィィッ!」
最新のテクノロジーを見せて安心させるつもりが、裏目に出てしまった。「足で稼ぐ」ことに人生を捧げた職人にとって、Googleマップの存在は、自分の血と汗の結晶を根底から否定するオーバーテクノロジーの暴力に他ならなかったのだ。
伊能が「もう死にたい! あっ死んでる!」とリノリウムの床をバンバン叩いて大号泣していた、その時だった。
ウィーン。
センターの自動ドアが開き、待合室に、ひどく陽気で、しかしどこか透き通るような青空を感じさせる声が響いた。
「——ハラショー! 泣くのはよせ、地上を歩き抜いた偉大なる先人よ!」
そこに立っていたのは、江戸時代の人間でもなければ、日本の偉人でもなかった。
オレンジ色の分厚い宇宙服に身を包み、白いヘルメットを小脇に抱えた、笑顔の眩しい外国人の青年だった。
「えっ!? そ、その宇宙服……!」
私が慌ててロシア語の通訳機をセットすると、青年は真っ直ぐに伊能忠敬の元へと歩み寄り、その分厚い手袋で、床で号泣する老人の肩をガシッと掴んだ。
「な、なんだ貴様は! 南蛮人か!」
「私はユーリ。ユーリ・ガガーリンだ。……君が恨んでいる『空から星を見下ろす』ことを、人類で一番最初にやってのけた男さ」
ユーリ・ガガーリン。
一九六一年、ボストーク一号に乗り込み、人類で初めて宇宙空間へ飛び立ち、地球を周回した宇宙飛行士。
享年三十四歳。ジェット機の墜落事故という早すぎる死を遂げた、空を愛した男である。
「き、貴様が人工衛星の親玉かァァッ! よくも私の四千万歩をコケにしてくれたな!」
伊能が食ってかかろうとするが、ガガーリンは優しく微笑み、首を横に振った。
「コケになどしていない。私は君を、心から尊敬しているからこそ、保護者として君を迎えに来たのだ」
「尊敬だと……? 空から一瞬で世界を描ける貴様らが、地べたを這いつくばる私をか?」
「ああ」
ガガーリンは、待合室の白い天井を見上げ、あの有名な言葉を口にした。
「地球は、青かった。……宇宙から見る世界は、国境の線などどこにもなく、ただひたすらに美しく、圧倒的だったよ」
ガガーリンの瞳に、深い宇宙の星々の輝きが宿る。
「だがね。宇宙から地球全体を見渡すことはできても、私はその星の『手触り』を感じることはできなかった。そこにどんな風が吹き、川がどう曲がり、人々がどんな土を踏んで生きているのか。……宇宙からは、それが見えないのだよ」
「……」
「一〇八分で地球を一周した私には、絶対に描けない地図がある。君が十七年かけて、自分の足の裏で地球の鼓動を感じ、泥にまみれて引いた一本の線。それこそが、人々の生活と結びついた『本当の地図』なのだ」
ガガーリンは、伊能の手を力強く握りしめた。
「人工衛星は、君たちが地面で測量し、築き上げた正確な基礎データがあったからこそ、宇宙へと飛ぶことができた。空から見下ろす私たちは、君たち『地面を歩いた者』の肩の上に乗っているのだよ。……君の四千万歩は、宇宙へと続く第一歩だったのだ」
その言葉を聞いた瞬間。
伊能忠敬の目から、テクノロジーへの嫉妬ではなく、熱い涙がボロボロとこぼれ落ちた。
「私の足跡が……空へと繋がっていたと、いうのか……」
「そうだ。君は、立派に世界を測りきったのだ、偉大なる測量家よ」
三十四歳の若き宇宙飛行士と、七十三歳の老齢の測量家。
「マクロの極致」と「ミクロの極致」を生きた二人の探求者が、国境も時代も超えて、深く心を通わせた瞬間だった。
私は無言で、こぼれたほうじ茶を拭き取りながら、タブレットの「引き渡し完了」ボタンをタップした。
ピロン、という電子音と共に、二人の足元に真っ白な光の道が現れる。
「さあ、行こう! あの世は宇宙よりも広いと聞く。君の足で、無限の地図を作ってみないか?」
「うむ! 望むところだ! 歩幅の計算からやり直さねばならんな! い〜ち、に〜い、さ〜ん……」
伊能忠敬は、すっかり憑き物が落ちた晴れやかな顔で、再び歩幅を数えながら光の道へと歩き出す。その後ろを、ガガーリンが楽しそうに笑いながらついていく。
「受付の青年! その『グーグル』とやらを開発した者に伝えておけ! いずれあの世の地図で、貴様らを出し抜いてみせるとな!」
「ええ。向こうでは、膝を痛めない程度に測量を楽しんでくださいね」
私が深く頭を下げると、地球を歩いた男と地球を飛んだ男の背中は、光の中へと溶けて消えていった。
「ふぅ……。最新のテクノロジーも、泥臭い人間の執念がなきゃ生まれないってことだな」
私が、伊能が置いていった丸めた和紙の切れ端をゴミ箱に捨て、今度こそタイムカードに手を伸ばした、その時だった。
ピンポンパンポーン。
休む間もなく、そして私の安息を容赦なく打ち砕く、無機質なチャイムが響き渡る。
それに続いて流れてきたアナウンスに、私はタイムカードを壁に叩きつけそうになった。
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦一六一五年、大坂夏の陣からお越しの……猿飛佐助くん、霧隠才蔵くん、ほか八名。……繰り返します。真田十勇士の十名様をお預かりしております——』
「……十名様!? 赤穂浪士の四十七人に比べればマシだけど、また団体客かよ! しかも真田幸村に仕えた、日本一有名な忍者と豪傑のチームじゃないか!」
私は、慌てて戦国時代の通訳機をセットしながら、彼らが待合室で煙幕を張ったり手裏剣を投げ始めたりした時のための、防煙マスクと救急箱を探し始めた。
「一歩間違えれば乱闘騒ぎの体育会系集団だぞ! 『俺の火遁の術が不発だったせいだ!』『いや俺のせいだ!』って十人が一〇〇パーセントの音量で同時にギャーギャー喚いて、待合室を酸欠にするパターンに決まってる……!」
どうやら今日の冥界迷子センターも、私を平和な定時退社へと導いてくれる気は毛頭ないらしい。私は深い絶望とともに、次なる「最高にむさ苦しい十人組」を迎える覚悟を決めた。




