第27話 ニーチェくん
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦一九〇〇年、ドイツ帝国のヴァイマルからお越しの、フリードリヒ・ニーチェくん。享年五十五歳。……繰り返します。ニーチェくんをお預かりしております。心当たりのある保護者の方は、至急、冥界迷子センター第一ターミナルまでお越しください』
ピンポンパンポーン。
無機質でどこか気の抜けた電子チャイムの音が、蛍光灯の瞬く殺風景な待合室に響き渡る。
「あり得ない! こんな空間は絶対に存在してはならない! 神は死んだのだ! キリスト教的な背後世界など、弱者たちが現世の苦しみから逃避するために作り上げた『怨恨』の産物にすぎない! ここは私の脳が作り出した、最後の幻覚だ!」
黄色いパイプ椅子を蹴り飛ばし、待合室のど真ん中で立派な口髭を震わせながら絶叫している男がいた。
ボサボサの髪に、狂気と熱を帯びた深い瞳。晩年の精神崩壊の影響か、衣服は乱れ、ひどく虚ろな表情と激しい怒りを数秒おきに繰り返している。
西洋哲学の歴史をぶち壊し、「神は死んだ」「超人」などのパワーワードで現代にまで圧倒的な影響を与え続ける孤高の哲学者、フリードリヒ・ニーチェ。
「あのー、ニーチェさん。幻覚じゃなくて、バッチリ死後の世界なんですよここ。あなたの哲学を全否定するようで申し訳ないんですけど、とりあえず事実を受け入れて、温かいココアでも飲みます?」
私が甘いココアを紙コップで差し出すと、ニーチェは立派な髭を逆立てて私を睨みつけた。
「同情などいらん! 同情は弱者の道徳だ! 私は運命を愛する! 『永劫回帰』の無意味な繰り返しの中であっても、自らの意志で価値を創造する『超人』なのだ! このような安っぽい待合室で、甘ったるい飲み物など……!」
享年五十五歳。
人生のほとんどを孤独と病に苦しみ、最後は狂気の中で発狂した天才。彼の未練は、「自分の人生と哲学が無意味だったのではないか」という根源的な恐怖を、特大のプライドと難解な言葉で必死にコーティングしたものだった。
その時だった。
ウィーン。
センターの自動ドアが開き、ペタペタと気の抜けた足音が響いた。
「——あ、受付のお兄さん、お疲れ様です。うちの嫁さんに『新しい哲学の迷子が来たから連れてこい』ってパシらされて来ました」
ヨレヨレの布をまとい、首から「草むしり用エプロン」を下げたハゲ頭の老人が、ヘラヘラと笑いながら入ってきた。
「えっ? ソ、ソクラテスさん!? なんでまたいるんですか! あんた、三回目ですよ……!」
私は思わず叫んだ。かつてこの待合室で嫁に冷水をぶっかけられ、別の日には弟子のプラトンにジャーマンスープレックスで投げ飛ばされていた、あの厄介極まりない「アテナイの論破王」である。
「いやね、彼、生涯独身で友達も少なかったし、妹さんとも絶縁状態で、緊急連絡先が『哲学の始祖』である僕のところに回ってきたんですよ。面倒くさいなぁ」
ソクラテスがパチパチと瞬きをしながら首を傾げると、ニーチェの顔が怒りで真っ赤に染まった。
「き、貴様は……! ソクラテス! 西洋哲学を堕落させた元凶! 人間の本能や情熱を『理性』という冷たい刃で切り刻み、悲劇を殺した張本人ではないか! 貴様のせいで、人類は生の活力を失ったのだ!」
ニーチェは、生前最も激しく批判していた「最大の敵」の登場に、水を得た魚のように哲学的な罵倒をまくし立てた。
……しかし。
現代のネット論客ばりに解像度の高い「ウザ絡みのイデア」を体現するソクラテスは、まったく動じなかった。
「……あー、なんだろう。いきなり『堕落させた』とか言われても困るんですけど。それって、ただのあなたの感想ですよね?」
「か、感想だと!?」
「ええ。僕が哲学を堕落させたっていうなんかそういうデータあるんですか? エビデンスもないのに、自分の気に食わないものを全部僕のせいにして、普通に嘘つくのやめてもらっていいですか」
ソクラテスは、小馬鹿にしたような薄笑いを浮かべながら、ニーチェの言葉を真っ向から事実確認でぶった斬った。
「ぐっ……! データだと!? 哲学は魂の叫びであり、理性的なデータに還元できるものではない! 私は、貴様らが作り上げた偽りの道徳を破壊するダイナマイトなのだ!」
「ダイナマイトねえ……。あの、ロジカルに考えましょうよ。あなた『神は死んだ』とか『超人』とか威勢のいいこと言ってますけど」
ソクラテスは、ニーチェの顔をジッと見つめ、トドメを刺すように首を傾げた。
「あなた、現世じゃ年金暮らしで友達もいなくて、女性にもフラれまくって、最後は梅毒で発狂して馬に抱きついて泣いてただけのおじさんですよね?」
「…………ッ!!」
「要するに、現実の社会で誰にも相手にされなくて寂しかったから、自分の頭の中で『超人』っていう無敵のオリジナルキャラクターを作って、それで世間にマウント取ろうとしてただけじゃないですか。それこそ、あなたが一番嫌ってる『ルサンチマン』そのものだと思うんですけど。……なんか、控えめに言って頭悪いですよね?」
「アァァァァァァァァッ!!」
ニーチェは、頭を抱えてその場に崩れ落ちた。
高尚な哲学的な対立を期待していたのに、超絶ドライな「事実陳列罪」によって、己の人生の最も痛い部分を物理で殴られたような衝撃である。
「深淵をのぞく時……深淵もまたこちらをのぞいているのだ……ッ!」
ニーチェは最後のプライドを守るため、必死に自分の有名な名言を絞り出した。
「あー、それね」
ソクラテスはため息をつきながら、容赦なく追撃を放つ。
「深淵がのぞき返してくるっていうか、単純にあなたが暇すぎて何もない空間をボーッと見てるから、脳が錯覚してるだけですよね。それ、光学的な現象か、ただの精神的な疲労ですよ。ポエムみたいなこと言って誤魔化すの、やめてもらえます?」
「もうやめてェェッ!! 私の哲学をこれ以上、現世の解像度で殴らないでくれェェェッ!!」
ついに「超人」は、幼児のようにパイプ椅子にすがりついて大号泣し始めた。
どんなに崇高な哲学も、圧倒的な論理的メソッドの前には、ただの痛いポエムとして処理されてしまうのだ。
「……はい。未練もプライドも、完全に論破されてスッキリしたみたいですね」
私は死んだ魚の目で、手元のタブレットの「引き渡し完了」ボタンをタップした。
ピロン、という電子音と共に、二人の足元に真っ白な光の道が現れる。
「ほら、ニーチェくん。泣いてないで立ちなさい。僕の奥さんが、あの世の庭で草むしりのノルマを課して待ってるんですよ。君も『超人』なら、まずは雑草という現実と戦うことから始めましょうね」
「ううぅ……っ。神は死んだ……私の尊厳も死んだ……っ」
ソクラテスは、心が折れて真っ白に燃え尽きたニーチェの襟首をヒョイと掴み、ズルズルと光の中へ引きずり始めた。
「受付のお兄さん、お茶ごちそうさまでした。彼、向こうに行ったら僕の『無知の知』のオンラインサロンで基礎から鍛え直しますんで」
「ええ……。まあ、お手柔らかにお願いします」
古代の論破王による完膚なきまでのフルボッコ劇を見届け、私は引きつった笑顔で会釈した。二人の姿は、ニーチェの虚ろなすすり泣きと共に光の中へと消えていった。
「ふぅ……。結局、一番強いのは『空気を読まずに事実だけで殴ってくる奴』ってことだな……」
私が、ニーチェが蹴り飛ばしたパイプ椅子を定位置に戻し、自分の精神的疲労を癒すために大きく伸びをした、その時だった。
ピンポンパンポーン。
休む間もなく、無機質なチャイムが響き渡る。
それに続いて流れてきたアナウンスに、私は思わず自分の耳を疑った。
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦二四八年頃、邪馬台国からお越しの、卑弥呼ちゃん。享年不明。……繰り返します。卑弥呼ちゃんをお預かりしております——』
「……ついに日本史の最古参クラスかよ。しかも、日本最大のミステリー女王のお出ましじゃないか」




