第40話 トーマス・アンドリューズくん
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦一九一二年、大西洋のど真ん中からお越しの、トーマス・アンドリューズくん。享年三十九歳。……繰り返します。トーマス・アンドリューズくんをお預かりしております。心当たりのある保護者の方は、至急、冥界迷子センター第一ターミナルまでお越しください』
ピンポンパンポーン。
無機質で事務的な電子チャイムの音が、蛍光灯のチカチカと瞬く殺風景な待合室に響き渡った。
私、迷子センター受付係のナナシは、インカムの言語設定を英語に切り替えながら、受付カウンターの奥から大量のバスタオルとモップを引っ張り出した。
「……一九一二年、大西洋のど真ん中。どう考えても、あの『絶対に沈まない』と言われた、史上最も有名な豪華客船じゃないか」
待合室の床は、すでにビショビショの海水の水たまりが広がっていた。
幼児用の黄色いプラスチック製パイプ椅子の上で。
ずぶ濡れになった仕立ての良いタキシードを着て、ガタガタと激しく震えながら、手元のボロボロになった設計図を食い入るように見つめている男がいた。
「ち、違う……。隔壁の高さが足りなかったんだ……。美観を損ねるからと、救命ボートの数を減らしてしまった……。ああ、なんてことだ。私の設計が、すべて間違っていたんだ……っ!」
大西洋の冷たい海に沈んだ悲劇の豪華客船、RMSタイタニック号。
その主任設計士であり、船の欠陥にいち早く気づき、最後まで乗客をボートへ避難させるために奔走し、船と共に海へ消えた男、トーマス・アンドリューズ。
「あのー、アンドリューズさん。とりあえず、そのバスタオル被ってください。低体温症になっちゃいますよ。あ、もう死んでるから体温ないですけど。温かいアールグレイの紅茶でも飲みます?」
私が湯気を立てる紙コップを差し出すと、彼は青白い顔を上げ、血走った目で私を見つめ返した。
「紅茶など飲んでいる資格が、私にあると思うのか!?」
アンドリューズは、設計図を握りしめたまま、パイプ椅子から床に崩れ落ちた。
「私は、一五〇〇人もの命を奪った大量殺人鬼だ! 『不沈船』だと傲慢に嘯き、自然の脅威を甘く見た! 氷山にぶつかっただけで真っ二つに折れるような欠陥品を作ってしまったのだ! 私は……私はあの冷たく暗い海の底で、永遠に凍えながら裁きを受け続けなければならないんだァァッ!」
享年三十九歳。
彼をこの迷子センターに縛り付けている未練は、自分の命を落としたことへの恐怖でも怒りでもない。
純粋な技術者としての「激しい後悔」と、あまりにも重すぎる「罪悪感」だった。
彼が「設計図を最初から引き直させてくれ!」と泣き叫んでいた、その時だった。
ウィーン。
センターの自動ドアが開き、待合室に、大西洋の凍てつくような潮風が吹き込んだ。
「——いいや。君の設計した船は、私が長年海で見てきた中で、最も美しく、素晴らしい船だったよ。トーマス」
威厳に満ちた、低く落ち着いた声だった。
そこに立っていたのは、立派な白いあご髭を蓄え、海軍の礼装のようなビシッとした船長服に身を包んだ、初老の紳士だった。
彼もまた全身ずぶ濡れであったが、その背筋はピンと伸び、微塵も寒さを感じさせない堂々たる立ち姿だった。
「す……スミス船長ッ!?」
アンドリューズが、弾かれたように顔を上げた。
エドワード・スミス。
タイタニック号の初代にして最後の船長であり、沈みゆく船の操舵室に残り、船と運命を共にした伝説のキャプテンである。
「船長……! なぜあなたがここに! 私は、あなたにも顔向けができない……私の船が脆かったせいで、あなたの最後の航海を泥に塗れさせてしまった……っ!」
アンドリューズが床に額を擦り付けて謝罪すると、スミス船長は静かに首を振った。
「何を言っているんだ。悪いのは君ではない。すべて私の責任だ」
「え?」
「氷山の警告を何度も受けていたにもかかわらず、到着を急ぐあまり、減速せずに全速力で夜の海を突っ走ったのは私だ。慢心していたのは、私の方なのだ。君は悪くない」
船長が自らの非を認めると、今度はアンドリューズが顔を真っ赤にして立ち上がった。
「違います! あれは海運会社のイズメイ社長が『スピード記録を出せ』とあなたに圧力をかけていたからじゃないですか! それに、私が隔壁を天井までしっかり塞いでいれば、沈没は免れたはずです! すべて私の設計ミスのせいです!」
「いや! 海の上では船長が絶対だ! 私が『減速する』と一言命じていれば避けられた事故だ! だから責任は私にある!」
「いいえ! 救命ボートの数が足りないことを放置した私の責任です!」
「私が悪いのだ!」
「私です!!」
大西洋の冷たい海に沈んだ二人の英国紳士による、まさかの「責任の奪い合い」が待合室で勃発した。
これまでの歴史上の偉人たちは、「あいつが裏切ったせいだ!」「あいつの対応が悪かったからだ!」と他人のせいにするパターンが圧倒的に多かったが、この二人は真面目すぎて、お互いに「自分が一番悪い」と譲らないのである。
「……あのー、お二人とも」
私は完全に死んだ魚の目で、手元のモップで海水を拭きながら口を挟んだ。
「どっちが悪いかでモメてますけど、現世の歴史じゃ、一番叩かれてるのは『自分だけさっさと救命ボートに乗って逃げた海運会社のイズメイ社長』ですからね」
「「…………」」
私のドライな事実確認に、二人の英国紳士はピタリと言い争いを止めた。
「……まあ、イズメイのことは今は置いておこう」
スミス船長がコホンと咳払いをして、アンドリューズに向き直った。
「トーマス。君は、自分の作った船がただの欠陥品だと思っているのかね?」
「事実……そうではないですか」
「受付の青年、彼に教えてやってくれ。タイタニックの沈没後、現世の海はどう変わったのかを」
船長に促され、私はタブレットを操作して読み上げた。
「ええと。タイタニックの事故を教訓にして、世界で『海上における人命の安全のための国際条約(SOLAS条約)』っていうのが結ばれました。乗客全員分の救命ボートの搭載義務、24時間の無線通信の義務付け、国際的な氷山パトロール隊の結成。……あなたたちの事故のおかげで、その後の何百万、何千万という海の旅人の命が、確実に守られるようになったんです」
「なっ……」
アンドリューズは、目を丸くして絶句した。
「君の船は、決して無駄にはならなかったんだよ、トーマス」
スミス船長は、アンドリューズのずぶ濡れの肩を、その大きく温かい手でしっかりと抱いた。
「それに、世界中の人々は、百年以上経った今でも『タイタニック号』の名前を知っている。数々の映画や小説になり、人々はあの美しい船体のシルエットに永遠のロマンを見出している。……君は、人類の歴史上、最も愛される『伝説の船』を創り上げたんだ。胸を張りたまえ、我が主任設計士よ」
「せ、船長……っ!」
完璧主義の設計士の目から、大西洋の海水ではなく、熱い涙が溢れ出した。
自分が生み出した船が、ただの悲劇の象徴ではなく、未来の命を守る盾となり、永遠の美しさとして人々の心に残り続けていること。
その事実を知り、彼を縛り付けていた冷たい氷山のような罪悪感が、ゆっくりと溶けていくのを感じた。
私は無言で、タブレットの「引き渡し完了」ボタンをタップした。
ピロン、という電子音が鳴る。
すると、二人の足元に現れたのは、いつもの真っ白な光の道ではなく——豪奢なマホガニーの木材で造られ、美しいガラスドームの光に照らされた、あの有名な『タイタニック号の大階段』だった。
「おお……これは……!」
「さあ、行こうか、トーマス。上のデッキで、ウォレス・ハートリーのバンドが、君を歓迎するための曲を演奏して待っているぞ」
「はい……! 今度こそ、最後まで彼らの演奏を聴かせてもらいましょう」
船と運命を共にした二人の英国紳士は、ずぶ濡れの服のまま、誇り高く背筋を伸ばし、大階段を一段ずつ上っていく。
「受付の青年、アールグレイの紅茶、とても良い香りだった。感謝する」
「ええ。向こうの世界の航海は、絶対に沈みませんから。どうか安らかな旅を」
私が深く頭を下げると、階段の上からは、オーケストラが奏でる「主よ御許に近づかん」の美しい旋律が微かに響き、二人の姿は眩しい光の中へと完全に溶けて消えていった。
「ふぅ……。悲劇を教訓に変える人間の強さがある限り、あの船は永遠に『不沈船』なんだな」
私が、待合室の床に広がった海水を巨大なモップで絞り終え、今度こそ静かな時間が訪れると確信した、その時だった。
ピンポンパンポーン。
休む間もなく、無機質なチャイムが響き渡る。
それに続いて流れてきたアナウンスに、私はモップをバケツに突っ込んだまま完全に固まった。
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。約三億年前、古生代石炭紀のシダの森からお越しの、アースロプレウラくん。享年不明。……繰り返します。巨大ヤスデのアースロプレウラくんをお預かりしております——』
「……はぁ!? 今度は三億年前!? しかもアースロプレウラって、全長二・五メートルもある史上最大クラスの『巨大なムカデ』じゃないか!」
私は、全身の鳥肌が粟立つのを感じながら、慌てて殺虫剤を探そうとして、すぐにそれが無意味だと悟った。
「巨大昆虫!? 市販のアースジェットなんか効くわけないだろ! 待合室が完全にパニック映画のセットになっちゃう! 誰か丸めた巨大な新聞紙か、防護服を経費で落としてくれェェッ!!」
私は深い絶望と生理的な恐怖とともに、次なる「三億年前からのカオスな迷子」を迎える覚悟を決めた。




