第26話 エガオヲミセテちゃん
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦二〇〇〇年、日本の宮城県、山元トレーニングセンターからお越しの、エガオヲミセテちゃん。競走馬。享年六歳。……繰り返します。エガオヲミセテちゃんをお預かりしております。心当たりのある保護者の方は、至急、冥界迷子センター第一ターミナルまでお越しください』
ピンポンパンポーン。
無機質で事務的な電子チャイムの音が、蛍光灯のチカチカと瞬く殺風景な待合室に響き渡った。
私、迷子センター受付係のナナシは、深いため息をつきながら、救急箱と消火器、それに厚手の毛布を抱えてカウンターから飛び出した。
以前のサイレンススズカの時にも痛感したが、動物や競走馬の未練というものは、人間のそれよりもずっと純粋で、それゆえに痛々しいのだ。
「ヒィィィン……! ブルルルッ……!」
幼児用の黄色いプラスチック製パイプ椅子の影。待合室の隅っこで、一頭の牝馬がガタガタと激しく震えながらうずくまっていた。
明るい栃栗毛の美しい馬体。しかし、その全身は真っ黒な煤で汚れ、ところどころ火傷の痕がある。彼女は、チカチカと点滅する蛍光灯の光を見るたびに、あの恐ろしい炎を思い出すのか、パニックになったように身をすくませていた。
エガオヲミセテ。
重賞を二勝し、牝馬の第一線で活躍していた矢先、休養先のトレーニングセンターで起きた大規模な火災に巻き込まれ、逃げ場のない馬房の中で命を落とした悲劇の名馬である。
「よしよし、大丈夫だ。もう火は点いてない。熱くないし、苦しくないぞ」
私はそっと毛布をかけ、煤で汚れた首筋を撫でた。
しかし、彼女の震えは止まらない。
無念だっただろう。足が折れたわけでもなく、寿命を迎えたわけでもない。ただ、人間の管理する施設で起きた理不尽な炎に包まれ、大好きな走ることを奪われてしまったのだ。
「……怖かったな。でも、もう向こうの世界へ行っていいんだ。誰も怒らないさ」
私がタブレットを操作し、光の道を出そうとすると、彼女は首を激しく振って後ずさった。
そして、待合室の隅にペタンと座り込み、目を固く閉じてしまった。
「……行かないのか?」
彼女は動かない。暗く、恐ろしい死の淵をたった一頭で越えるには、彼女の心はあまりにも傷つきすぎていた。
人間の言葉は通じなくても、彼女の悲痛な思いは痛いほど伝わってくる。
(熱かった。怖かった。……誰か、助けて。一人で暗いところに行くのは、嫌だよ)
「……仕方ないな。あの世の時間は無限だ。気が済むまで、ここにいればいい」
私は新しい角砂糖と水を用意し、彼女の傍らにそっと置いた。
——それから、あの世の感覚でどれだけの時間が経っただろうか。
天下人や天才たちが次々と迷子センターを訪れ、クレームを喚き散らしては保護者と共に光の中へ消えていく間も。
エガオヲミセテは、ずっと待合室の隅で、来るはずのない誰かを待ち続けていた。
そんな、ある日のことだった。
ウィーン。
センターの自動ドアが開き、カツッ、カツッと、力強くも落ち着いた蹄の音が響いた。
「——ん? 今日はまだ誰も呼び出していないはずだが」
私が顔を上げると、そこに立っていたのは、一頭の雄大で美しい栗毛の牡馬だった。
死の直前のパニックや未練など微塵も感じさせない、堂々とした佇まい。彼は迷子センターの待合室を見渡し、そして……隅っこで震え続けているエガオヲミセテの姿を見つけると、真っ直ぐにそちらへ歩み寄った。
「ブルルル……」
ひどく優しく、温かい嘶きだった。
その声を聞いた瞬間、ずっと目を閉じていたエガオヲミセテが、ビクンと顔を上げた。
「……ヒン?」
牡馬は、彼女の煤で汚れた顔に自分の鼻先をすり寄せ、安心させるように何度も何度も首筋を舐めた。
「ちょっと、君は一体……」
私が慌ててタブレットのゲート通過記録を検索すると、そこに表示された名前に思わず息を呑んだ。
「オレハ、マッテルゼ……って、まさか!」
私は、競馬界のドラマチックな血統図を思い出し、声を震わせた。
「君……エガオヲミセテの、全弟じゃないか!」
そう、彼らにつけられた少し変わった名前。それは同じ馬主によるものだった。
志半ばで炎に飲まれた姉、エガオヲミセテ。
その血と、果たせなかった悲願を受け継ぐために走った弟、オレハマッテルゼ。
彼は、姉が命を落としたあの日からずっと、彼女の分まで走り続けた。そして見事、高松宮記念でGⅠ制覇という偉業を成し遂げ、種牡馬として天寿を全うし、この冥界へとやってきたのだ。
(姉ちゃん、迎えに来たよ)
オレハマッテルゼの落ち着いた瞳が、そう語りかけているようだった。
(よく頑張ったな。怖かったな。でも、もう大丈夫だ。俺たちの名前をつけてくれたオーナーも、厩舎の人たちも、ファンのみんなも……誰も、姉ちゃんのことを忘れたりしなかったぜ。俺が勝った時、みんな姉ちゃんを思い出して泣いてたんだ)
弟の温もりに触れ、エガオヲミセテの大きな瞳から、三途の川の入り口でずっと堪え続けていた大粒の涙が、ポロポロとこぼれ落ちた。
「ヒヒィーン……っ!」
彼女は、弟の立派な首にすがりつくようにして、甘えるような声を上げた。
自分はGⅠを勝てなかった。理不尽な死を迎えた。けれど、自分の血と魂は、この立派な弟がしっかりと現世で繋いでくれたのだ。
その事実が、彼女を縛り付けていた炎のトラウマを、静かに溶かしていった。
「……オレハマッテルゼ、『俺は待ってるぜ』か」
私は、二頭の美しすぎる姉弟の再会に、思わず目頭を押さえた。
「弟のお前がその名前をもらったのに……結局、この冷たい待合室で十三年間も待っていたのは、お姉ちゃんの方だったんだな」
エガオヲミセテは、もう震えていなかった。
弟に寄り添い、立ち上がった彼女の顔は、現世のパドックで見せていたような、とても穏やかで、優しさに満ちた表情——まさに『笑顔』を見せているようだった。
私は無言で、タブレットの「引き渡し完了」ボタンをタップした。
ピロン、という電子音と共に、二頭の足元に真っ白な光の道が現れる。サイレンススズカの時と同じ、どこまでも続く永遠の緑のターフだ。
「……行けよ。お前たちは、最高の姉弟だ。向こうの世界で、心ゆくまで一緒に走ってこい」
私が鼻をすすりながら声をかけると、二頭は私の方を振り返り、揃って短く嘶いた。
そして、オレハマッテルゼがエスコートするように姉に寄り添い、二頭は並んで光のターフへと駆け出していく。
炎の記憶を置き去りにして、美しくしなやかに駆け抜けるその姿は、やがて光の彼方へと完全に溶けて消えていった。
「ふぅ……。人間の名付けた言葉が、魂を救う呪文になることもあるんだな」
私は、エガオヲミセテが残していった毛布を丁寧に畳み、誰もいなくなった待合室で深く息を吐き出した。
今日こそは、この美しい姉弟のドラマの余韻のまま、静かに定時退社を迎えたい。心からそう願った、その時だった。
ピンポンパンポーン。
休む間もなく、そして私のささやかな希望を無慈悲に打ち砕く、無機質なチャイムが響き渡る。
それに続いて流れてきたアナウンスに、私はモップの柄を思わずへし折りそうになった。
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦一九〇〇年、ドイツ帝国のヴァイマルからお越しの、フリードリヒ・ニーチェくん。享年五十五歳。……繰り返します。ニーチェくんをお預かりしております——』
「……って、今度は『神は死んだ』でお馴染みの、超絶虚無主義の哲学者じゃないか!!」
私は、古代ギリシャの哲学者たちに散々振り回されたトラウマを思い出し、慌ててドイツ語の通訳機と、彼が待合室の存在意義そのものを否定し始めた時のための強力な頭痛薬を探し始めた。
「神を全否定した男が、死後の世界に来ちゃったら、アイデンティティ崩壊して暴れ出すに決まってるだろ! 絶対に『この待合室は怨恨の産物だ!』とか言い出すぞ……!」
どうやら今日の冥界迷子センターも、私に平和な定時退社を許す気は毛頭ないらしい。私は深い絶望とともに、次なる「最高にめんどくさい超人」を迎える覚悟を決めた。




