第38話 渋沢栄一くん
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦一九三一年、日本の東京からお越しの、渋沢栄一くん。享年九十一歳。……繰り返します。渋沢栄一くんをお預かりしております。心当たりのある保護者の方は、至急、冥界迷子センター第一ターミナルまでお越しください』
ピンポンパンポーン。
無機質で事務的な電子チャイムの音が、蛍光灯のチカチカと瞬く殺風景な待合室に響き渡った。
「ハッハッハ! 皆の者、頭が高い! 日本資本主義の父、そして『新たな一万円札の顔』であるこの私に、もっと盛大な拍手とレッドカーペットを用意したまえ!」
パイプ椅子の上に仁王立ちになり、待合室の虚空に向かってドヤ顔で手を振っている恰幅の良い老人がいた。
立派なシルクハットに、仕立ての素晴らしいフロックコート。その手からは、霊体でできた「新しい一万円札」が、まるで札束風呂でもするかのようにバサバサとばら撒かれている。
五百以上の企業を設立し、日本の近代経済を築き上げた大実業家。そして、二〇二四年にめでたく新紙幣の顔に大抜擢された、渋沢栄一。
「あのー、渋沢さん。とりあえずパイプ椅子から降りてもらえます? あと、その霊体のお札、清掃の邪魔になるんでばら撒かないでください。ここはあの世の待合室ですよ」
私が冷たくツッコミを入れると、渋沢は「チッチッチッ」と人差し指を振りながら、ウザいほどの満面の笑みで私を指差した。
「受付の青年! 君は分かっていない! 私はね、ついにあの『福沢』の野郎を玉座から引きずり下ろし、日本の最高紙幣の顔に君臨したのだよ! 現世の人間どもは今頃、私の顔を見るたびに『おっ、渋沢さんだ!』と喜び、私の肖像画を有難がって財布にしまっているに違いない! ああ、自分が経済そのものになる気分は最高だ!」
「はぁ。まあ、新札が出た二〇二四年からもう二年経ちますけど、確かにキャッシュレス時代とはいえ、一万円札の顔ってのは特別なステータスですよね」
「そうだろう、そうだろう! 私が設立した五百の会社も喜んでいるはずだ! これで私も、名実ともに日本のトップ……!」
享年九十一歳という大往生を遂げたはずの彼の未練。それは、死後九十年以上経ってから突然「最高紙幣の顔」に選ばれたことによる、承認欲求と自己顕示欲のスーパーインフレだった。
彼が「よし、このあの世にも株式会社を設立して、冥界銀行券も私の顔にしてやろう!」と企画書を書き始めようとした、その時だった。
ウィーン。
センターの自動ドアが開き、ひどく重々しい、そして何よりも『疲れ切った』足音が響いた。
「——天は人の上に人を造らずと言うが……日本銀行は、人の上に『顔』を造るらしいな」
そこに立っていたのは、見慣れた着物姿に袴、そしてあの有名な「少し斜めを向いた、厳めしい顔つき」の初老の男性だった。
しかし、その顔色は恐ろしく土気色で、目の下には真っ黒なクマ。手には「学問のすゝめ」ではなく、なぜか大量の「領収書」と「栄養ドリンクの空き瓶」を握りしめている。
「ふ、福沢諭吉……!」
渋沢が、パイプ椅子の上でビクッと肩を跳ねさせた。
一九八四年から四十年もの間、日本の一万円札の顔として君臨し続け、日本国民から最も愛され、最も財布から消えることを悲しまれた男。前・一万円札の顔、福沢諭吉である。
「ふふん! 来たな敗北者め!」
渋沢は、少しビビりながらも強気に胸を張った。
「四十年間の長期政権、ご苦労だったな! だが、これからの時代はこの渋沢栄一の顔が……」
「渋沢ァ」
諭吉のドスの効いた低い声が、待合室の空気を震わせた。
「お前……『一万円札の顔』になるってことが、どういうことか分かって言ってんのか?」
「え? そ、それは、国民から絶大なリスペクトを受けて、経済の象徴として讃えられる……」
「バカヤローーーッ!!」
諭吉の怒号が爆発し、渋沢が「ヒッ!」とパイプ椅子から転げ落ちた。
「リスペクトだと!? 笑わせるな! 国民が愛してるのは私の『顔』でも『思想』でもない! ただの『購買力』だ! 私はな、この四十年間、あの世から現世の一万円札がどんな扱いを受けてるか、ずっと見せられ続けてきたんだぞ!」
諭吉は、血走った目で渋沢に詰め寄り、その胸ぐらをガシッと掴んだ。
「お前、三つ折りにされてポチ袋にギュウギュウに詰め込まれたことがあるか!? 夏場の競馬場で、汗まみれのおっさんのポケットでクシャクシャにされた屈辱が分かるか!? キャバクラで、お姉ちゃんたちの谷間にねじ込まれる私の気持ちを考えたことがあるのかァァァッ!!」
「き、キャバ、えっ!?」
「極めつけはあの悪質なイタズラだ! 私の顔を半分に折って、上に向けると『笑ってる諭吉』、下に向けると『泣いてる諭吉』とか言って遊ばれるんだぞ! 私は偉大な啓蒙思想家だぞ!? なんで宴会芸のおもちゃにされなきゃならんのだ!」
諭吉の目から、四十年分の血の涙がボロボロとこぼれ落ちる。
国民から「諭吉」と親しみを込めて呼ばれる裏側で、彼はお札の顔として、人間の欲望のありとあらゆるドロドロした現場に立ち会い、折り曲げられ、自販機に「シワがあるから」と冷酷に吐き出されるという、凄絶なブラック労働を強いられていたのだ。
「お、落ち着け諭吉! だが、今はキャッシュレスの時代だ! 昔ほど紙幣が過酷な扱いを受けることは……」
「甘い! キャッシュレスになったからこそ、『いざという時のための諭吉』として、財布の奥底で何ヶ月も放置プレイされる孤独が分かるか! たまに出番が来たと思ったら、割り勘の時に『ごめん、諭吉しかないわ』って舌打ちされるんだぞ! 私が何をしたっていうんだ!」
「ヒィィィッ……!」
「渋沢。お前はもう『渋沢栄一』という一人の人間ではない。これからの日本人はな、財布を開くたびにこう言うんだ。『あー、今月もう栄一が一枚しかないわ』『昨日飲みすぎて栄一が三人も飛んでったわ』ってな!」
「えええええええっ!? 私の名前が、そんな悲しい動詞と一緒に使われるのか!?」
渋沢の顔から、先ほどまでのドヤ顔が完全に消え失せ、代わりに圧倒的な『最高紙幣の顔としての責任と恐怖』が刻み込まれた。
「……それに、お前」
諭吉は、フッと冷たい笑みを浮かべ、渋沢の耳元で囁いた。
「私の顔には『威厳』があったから、まだギャンブルの負けも絵になった。だが、お前のお札の顔、やたらとニコニコしてるだろ? パチンコで負けて財布から抜かれる時、その満面の笑みが、負けた人間の神経をどれだけ逆撫でするか……覚悟しておけよ」
「嫌だァァァァァァッ!!」
ついに日本資本主義の父は、恐怖のあまり両手で頭を抱え、待合室の床にうずくまってガタガタと震え始めた。
「誰か、誰か代わってくれ! 聖徳太子! 聖徳太子を呼んでこい! 私はただの会社設立マニアのおじいちゃんでいいんだ! 日本の欲望を一身に背負うなんて無理だァァッ!」
「ハッハッハ! もう遅い! お前はすでに発行されてしまったのだ! ようこそ、人間の業が渦巻く一万円札の世界へ!」
有頂天だったエゴが粉砕され、絶望のどん底に落ちた渋沢を見て、私は無言でタブレットの「引き渡し完了」ボタンをタップした。
ピロン、という電子音と共に、二人の足元に真っ白な光の道が現れる。
「さあ、行くぞ新人。あの世の『歴代紙幣の顔OB会』で、新渡戸稲造や野口英世がお前の歓迎会を準備して待っている。たっぷり愚痴を聞かせてもらうからな」
「ううぅっ……! 資本主義って、こんなに恐ろしいものだったのか……っ!」
四十年の重責から解放されて清々しい顔の福沢諭吉が、完全に心を折られた渋沢栄一の襟首をヒョイと掴み、ズルズルと光の中へ引きずり始めた。
「受付の青年! これからは彼が『一万円』だ。せいぜい大事に使ってやってくれ!」
「はーい。でも私、給料は電子マネー振り込みなんで、お札はあんまり見ないんですけどね」
私が冷たく答えると、渋沢の「うおおおん! キャッシュレス化万歳ィィ!」という情けない叫び声が響き、二人の姿は光の中へと完全に溶けて消えていった。
「ふぅ……。偉人としてお札の顔になるってのも、プライバシーも尊厳もない、究極のブラック労働なんだな」
私が、渋沢がばら撒いた霊体のフェイク一万円札をホウキで掃き集め、今度こそ定時退社の準備をしようとタイムカードに手を伸ばした、その時だった。
ピンポンパンポーン。
休む間もなく、無機質なチャイムが響き渡る。
それに続いて流れてきたアナウンスに、私はタイムカードを握り潰しそうになった。
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦一〇一四年頃、日本の平安京からお越しの、紫式部ちゃん。享年不明。……繰り返します。紫式部ちゃんをお預かりしております——』
「……はぁ!? 今度は平安時代!? しかも日本文学の最高傑作『源氏物語』の作者、紫式部じゃないか!」
私は、慌てて「平安時代の古語」通訳機をセットしながら、彼女が長文でネチネチと愚痴を書き殴り始めた時のための、大量の和紙と筆を探し始めた。
「華やかな恋愛小説を書いた天才だけど、本人の日記は同業者へのマウントと悪口だらけの筋金入りの陰キャだぞ! 絶対に『私の作品の深さを誰も理解してくれない!』っていう、クリエイター特有の特大の闇と承認欲求を持ち込んでくるに決まってる……!」
どうやら今日の冥界迷子センターも、私を平和な定時退社へと導いてくれる気は毛頭ないらしい。私は深い絶望とともに、次なる「平安の病み系大先生」を迎える覚悟を決めた。




