第41話 アースロプレウラくん
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。約三億年前、古生代石炭紀のシダの森からお越しの、アースロプレウラくん。享年不明。……繰り返します。アースロプレウラくんをお預かりしております。心当たりのある保護者の方は、至急、冥界迷子センター第一ターミナルまでお越しください』
ピンポンパンポーン。
無機質で事務的な電子チャイムの音が、蛍光灯のチカチカと瞬く殺風景な待合室に響き渡った。
私、迷子センター受付係のナナシは、清掃用の分厚いゴム手袋を両手にはめ、顔には防毒マスクを被り、盾代わりにバインダーを構えながら、カウンターの奥からそっと様子を窺った。
ズゾゾ……ッ、カチ……カチ、チチチチチチッ……!
「ヒッ……!!」
私は息を呑み、本能的な嫌悪感で全身の毛穴が粟立つのを感じた。
幼児用の黄色いプラスチック製パイプ椅子は、その「巨体」の下敷きになり、メキメキと無残な音を立ててひしゃげている。
待合室のど真ん中を占拠するようにトグロを巻いていたのは——全長二・五メートル、横幅は優に五十センチを超える、異常発達した巨大な節足動物だった。
装甲車のように分厚く黒光りする三十もの外殻が、呼吸に合わせてズズ……ズズ……と不気味に波打っている。その装甲が擦れ合うたびに、隙間からドクン、ドクンと脈打つ、粘液に濡れた赤黒い生々しい薄皮が覗いていた。
最もおぞましいのは、その腹部だ。
六十対を超える棘だらけの脚が、まるで一本一本が独立した生き物のようにワラワサ、ゾワゾワと不規則な波を打って蠢き、リノリウムの床をひっかく耳障りな摩擦音を立てている。
頭部からは大人の腕ほどもある太い触角が盲目的に宙を弄り、巨大な大顎からは、腐った植物と泥が混ざったような酸っぱい悪臭を放つ茶色い体液が、ドロリと糸を引いて垂れ落ちていた。
地球史上最大級の陸生無脊椎動物、アースロプレウラ。
「ギチギチ……シュコーッ……チチチチッ!」
私は震える指で『古生代節足動物語』の翻訳アプリをインカムに同期させた。すると、その直視するのもおぞましいクリーチャーの見た目に反して、スピーカーから流れてきたのは、ひどく息苦しそうな文句だった。
『……苦しい。息が……息が苦しい。ここの森は、どうしてこんなに酸素が薄いんだ。俺たちの時代は酸素濃度が三十五パーセントもあったのに、ここはたったの二十一パーセントしかないじゃないか。高山病で死にそうだ。いや、もう死んでるのか?』
「あ、あのー、アースロさん……。お辛いところすみませんが、そこ、私のデスクの電源コードなんで、あんまり脚をワサワサ絡ませないで……」
『ギチギチ! なんだこの細長いツルは! 美味いのか!? (ガジガジ)……ペッ! なんだこれ、全然腐った木の味がしない! 俺は倒木とシダ植物の胞子が食べたいんだ! こんな殺風景な四角い巣穴、乾燥してて甲殻がカサカサになる!』
見た目は完全にパニック映画のバケモノだが、言っていることは「空気が薄い」「ご飯がまずい」「乾燥肌が辛い」という、環境の変化についていけないおじいちゃんのクレームと同じだった。
「とりあえず、加湿器を全開にしますから……。食べ物は、ええと……その辺の観葉植物の腐葉土でも食べます?」
私が防毒マスク越しに恐る恐る提案した、その時だった。
ウィーン!
センターの自動ドアが、けたたましい音を立てて開いた。
「——トレビアン!! おお、神よ! なんと美しく、なんと完璧なフォルムなのだァァァッ!!」
そこに立っていたのは、つばの広い帽子を被り、虫取り網と巨大な虫眼鏡、そして分厚い観察ノートを抱えた、眼光の鋭い初老のフランス人男性だった。
歴史上最も有名な昆虫学者にして、『昆虫記』の著者、ジャン=アンリ・ファーブル。
「お、お迎えの方ですか!? 助かった、早くこの巨大ヤスデを引き取って……! マジでキツいんです!」
「ただのヤスデではない! それにしても素晴らしい! 見給え受付の青年、この規則正しく並んだ背甲の脈動を! まるで自然が作り出した動く重戦車だ! ああ、生きた(死んでいるが)アースロプレウラの生態を観察できる日が来るなんて、あの世とはなんと素晴らしい研究室なのだ!」
ファーブルは、恐怖や生理的嫌悪感など微塵も感じていない様子で、歓喜の奇声を上げながら、茶色い体液を垂らすアースロプレウラに突進していった。
『ギチッ!? な、なんだこの毛の生えた二足歩行の猿は! 俺の節を撫でるな! 気持ち悪い!』
「おおっ! 触角の動きで威嚇をしている! ノート! ノートに書き留めねば! ねえ君、もう少し脚の付け根の粘膜を見せてくれないか! 関節の可動域が知りたいのだよ!」
ファーブルは、全長二・五メートルの巨大モンスターの腹の下に潜り込もうと、悪臭を放つ床に這いつくばってグイグイと頭を突っ込み始めた。
『ゾワワワワッ!!(やめろ! どこを触っている! 変態猿! 離れろォォォ!)』
恐るべき古生代の怪物が、虫取り網を持った変態昆虫学者のセクハラから逃れるために、六十対の脚を猛烈な勢いで波打たせ、待合室を逃げ回り始めた。
「待ってくれ! 頼むから排泄の瞬間を観察させてくれ! 君のフンの成分が知りたいんだァァァッ!」
『ギエェェェェッ!! 誰か助けて! この猿、眼がガンギマリだ!!』
ドガガガガッ! メキィッ!
巨大なヤスデが受付カウンターを薙ぎ倒し、その後をファーブルが虫眼鏡を掲げながら大興奮で追いかけ回すという、地獄の鬼ごっこが迷子センターで繰り広げられていた。
「……あのー。保護者の方? 迷子、完全に怯えて逃げてますけど」
私はバインダーの盾の裏から、完全に冷え切った声でツッコミを入れた。
「何を言うか! これは種を超えたコミュニケーションだ! 私は彼を愛している! 彼の三十個の体節から分泌される液、そのすべてにキスをしたい気分だ!」
『ブシュゥゥッ!?(キスだと!? 狂ってる! こいつ狂ってるぞ!!)』
アースロプレウラはついにパニックを起こし、壁を垂直に駆け登ろうとして巨体を支えきれずにずり落ち、私のデスクの裏でワラワサと脚を震わせながら丸まってしまった。
完全に「虫取り網を持ったヤバいおじさんに追い詰められたダンゴムシ」の構図である。
「あーもう、施設がメチャクチャだし臭い! ファーブルさん、観察は三途の川の向こうでやってください! ここは生態観察用のケージじゃないんです!」
私は急いでタブレットの「引き渡し完了」ボタンを連打した。
ピロン、という電子音と共に、丸まった巨大ヤスデと変態昆虫学者の足元に、真っ白な光の道が現れる。
「さあ、私の愛しの巨大節足動物よ! あの世には、君の大好きな高濃度酸素の巨大シダ植物の森を、私が特別に用意しておいた! そこで永遠に、心ゆくまで私に観察されるがいい!」
『ギ、ギチチ……(シダの森は魅力的だが、この猿と永遠に一緒なのか……? 誰か、隕石を落として俺を絶滅させてくれ……)』
アースロプレウラは絶望的な弱音を吐きながら、ファーブルに無理やり背中に乗られ、光の道へとズルズルと引きずり込まれていった。
「受付の青年! 素晴らしい出会いをありがとう! 私は今から、『ファーブル昆虫記・古生代特別編』の執筆にとりかかるぞ! ハッハッハッ!」
「はいはい。向こうでは、あんまりストレスかけないようにしてあげてくださいね……」
狂喜乱舞するファーブルと、完全に心を折られた巨大ヤスデの姿は、光の中へとカオスな喧騒と共に消えていった。
「ふぅ……。三億年前のモンスターも、ガチの昆虫オタクの探求心と変態性の前には、ただの哀れな被検体にすぎないってことだな……」
私が、アースロプレウラがひっくり返したパイプ椅子を直し、床に散らばった謎の甲殻の欠片と体液をホウキとモップで泣きながら片付けていた、その時だった。
ピンポンパンポーン。
休む間もなく、無機質なチャイムが響き渡る。
それに続いて流れてきたアナウンスに、私は思わずため息をついた。
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦一八一八年、江戸の八丁堀からお越しの、伊能忠敬くん。享年七十三歳。……繰り返します。伊能忠敬くんをお預かりしております——』
「……はぁ!? 今度は『日本地図の父』伊能忠敬!? 自分の足で日本全国を歩き回って、初めて実測による正確な地図を作り上げた、あの超絶ストイックな測量マニアじゃないか!」
私は、慌てて「江戸時代後期の日本語」の通訳機をセットしながら、彼が待合室の端から端まで一定の歩幅で歩き回って間取り図を作り始めた時のための、メジャーと歩数計を探し始めた。
「五十五歳から十七年もひたすら歩き続けた執念の職人だぞ! 地図の完成を見届けられなかった無念でブチギレてるとか、『ここの正確な緯度と経度を教えろ!』って暴れ出すパターンに決まってる……!」
どうやら今日の冥界迷子センターも、私を平和な定時退社へと導いてくれる気は毛頭ないらしい。私は深い絶望とともに、次なる「足で稼ぐ究極の測量家」を迎える覚悟を決めた。




