第36話 ニュートンくん
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦一七二七年、グレートブリテン王国のケンブリッジ、トリニティ・カレッジからお越しの、アイザック・ニュートンくん。享年八十四歳。……繰り返します。ニュートンくんをお預かりしております。心当たりのある保護者の方は、至急、冥界迷子センター第一ターミナルまでお越しください』
ピンポンパンポーン。
無機質で事務的な電子チャイムの音が、蛍光灯のチカチカと瞬く殺風景な待合室に響き渡った。
私、迷子センター受付係のナナシは、英語の通訳機をインカムにセットしながら、待合室の異様な光景に深くため息をついた。
「リンゴ! リンゴ! どいつもこいつもリンゴリンゴと! 私は果物屋の回し者ではないのだぞォォォッ!!」
受付カウンターの向こう側。幼児用の黄色いプラスチック製パイプ椅子を蹴り飛ばし、立派な巻き髪のカツラを振り乱して激怒している初老の紳士がいた。
近代物理学の基礎を築き、宇宙の謎を数式で解き明かした人類史上最高の天才科学者、アイザック・ニュートン。
「私はな! 微積分法を創始し、光のスペクトルを解明し、万有引力の法則を導き出し、『プリンキピア』という人類の至宝を書き上げたのだ! それなのに、後世の連中が私について覚えているのは『木からリンゴが落ちるのを見て引力を思いついた』という、子供向けの絵本のようなエピソードだけではないか!」
「あのー、ニュートンさん。まあまあ落ち着いて。分かりやすくてキャッチーな逸話の方が、歴史には残りやすいんですよ。とりあえず、リンゴジュースでも飲みます?」
私が気を使って紙コップを差し出すと、ニュートンは血走った目で私をギロリと睨みつけた。
「貴様も私をバカにする気か! だいたい、リンゴが頭にぶつかったなんてのは完全な後世の作り話だ! 私はただ、庭で落ちるリンゴを見て『なぜ月は落ちてこないのか』と宇宙規模の思考を巡らせていただけだ! それなのに、現世の教科書では私がマヌケにも頭を打って閃いたかのような挿絵ばかり! 私の尊厳はどこにあるのだ!」
享年八十四歳。
物理法則そのもののような天才を縛り付ける未練は、「自分の偉大すぎる業績が、リンゴ一個というあまりにもポップなイメージに上書きされてしまった」という、理系トップエリートゆえの強烈なプライドと不満だった。
彼が「こうなったらあの世の重力定数を書き換えてやる!」とホワイトボードに数式を書き殴り始めた、その時だった。
ウィーン。
センターの自動ドアが開き、土の匂いと、甘酸っぱい爽やかな香りが待合室に吹き込んだ。
「——わいは! ニュートン先生だべさ! やっと会えたじゃあ!」
そこに立っていたのは、立派な科学者でも、王侯貴族でもなかった。
頭にタオルを巻き、泥のついた作業着と長靴を履いた、見るからに頑固そうな初老の日本人男性だった。その両手には、艶やかに真っ赤に輝くリンゴがぎっしり詰まった木箱が抱えられている。
「な、なんだこの平民は! 言葉がまったく分からんぞ! 英語圏の人間ではないのか!?」
「あ、すみません。通訳機のモードを『青森の津軽弁』に切り替えますね」
私がインカムを操作すると、農家の男性は木箱をドンッと床に置き、ニュートンの手をとってブンブンと上下に激しく握手した。
「おら、青森でリンゴ農家やってるもんだ! 先生が実家で見てたあの『ニュートンのリンゴの木』、枝分けされて日本の研究施設にも来てるんだど! おらたちリンゴ農家にとっちゃ、先生は『リンゴを世界一有名にしてくれた大恩人』だべさ!」
「ええい、離せ! だから私はリンゴのアンバサダーではないと言っているだろうが! 私は物理学者だぞ! なぜ私が極東の果樹園の農夫に感謝されねばならんのだ!」
ニュートンがブチギレて手を振り払うと、農家のおじさんは「まあまあ、そう怒らねで」と、木箱からひときわ大きく、ピカピカに輝くリンゴを一つ取り出した。
「先生は、リンゴが落ちるのを見て引力ば見つけたんだべ? でもな、おらたち農家は、その『引力』と戦いながらリンゴば育ててるんだ」
「引力と……戦うだと?」
「んだ。秋になって実が重くなれば、先生の言う引力で枝が折れたり、地面に落ちちまう。だから科学の力を使って、枝の角度を計算して剪定し、太陽の光が全部の実の表面に均等に当たるように葉っぱを摘むんだ。先生が光の屈折ば見つけたように、おらたちも光を計算して、この真っ赤な色ば作ってんだぞ」
農家のおじさんは、誇らしげにリンゴを布でキュッキュと磨き、ニュートンの胸にドンと押し付けた。
「これはただの果物じゃねえ。人間の知恵と、科学と、執念が詰まった『サンふじ』だ! 騙されたと思って、一口食ってみろ!」
ニュートンは、押し付けられた赤い球体をまじまじと見つめた。
その表面は完璧なまでに滑らかで、まるで芸術品のように均整の取れた球体を描いている。
「……ふん。ならば、その『科学』とやらを検証してやろうではないか」
天才物理学者は、疑り深い目でリンゴを口に運び、ガリッと一口かじった。
瞬間。
「……な、なんだこれはァァァッ!?」
ニュートンの目が見開かれ、カツラがズレるほど激しく後ずさった。
「こ、この果汁の圧倒的な糖度! 酸味との完璧な黄金比! シャキシャキとした細胞壁の絶妙な硬度! 私の家の庭に落ちていた、あの酸っぱくて硬いだけの野生のリンゴとは次元が違う! これは、自然の産物などではない! 極限まで最適化された、農業工学という名の『究極の科学の結晶』ではないか!」
「だべ!? うめぇべ!?」
「うむ! これほどまでに緻密に計算され尽くした質量と糖度の塊ならば、私の万有引力の法則のアイコンとして後世に残るのも、決して悪い気はしない! むしろ光栄だ!」
人類最高の頭脳が、青森のリンゴの美味さの前で、あっさりと手のひらを返した瞬間だった。
私は無言で、こぼれたリンゴジュースのシミをモップで拭きながら、タブレットの「引き渡し完了」ボタンをタップした。
ピロン、という電子音と共に、二人の足元に真っ白な光の道が現れる。
「さあ、行くべ先生! あの世の畑は重力が現世と違うから、新しい剪定の計算式、先生に作ってほしいんだわ!」
「任せたまえ! あの世の重力定数に合わせて、最も美味いリンゴができる軌道計算を導き出してやろう!」
大天才と青森のリンゴ農家は、肩を組み、シャリシャリとリンゴをかじりながら、光の道へと楽しげに歩き出していく。
「受付の青年! リンゴは偉大だ! 宇宙の真理は、すべてこの甘みの中に詰まっているぞ!」
「はいはい。向こうの世界でも、美味しいリンゴをたくさん作ってくださいね」
私が深く会釈をすると、万有引力の呪縛から解放された天才と農家は、笑い声を響かせながら光の中へと完全に溶けて消えていった。
「ふぅ……。結局、どんなに難解な物理法則も、農家のおっちゃんが丹精込めた『美味いもの』の引力の前じゃ、ただの計算式にすぎないってことだな」
私が、ニュートンが残していった木箱のリンゴを一つ手に取り、定時後の楽しみにしようと引き出しにしまった、その時だった。
ピンポンパンポーン。
休む間もなく、無機質なチャイムが響き渡る。
それに続いて流れてきたアナウンスに、私は思わずリンゴを落としそうになった。
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦……ええと、年代不明。場所不明。お名前、アーサー王くん。享年不明。……繰り返します。円卓の騎士を率いるアーサー王くんをお預かりしております——』
「……はぁ!? 今度はアーサー王!? って、それ完全に『神話や伝説』の人物じゃないか! 架空の存在まで迷子センターに来るのかよ!」
私は、もはや歴史の枠すら飛び越えた案内に頭を抱えながら、彼が聖剣エクスカリバーで受付カウンターを両断し始めた時のためのシールドを探し始めた。
どうやら今日の冥界迷子センターも、私を平和な定時退社へと導いてくれる気は毛頭ないらしい。私は深い絶望とともに、次なる「伝説の王」を迎える覚悟を決めた。




