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冥界迷子センター  作者: てっぺい


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第33話 ライカちゃん

『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦一九五七年、ソビエト連邦、地球軌道上のスプートニク二号からお越しの、ライカちゃん。犬。享年推定三歳。……繰り返します。ライカちゃんをお預かりしております。心当たりのある保護者の方は、至急、冥界めいかい迷子センター第一ターミナルまでお越しください』


 ピンポンパンポーン。

 無機質で事務的な電子チャイムの音が、蛍光灯のチカチカとまたたく殺風景な待合室に響き渡った。


 私、迷子センター受付係のナナシは、犬用の高級ジャーキーと、いざという時のための長い虫取り網を握りしめ、受付カウンターからそっと顔を出した。


「あれ? ……いないぞ?」


 幼児用の黄色いプラスチック製パイプ椅子の周りには、犬の姿はなかった。


 まさか自動ドアの隙間から逃げ出したのかと焦って見回した、その時だった。


「ワンッ! キャン、キャンッ!」


 頭上から、弾むような無邪気な鳴き声が降ってきた。


 見上げると、待合室の天井付近の空中に、一匹の小柄な犬がプカプカと浮かんでいた。


 白地に茶色のブチ模様がある、雑種の愛らしい犬。彼女は重力を無視して、まるで水の中を泳ぐように短い四肢をパタパタと動かしながら、キラキラと光る小さな隕石の破片を咥えて遊んでいる。


 地球上のあらゆる生命の中で初めて、宇宙空間へと飛び立った犬。ライカ。


「……お前、あの世に来てまで無重力状態を引きずってるのか」


 私は網を下ろし、ほっと息をついた。

 彼女が乗せられたスプートニク二号には、地球へ帰還するための装置は最初からついていなかった。文字通りの「片道切符」。彼女は冷たく暗い宇宙空間で、急激な室温上昇と極度のストレスにより、打ち上げからわずか数分間で命を落としたとされている。


 どんなに恐ろしく、苦しい最期だったか。

 しかし、目の前でプカプカと浮かぶ彼女の姿に、恨みや苦痛の影は微塵もなかった。


「ほーら、ライカ。おやつだぞ。降りておいで」


 私がジャーキーを掲げて見せると、ライカは「クゥン?」と首を傾げ、空中で器用にくるりと宙返りをして見せた。まるで「こっちのほうが楽しいよ!」と言わんばかりだ。


 動物の魂は純粋だ。宇宙開発競争という人間のエゴで命を奪われた悲劇の犬であっても、彼女自身はただ「大好きな人間たちに言われた通り、カプセルに乗ってお仕事をしただけ」なのだから。


 ウィーン。

 その時、センターの自動ドアが開き、ドタドタと慌ただしい足音が響いた。


「——ライカッ!!」


 そこに立っていたのは、分厚い眼鏡をかけ、白衣を着た白髪の老人だった。


 彼は天井近くで浮かぶライカの姿を見つけた瞬間、その場にガクンと膝をつき、ボロボロと大粒の涙をこぼし始めた。


 冷戦時代、ソ連の宇宙開発を牽引し、ライカを直接ロケットに乗せた科学者チームの一人である。


「ライカ……おお、ライカ……! すまない、本当にすまなかった……っ!」


 老いた科学者は、冷たいリノリウムの床に額をこすりつけんばかりにして慟哭どうこくした。


「私たちは、国家の威信のために君を犠牲にした! 君が二度と地球に帰れないと知っていながら、狭く熱いカプセルに閉じ込めて、暗い宇宙へと追放したのだ! 言葉の通じない君を騙して……私は、私たちは、なんて残酷な罪を……っ!」


 人類の科学の発展の裏で、見殺しにされた小さな命。

 栄光の陰で、彼らは生涯その罪悪感にさいなまれ続けていた。死してあの世へ来てからも、この「最も孤独な宇宙飛行士」へ謝罪することだけが、彼を縛る強い未練だったのだ。


「ワンッ!」


 床に伏して泣き崩れる科学者の声を聞き、ライカは空中で短い尻尾をパタパタと振った。


 そして、空気を蹴るようにしてスゥッと床へ向かって降りてくると、泣いている老人の鼻先に、咥えていた隕石のボールをポトリと落とした。


「……え?」

 老人が涙に濡れた顔を上げる。


「キュゥゥン。ハッ、ハッ、ハッ」


 ライカは、科学者の顔をペロペロと舐め回し、「早くそのボールを投げてよ!」とでも言うように、前足を揃えてお座りをした。


(人間たちの難しいことは分からないわ。でも、お星さま、とっても綺麗だったよ! ちょっと暑くて怖かったけど、お仕事頑張ったでしょ? だから、また一緒に遊ぼう!)


 言葉を持たない犬の魂の声が、静かな待合室の空気を震わせた。


「君は……恨んでいないのか? 自分を見殺しにした、この残酷な人間たちを……」


 科学者が震える手でライカの頭を撫でると、彼女は気持ちよさそうに目を細め、老人の白衣の袖に顔をすり寄せた。


 犬は、東西冷戦も、宇宙開発競争も知らない。

 モスクワの路地裏を彷徨さまよっていた自分を拾い上げ、ご飯をくれ、名前を呼び、優しく撫でてくれたこの『白衣の人間たち』の温もりだけが、彼女にとっての「世界」のすべてだったのだ。


「うおおおおっ……! ライカ! いい子だ、君は本当に、世界で一番勇敢で優しい子だ……っ!」


 老人は、宇宙服の代わりに何も身につけていない柔らかなライカの体を、きつく、きつく抱きしめて号泣した。ライカもまた、大好きな飼い主にようやく再会できた喜びで、千切れんばかりに尻尾を振っている。


 私は無言で、持っていた高級ジャーキーをそっと老人の白衣のポケットに滑り込ませ、タブレットの「引き渡し完了」ボタンをタップした。


 ピロン、という電子音と共に、一人と一匹の足元に真っ白な光の道が現れる。


 しかし、その光の道はいつもの無機質なものではなく、足元から宇宙の果てまで続くような、無数の星々がきらめく『銀河の道』となっていた。


「さあ、帰ろう、ライカ。これからはずっと一緒だ。君が走り回れるくらい、うんと広い公園へ行こう」


「ワンッ!」


 ライカは隕石のボールを口にくわえ直し、星屑の道を弾むように駆け出した。科学者もその後を追い、二人の姿は美しい星空の彼方へと溶けて消えていった。


「ふぅ……。宇宙の暗闇より深い絶望も、犬の純粋な愛の前じゃ敵わないな」


 私が目元を拭い、宙に浮遊して残っていたライカの抜け毛をコロコロで掃除しようとした、その時だった。


 ピンポンパンポーン。

 休む間もなく、そして私の感動の余韻を容赦なくぶち壊す、無機質なチャイムが響き渡る。


 それに続いて流れてきたアナウンスに、私はコロコロの柄を思わずへし折りそうになった。


『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦一八五八年、アメリカ合衆国のニューヨークからお越しの、マシュー・カルブレイス・ペリーくん。享年六十三歳。……繰り返します。ペリーくんをお預かりしております——』


「……はぁ!? 今度は黒船でやってきたペリー提督!? 幕末の日本をパニックに陥れたおっさんじゃないか!」


 私は、慌てて英語の通訳機をセットしながら、センターの自動ドアの方をおびえた目で睨みつけた。


「絶対、あの世の入国審査で『開国シテクダサイ!』ってドアを無理やりこじ開けようとしてトラブルになったパターンだろ! なんでよりによって、この物理法則が脆弱な迷子センターに来るんだよ!」


 どうやら今日の冥界迷子センターも、私を平和な定時退社へと導いてくれる気は毛頭ないらしい。私は深い絶望とともに、次なる「強引すぎる外交官」を迎える覚悟を決めた。

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