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冥界迷子センター  作者: てっぺい


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第30話 シュレディンガーの猫ちゃん

『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦一九三五年、オーストリアのウィーンからお越しの、お名前のない猫ちゃん。享年不明。……繰り返します。現在、生死が重なり合った状態の猫ちゃんをお預かりしております。心当たりのある保護者の方は、至急、冥界めいかい迷子センター第一ターミナルまでお越しください』


 ピンポンパンポーン。

 無機質で事務的な電子チャイムの音が、蛍光灯のチカチカとまたたく殺風景な待合室に響き渡った。


 私、迷子センター受付係のナナシは、備品の「ちゅ〜る」を片手に、恐る恐る受付カウンターから顔を出した。


「にゃーん……フシャーッ! にゃ、にゃご……シャーッ!!」


 いつもの黄色いプラスチック製パイプ椅子の上で、前代未聞のバグが発生していた。


 そこに丸まっている一匹の猫が、ノイズが走る古いブラウン管テレビのように、点滅しているのだ。


 ある瞬間には、毛並みのツヤツヤした可愛らしいトラ猫として喉を鳴らし。次の瞬間には、骨と皮だけになった青白い幽霊猫として虚空を威嚇いかくしている。


 生きている状態と、死んでいる状態。

 それが1秒間に何十回も入れ替わり、物理法則が崩壊した「重ね合わせ」のバグを引き起こしていた。


「あのー、猫ちゃん。とりあえずこれ食べる? まぐろ味なんだけど」


 私が点滅する猫の鼻先にちゅ〜るを絞り出すと、生きている状態の猫が「ペロリ」と舐めた。しかし、飲み込もうとした瞬間に幽霊猫へとステータスが切り替わり、ちゅ〜るはポトッと床をすり抜けて落ちてしまった。


「あーもう! 食べこぼしで床が汚れる! あの世のサーバーの処理落ちか!? 早く誰か、このバグ猫の『観測』を確定させてくれ!」


 私がモップで床のちゅ〜るを拭き取ろうとした、その時だった。


 ウィーン!

 センターの自動ドアが、勢いよく開いた。


「おおおっ! 見事だ! 見事に重なり合っているじゃないか!」


 丸眼鏡をかけ、蝶ネクタイにスリーピースのスーツを上品に着こなした初老の紳士が、歓喜の声を上げながら駆け込んできた。


 量子力学の基礎を築いたノーベル物理学賞受賞者にして、この世で最も有名な「思考実験」の提唱者、エルヴィン・シュレディンガーその人である。


「受付の青年、見たまえ! この猫は今、ミクロの量子世界でしか起き得ない現象をマクロな肉体で体現している! 『生きている状態』と『死んでいる状態』が完全に半々で重なり合っている、絶対的な『波束はそくの収縮』が起きる前の完全なる姿なのだよ!」


 シュレディンガーはパイプ椅子の前でひざをつき、興奮のあまり黒板のチョークを握るような手つきで虚空に数式を描き始めた。


「いや、計算式とかどうでもいいんで」

 私は死んだ魚の目で、手元のタブレットをスワイプした。


「シュレディンガーさん。ここ、あの世の待合室なんで。迷子としてここに来てる時点で、生死の確率はフィフティ・フィフティじゃなくて『一〇〇パーセント死んでる』んですよ。あなたの思考実験のせいで、この子の魂が『自分が死んだのか生きているのか』エラーを起こして迷子になってるんです」


「なっ……エラーだと!?」


「はい。だいたい、毒ガス発生装置と放射性物質と一緒に密閉された鋼鉄の箱に閉じ込められるなんて、猫からしたらただの虐待ですからね。そりゃトラウマで魂もバグりますよ」


 私が冷たく事実を突きつけると、シュレディンガーは「うっ……」と息を呑み、点滅する猫を見つめた。


「にゃーん……(すりすり)……シャーッ!(ガタガタ)」


 猫は、シュレディンガーの足元に擦り寄ろうとしては、箱の中の恐怖を思い出して幽霊状態になり、怯えて震えるのを繰り返していた。


「……私は」

 シュレディンガーの顔から、科学者としての興奮がスゥッと消え去った。


「私は量子力学の矛盾を論破するために、ただの『思考の道具』としてこの猫を生み出した。計算式の中の変数としてしか、この子を見ていなかった。……この子が、温かい血の通った、でられたいと願う一つの命だという『当たり前の事実』を、観測しようとしていなかったのだ」


 天才物理学者は丸眼鏡を外し、床に両膝をついた。

 そして、高速で点滅し、怯える猫に向かって、ゆっくりと両手を差し伸べた。


「ごめんよ。もう、暗くて狭い箱の中にはいない。毒の瓶も、放射線もない。……君は、ここにいる。私が今、この手で、君という存在を確かに『観測』しよう」


 シュレディンガーの震える手が、猫の頭をそっと撫でた。


 その瞬間。

 ピタッ、と。


 激しい点滅が止まり、猫の姿は半透明ながらも、輪郭のはっきりとした「可愛らしい幽霊猫」のステータスへと完全に固定された。確率の波が収縮し、一つの穏やかな魂として確定したのだ。


「にゃーん!」


 猫は嬉しそうに喉をゴロゴロと鳴らし、シュレディンガーの手に頭をスリスリと擦り付けた。


「おお……おお! なんて温かく、なんて愛おしい質量なのだ! 物理法則などどうでもいい、君は世界で一番可愛い猫だ!」


 大の大人——それも人類の歴史に名を残す天才物理学者が、床に這いつくばって「猫吸い」を始める勢いでデレデレに溶けている。


 私は無言で、手元に残っていたちゅ〜るをシュレディンガーに渡し、タブレットの「引き渡し完了」ボタンをタップした。


 ピロン、という電子音と共に、一人と一匹の足元に真っ白な光の道が現れる。


「さあ、行こうか! 君にはまだ名前がなかったね。向こうの世界で、一番素敵な名前を一緒に考えよう!」


「にゃご〜!」


 シュレディンガーは愛猫を大切そうに腕に抱きかかえ、私が渡したちゅ〜るを少しずつ舐めさせながら、光の道へと歩き出していった。


「受付の青年! 世話になった! この宇宙のどんな難解な理論よりも、猫の肉球のほうが真理に近かったよ!」


「はいはい。向こうでは箱の中に閉じ込めないで、たっぷり可愛がってあげてくださいね」


 私が軽く会釈をすると、物理法則のバグから解放された天才と猫は、幸せそうな笑い声と鳴き声を響かせながら、光の中へと溶けて消えていった。


「ふぅ……。結局、量子力学の極致も『ちゅ〜る』と『猫吸い』の引力には勝てないってことだな」


 私が床に落ちたちゅ〜るのシミを拭き終わり、今度こそ平和な定時退社を迎えられると大きく深呼吸をした、その時だった。


 ピンポンパンポーン。

 休む間もなく、無機質なチャイムが待合室に響き渡る。


 それに続いて流れてきたアナウンスに、私はモップの柄を思わずへし折りそうになった。


『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦一五六六年、フランスのサロン・ド・プロヴァンスからお越しの、ミシェル・ノストラダムスくん。享年六十二歳。……繰り返します。ノストラダムスくんをお預かりしております——』


「……はぁ!? 今度はルネサンス期の大預言者かよ!」


 私は、フランス語の通訳機を慌ててセットしながら、彼が「人類滅亡の予言」を外したことへの強烈な未練で暴れ出すのではないかと、頭を抱えた。


「一九九九の年、七の月、空から恐怖の大王が来る……って、結局何も来なくて、現世じゃすっかり『壮大な肩透かしを食らわせたおじさん』扱いだぞ! 絶望して変な四行詩を待合室の壁に書き殴り始めたりしないだろうな……!」


 私は深い絶望とともに、「予言を外してしまった大物」を迎える覚悟を決めた。

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