第32話 徳川家康くん
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦一六一六年、駿府城からお越しの、徳川家康くん。享年七十五歳。……繰り返します。家康くんをお預かりしております。心当たりのある保護者の方は、至急、冥界迷子センター第一ターミナルまでお越しください』
ピンポンパンポーン。
無機質で事務的な電子チャイムの音が、蛍光灯のチカチカと瞬く殺風景な待合室に響き渡った。
私、迷子センター受付係のナナシは、戦国時代最大の『勝ち組』にして大往生を遂げたはずの男が、なぜ迷子になっているのか、その理由を察して深くため息をついた。
「嫌じゃ……絶対に行きたくない……! あの世の扉を開けたら、信長公と秀吉が腕組みをして待ち構えているに決まっておる……! わしは、わしはただ健康に気をつけて長生きしただけなのに……っ!」
幼児用の黄色いプラスチック製パイプ椅子の上で、恰幅の良い七十五歳のタヌキ親父が、ガタガタと震えながら膝を抱えていた。
自ら調合した薬を愛飲し、誰よりも慎重に、誰よりも長く生き延びて、最終的にすべての天下をかっさらった江戸幕府初代将軍、徳川家康。
「あのー、家康さん。とりあえず、あなたが大好きな苦〜い健康茶、淹れましたんで飲みます? 胃に優しいやつです」
私が紙コップを差し出すと、家康はビクッと体を震わせ、疑り深い目で私と紙コップを交互に見つめた。
「毒は……入っておらんよな? わしは騙されんぞ! これは三成の差し金か!? それとも真田か!? だいたい、わしは迷子ではない! 自らの意志で『あの世へのチェックイン』を意図的に遅らせているだけじゃ!」
「それを世間では迷子って言うんですよ。それに、あなたがどんなに慎重に生きようが、最終的に豊臣家を滅ぼして天下を取ったんだから、向こうの世界の『戦国OB会』で気まずい思いをするのは避けられませんって」
「ううぅ……っ! だから行きたくないんじゃ! あいつら絶対怒ってるもん! 特に信長公! あの人、理不尽にキレるから怖いんじゃ! わし、絶対に火あぶりにされる!」
享年七十五歳。
二百六十年続く泰平の世を築いた大権現の未練。それは天下への執着などではなく、「かつて自分が裏切ったり、出し抜いたりしたヤバい元上司たちに会うのが死ぬほど怖い」という、あまりにもリアルすぎる『OB会への恐怖』だった。
彼が「仮病を使ってあの世の入国審査をやり過ごせないか」とブツブツ考え始めた、その時だった。
ウィーン。
センターの自動ドアが開き、待合室の空気を一瞬で凍らせるような、重く、絶対的な覇者の足音が響いた。
「——竹千代ォ! 遅いぞ! いつまで待たせる気じゃ!」
そこに立っていたのは、西洋のビロードの外套を羽織り、威風堂々と腕を組んだ第六天魔王、織田信長だった。
「ヒィィィッ!! の、ののの、信長公ォォォッ!!」
家康はパイプ椅子から転げ落ち、リノリウムの床に額をめり込ませる勢いで土下座した。
「申し訳ございませぬ! 豊臣を滅ぼしたのも、天下を取ったのも、すべては成り行きで! 魔が差したというか、その、健康で長生きしてたら周りが勝手に自滅していっただけで……っ!」
「そうだそうだ! 言い訳が見苦しいぞ、この古ダヌキめ!」
「えっ?」
信長の背中から、ひょっこりと顔を出した男がいた。
水色の桔梗紋が入った羽織を着た初老のインテリ武将——明智光秀である。
光秀は、信長の大きな背中にぴったりと隠れるようにして立ち、家康に向かってこれ見よがしに指を突きつけた。
「上様を差し置いて天下を取るなど、不届き千万! 上様が海よりも広いお心でお許しになっても、この明智十兵衛光秀が許さん!」
信長と劇的な和解を果たした結果、光秀は「裏切り者」から「世界一の信長ガチ勢」へとクラスチェンジを果たし、信長の金魚のフンと化していた。
「み、光秀殿!? なんで貴殿が信長公の後ろでドヤ顔しておるんじゃ! 本能寺で謀反を起こしたのは貴殿であろうが!」
「ふふん! 私と上様の間には、言葉など不要の深い絆があるのだ! お前のような、健康オタクのタヌキと一緒にしないでいただきたい! ねえ、上様!」
「光秀、うるさいぞ。耳元でギャーギャー喚くな」
「ははァッ! 申し訳ございませぬ!」
光秀は秒で平伏し、再び信長の背後にシュバッと隠れた。
かつての同盟者と、かつての暗殺者。
そのカオスすぎる関係性に、家康は混乱で白目を剥きそうになっていた。
「……で、竹千代よ」
信長が、土下座して震える家康の前にゆっくりと歩み寄る。
家康は「ついに火あぶりにされる」と覚悟を決め、ギュッと目を瞑った。
ポン。
信長の無骨な手が、家康の丸い背中を、乱暴に、しかし優しく叩いた。
「……よくやったな」
「……え?」
家康が恐る恐る顔を上げる。
「わしが死に、サルの野郎が引っかき回したこの国を……最後まで残って、よくぞ平定した。あの人質でメソメソ泣いていた竹千代が、二百年以上も続く泰平の世の礎を築くとはな。……わしの目に、狂いはなかったわ」
信長の口元には、かつての魔王としての残虐な笑みではなく、頼もしい弟分を心から誇るような、清々しい笑みが浮かんでいた。
「の、信長公……っ。怒って、おられないのですか……?」
「バカめ。あの世に来てまで、現世の領地だの天下だのに執着して何になる。そんなものは、生きている奴らが勝手に奪い合えばよいのだ」
「そ、その通りです! 上様のおっしゃる通り! さすが上様、スケールが違う! 家康殿、上様の海より深い慈悲に感謝することですね!」
背後で光秀が、さも自分の手柄のようにドヤ顔で頷いている。
「だいたい、あの世じゃサルの奴、利休に毎日地獄の茶会に引きずり回されておって、OB会どころじゃないわ! 気にするな!」
その言葉を聞いた瞬間、家康を縛り付けていた「天下人としての重圧」と「OB会への恐怖」が、嘘のようにスゥッと消え去っていった。
彼はもう、狡猾なタヌキ親父を演じる必要はないのだ。
「おおおっ……! 信長公ォォッ! わし、わし、本当はめちゃくちゃしんどかったんです! 関ヶ原も大坂の陣も、胃が痛くて痛くて! 毎日トイレにこもって漢方薬飲んで……っ!」
家康は七十五歳の大号泣をかまし、信長のビロードのマントにすがりついた。
「こらこら、鼻水をなすりつけるな! まったく、いくつになっても泣き虫の竹千代よのう!」
「そうですぞ! 上様のマントが汚れるではないか! 私が上様のために、最高級のシルクで織らせた……あっ、家康殿、私の羽織で鼻をかんでいいですからね! ほら!」
光秀が、信長に怒られる前に即座に態度を翻し、自分の羽織を差し出している。
私は無言で、カウンターの奥からタブレットの「引き渡し完了」ボタンをタップした。
ピロン、という電子音と共に、三人の足元に真っ白な光の道が現れる。
「さあ、行くぞ竹千代! あの世には、お前の知らん南蛮の珍しい薬草がたくさんあると聞くぞ! 一緒に探してやろう!」
「はいっ! どこまでもお供いたします、信長公!」
「お待ちください上様ァ! 私という最高のお供がいるのに! あっ、家康殿、私の足を踏まないで! 私が上様の真後ろを歩くんですからね!」
かつての魔王、その命を奪った暗殺者、そして最終的な天下人。
日本史を熱くした英傑たちは、まるで修学旅行ではしゃぐ学生のように、やかましくも楽しげに光の道へと歩き出していく。
「受付の兄ちゃん! 健康茶、うまかったぞ! 達者でな!」
家康が満面の笑みで手を振った。
「ええ。向こうでは、胃薬のいらない平和な日々を送ってくださいね」
私が深く会釈をすると、歴史の重圧から解放された三人の背中は、光の中へと完全に溶けて消えていった。
「ふぅ……。結局、どんなに天下を取って成功しても、一番怖いのは『昔のヤバい先輩』で、一番嬉しいのも『その先輩に褒められること』なんだな」
私が、家康が残していった紙コップをゴミ箱に捨て、大きく伸びをした、その時だった。
ピンポンパンポーン。
休む間もなく、無機質なチャイムが待合室に響き渡る。
それに続いて流れてきたアナウンスに、私は思わず持っていたゴミ袋を床に落としそうになった。
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦一九五七年、ソビエト連邦、地球軌道上のスプートニク二号からお越しの、ライカちゃん。犬。享年三歳。……繰り返します。ライカちゃんをお預かりしております——』
「……って、今度はソ連の宇宙犬!? しかも地球軌道上からって、スケールがついに宇宙規模になってるじゃないか!」
私は、ハチ公やシュレディンガーの猫の時のドタバタを思い出しつつ、待合室の天井付近を無重力でフワフワ浮き回りそうな迷子を捕獲するため、慌てて虫取り網と犬用のジャーキーを探し始めた。
「片道切符で宇宙に打ち上げられた、孤独で勇敢な犬だぞ! 人間の都合に振り回された……切ない未練を抱えてるに決まってる……!」
どうやら今日の冥界迷子センターも、私を平和な定時退社へと導いてくれる気は毛頭ないらしい。私は深い悲壮感とともに、次なる「宇宙からの小さな迷子」を迎える覚悟を決めた。




