第25話 レオナルド・ダ・ヴィンチくん
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦一五一九年、フランスのクロ・リュセ城からお越しの、レオナルド・ダ・ヴィンチくん。享年六十七歳。……繰り返します。レオナルド・ダ・ヴィンチくんをお預かりしております。心当たりのある保護者の方は、至急、冥界迷子センター第一ターミナルまでお越しください』
ピンポンパンポーン。
無機質で事務的な電子チャイムの音が、蛍光灯のチカチカと瞬く殺風景な待合室に響き渡った。
私、迷子センター受付係のナナシは、イタリア語の通訳機を右耳に押し込みながら、受付カウンターから転びそうになりながら飛び出した。
「ちょっ! ストップストップ! 何やってんですかダ・ヴィンチさん! それ施設の備品!」
「おお、静かにしたまえ受付の青年。今、この『黄色い座具』の構造力学を解析しているところだ。中が空洞の円柱状の金属……なるほど、軽量化と強度を両立させる見事な設計だ! これなら私の考案した飛行機械の骨組みにも応用できるかもしれない!」
待合室のど真ん中で、豊かで長い白ヒゲを蓄えた初老の男が、どこから取り出したのかドライバーのような工具で、幼児用の黄色いパイプ椅子を器用にバラバラに解体していた。
芸術、科学、建築、解剖学——あらゆる分野で人類の頂点を極めた「万能の天才」、レオナルド・ダ・ヴィンチ。
「いやいや、解体しないで! 元に戻せなくなるから!」
「心配無用だ。すべてこの手帳に『鏡文字』でスケッチしてある。それにしても……私は死んでしまったのか。人体解剖をやりすぎて病気になったのが運の尽きだったな。だが、困るのだよ! 私はまだ死ぬわけにはいかんのだ!」
ダ・ヴィンチは解体したパイプ椅子の脚を放り出し、ボサボサの頭を抱えて地団駄を踏んだ。
「馬の巨大なブロンズ像も完成していない! ヘリコプターの模型も飛んでいない! 何より……私が死ぬまで手元に置いて加筆し続けていたあの肖像画、『モナ・リザ』の唇の右端の陰影が、まだあと〇・一ミリほど完璧ではないのだ! 私が死んでしまっては、誰があの絵を完成させるというのだ!」
享年六十七歳。
人類史上最高の天才をこの冥界の入り口に縛り付けている未練。それは、興味が湧いたものに次々と手を出し、そのほとんどを「未完成」のまま放置してしまうという、彼の筋金入りの『飽き性にして完璧主義』という厄介な性質だった。
「はいはい。あなたのその未完成のノートや絵画は、後世の人間がちゃんと研究して人類の宝にしてますから。諦めて成仏してください」
「嫌だ! 私の芸術は私にしか完成させられない! せめてあの絵に、最後の一筆を……!」
ダ・ヴィンチが床に寝転がって駄々をこね始めた、その時だった。
ウィーン。
センターの自動ドアが、静かに開いた。
「——相変わらず、言い訳ばかりの遅筆ね、巨匠」
ひどく落ち着いた、それでいてどこか見透かしたような、不思議な響きを持つ女性の声だった。
そこに立っていたのは、黒く透き通るような喪服のヴェールをかぶり、ゆったりとした暗い色のドレスを身にまとった女性だった。胸の前で静かに右手を左手に重ね、その口元には……あの、世界で最も有名で、ミステリアスな『微えみ』が浮かんでいる。
「……リザ、夫人!?」
ダ・ヴィンチが驚いて床から跳ね起きた。
私は、その女性の顔立ちと、見覚えのありすぎるポーズを見て、思わず持っていたタブレットを二度見、いや三度見した。
「えっ!? ちょっと待って! モナ・リザ!? あの『モナ・リザ』本人!?」
「ええ。リザ・デル・ジョコンドと申します。受付の方、うちの気難しい天才がお世話になっております」
女性——リザ夫人は、絵画からそのまま抜け出してきたような優雅さで、私に向かって軽く会釈をした。
「マジで!? すげぇぇ!! 実在したんだ!! いや、モデルはダ・ヴィンチの愛人説とか、本人の女装説とか、ただの理想の女性を描いた架空の人物説とか、現世じゃ色々言われてるんですよ!」
私がミーハー丸出しで興奮して叫ぶと、リザ夫人は「あらやだ」とクスクス笑った。
「失礼しちゃうわね。私はフィレンツェのしがない商人の妻ですよ。……ねえ、マエストロ? うちの主人が、新居の祝いにってあなたに私の肖像画を依頼したのが一五〇三年。それからあなた、一体何年あの絵を引きずり回したの?」
「うっ……じゅ、十六年ほど……」
人類最高の天才が、ただの商人の妻の前で、まるで宿題を忘れた小学生のように縮み上がった。
「何度も何度も私を椅子に座らせて、音楽隊まで呼んでリラックスさせたくせに。結局、いつまで経っても『まだ未完成です』って言って主人に納品しないまま、フランスまで絵を持っていっちゃって。私がどれだけ主人に文句を言われたと思っているの?」
「そ、それは違うのだリザ夫人! 君のあの神秘的な微笑みは、私の『スフマート』の極致! 輪郭線をなくし、空気の層を描き出すためには、絵の具を乾かしては塗り、乾かしては塗るという永遠の作業が必要で……!」
「はいはい、言い訳はそこまで」
リザ夫人は、ダ・ヴィンチの言葉をピシャリと遮り、ふっとその表情を和らげた。
「……でもね。あなたが十六年間も私を手放さず、ずっと加筆し続けてくれたおかげで。ただの商人の妻だった私は、世界中で一番愛される『永遠の女性』になれたわ。……私を、歴史に遺してくれてありがとう、マエストロ」
「リザ、夫人……」
「あなたの好奇心は、一枚のキャンバスには収まりきらなかっただけよ。さあ、いつまでもこんなパイプ椅子を分解していないで、行きましょう。あの世には、あなたの知らない新しい物理の法則がたくさんあるはずよ」
その言葉を聞いた瞬間、ダ・ヴィンチの瞳に、再び少年のようなどす黒い……いや、純粋な好奇心の炎が灯った。
「な、なんと!? あの世独自の物理法則だと!? 魂の質量! 三途の川の流体力学! 光の道の屈折率! おおおっ、それはすぐにでも解明せねばならんな!」
私は無言で、バラバラになったパイプ椅子を足で端に寄せながら、タブレットの「引き渡し完了」ボタンをタップした。
ピロン、という電子音と共に、二人の足元に真っ白な光の道が現れる。
「受付の青年! すまないが、その椅子の組み立て図はこの手帳に記しておいた! あとは頼む!」
「自分で直していけよ! あと私のボールペン持って帰らないで!」
ダ・ヴィンチは私の胸ポケットからいつの間にか抜き取っていたボールペンを片手に、未知の世界への探求心に胸を躍らせながら、リザ夫人と共に光の中へと足早に消えていった。
「ふぅ……。人類の宝が実在の人物だったっていう、歴史的スクープの現場に立ち会えちまったな」
私が、彼の手帳に残された解読不能な鏡文字のスケッチを見ながら、バラバラのパイプ椅子を組み立て直そうとため息をついた、その時だった。
ピンポンパンポーン。
休む間もなく、無機質なチャイムが響き渡る。
それに続いて流れてきたアナウンスに、私は引き出しに指を挟みそうになった。
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦二〇〇〇年、日本の宮城県、山元トレーニングセンターからお越しの、エガオヲミセテちゃん。競走馬。享年六歳。……繰り返します。エガオヲミセテちゃんをお預かりしております——』
「……また競走馬かよ! サイレンススズカの時にも思ったけど、動物の純粋な未練は人間のドロドロしたエゴなんかよりずっと心に刺さってしんどいんだってば……!」
私は、古代の歴史ロマンの余韻を強引に引き剥がされながら、慌ててカウンターの奥へと駆け込んだ。
「しかも二〇〇〇年の山元トレセンって……あの大規模火災の悲劇じゃないか!! 炎に巻き込まれた馬なんて、絶対にひどいパニックを起こしてるに決まってる……! 誰か、至急消火器と救急箱、それに大きな毛布を持ってきてくれ!」
どうやら今日の冥界迷子センターも、私を平和な定時退社へと導いてくれる気は毛頭ないらしい。私は深い悲哀と緊張を抱えながら、次なる「言葉を持たない、悲劇の名馬」を迎える覚悟を決めた。




