第23話 名前のない赤ちゃん
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦一一八六年、相模国、由比ヶ浜からお越しの……』
無機質で事務的な電子チャイムの音。しかし、続く女性のアナウンスは、ひどくノイズが混じり、どこか躊躇うように途切れた。
『……お名前のない、男の赤ちゃん。享年、ゼロ歳。……繰り返します。名前のない男の赤ちゃんをお預かりしております。心当たりのある保護者の方は、至急、冥界迷子センター第一ターミナルまでお越しください』
「…………は?」
私、迷子センター受付係のナナシは、持っていたモップを床に取り落とした。
これまで、天下人から天才科学者、果ては巨大恐竜まで、ありとあらゆる「迷子」を相手にしてきた。彼らの強すぎる自我や未練に振り回され、愚痴を聞き、時には怒鳴られながら、それでもなんとかあの世へ送り出してきた。
だが、今回ばかりは勝手が違う。
慌てて受付カウンターから飛び出すと、幼児用の黄色いプラスチック製パイプ椅子の上に、小さな、本当に小さな『布の包み』が置かれていた。
「おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ……っ!」
その包みの中から、ひどくか細い、悲痛な泣き声が響いている。
私は血の気が引くのを感じながら、その小さな包みに駆け寄った。
布の隙間から見えたのは、まだ目をまともに開くこともできない、生まれたばかりの赤ん坊だった。
ひどく冷たかった。そして、布は由比ヶ浜の冷たい海水と砂で、ぐっしょりと濡れている。
「おい、嘘だろ……。こんな小さな子が、どうして……」
歴史の知識が、私の脳裏に残酷な事実を突きつける。
源義経が兄・頼朝から追われ、離れ離れになった愛妾の静御前。彼女は鎌倉で義経の子供を出産したが、「男児ならば生かしてはおかぬ」という頼朝の非情な命により、生まれたばかりのその子は取り上げられ、海へと沈められた。
名前すら与えられなかった、一陣の風のように消えた小さな命。
「おぎゃあ……っ、ふぎゃあっ……!」
赤ん坊は、ただ必死に宙を掻きむしりながら泣いている。
現世への未練なんてない。恨みもない。ただ、「お母さんに抱きしめてほしい」「温めてほしい」という、生き物として最も純粋で、最も切実な本能だけが、この小さな魂をこの場所に縛り付けているのだ。
「……クソッ! 大人の都合で、こんな小さな命を……!」
私は、普段の業務用の笑みも、ドライな態度もすべて投げ捨てた。
急いで自分の制服のカーディガンを脱ぎ、海水で冷え切った赤ん坊を包み込む。そして、パイプ椅子から抱き上げ、自分の体温を少しでも分け与えるように、胸に強く抱きしめた。
「大丈夫だ、大丈夫だからな。寒かったな、苦しかったな。もう水の中じゃないぞ……」
私が背中を優しくトントンと叩きながら、泣きそうになるのを必死にこらえてあやしていると。
ウィーン。
センターの自動ドアが、けたたましい音を立てて開いた。
「ああっ……! あああっ……!!」
靴すら履かず、泥だらけの足で駆け込んできたのは、白拍子の美しい水干をまとった女性だった。髪は乱れ、その美しい顔は涙で完全にぐしゃぐしゃになっている。
静御前。歴史上最も美しく、最も哀しい舞を舞った女性。
「私の……私の子!!」
静御前は、私の腕の中にいる赤ん坊を見るなり、床に倒れ込むような勢いで飛びついてきた。
「どうぞ」
私がそっとカーディガンごと赤ん坊を渡すと、彼女は震える腕で我が子を抱きしめ、その冷たい頬に自分の頬をすり寄せた。
「ごめんね……ごめんね……っ! お母様が、あなたを守ってあげられなかった……っ! 冷たかったでしょう、苦しかったでしょう……っ! ああ、私の可愛い子……っ!」
母親の温もりと匂いを感じたのか、赤ん坊の張り裂けるような泣き声が、少しだけ和らいだ。しかし、それでもまだ、小さな手は虚空を彷徨い、「ふえぇ、ふえぇ」と何かを探すように泣き続けている。
母親だけではない。この子は、もう一つの『温もり』を知らないまま死んでしまったのだから。
その時。
自動ドアが再び開き、ガシャン、と重い甲冑の音が響いた。
「——静っ……!!」
そこに立っていたのは、全身に無数の矢を受け、どす黒い血と泥にまみれた若武者だった。
奥州・衣川で自刃し、壮絶な最期を遂げた悲劇の天才戦術家、源義経。
「義経、様……っ!」
静御前が涙ながらに振り返る。
義経は、静御前の腕の中で泣いている赤ん坊の姿を見た瞬間、その場にガクンと膝をついた。無敵を誇った英雄の顔から、すべての武将としての仮面が剥がれ落ちていた。
「私の子か……。その子が、私の……」
義経は震える足で歩み寄り、我が子に手を伸ばそうとした。
しかし、自分の手が血と泥にまみれていることに気づき、ハッとして手を引っ込めた。
「すまない……。私の手は、血で汚れている。こんな汚れた手で、この清らかな子に触れる資格など、私には……」
戦の天才でありながら、政治の残酷さに敗れ、愛する者たちを次々と失った男。彼もまた、自分自身の不甲斐なさに深く絶望していた。
しかし、静御前は涙を流しながら微笑み、義経の血塗られたゴツゴツとした手を、自分の両手でそっと包み込んだ。
「いいえ。この子は、あなたの子です。どうか、抱いてあげてください」
静御前に導かれ、義経の無骨な手が、カーディガンに包まれた小さな命に触れる。
「あ……」
その瞬間、赤ん坊の小さな、紅葉のような手が、義経の血まみれの指を「きゅっ」と力強く握りしめた。
義経の目から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。
「おお……おおおっ……!」
英雄は、泥だらけの顔を歪ませ、妻と、そして初めて抱く我が子を、その腕の中にすっぽりと包み込むようにして抱きしめた。
「よく生まれてきてくれた……! 一人で暗い海を逝かせて、本当にすまなかった! 父は、戦に勝つことしか知らぬ愚か者であった……! お前たちを守りたかった……ただ、静かに、三人で暮らしたかったのだ……っ!!」
鎌倉の海に沈められた赤子。
都で涙に暮れた母。
北の果てで自刃した父。
現世ではあまりにも遠く離れ、あまりにも残酷に引き裂かれた三人が、あの世の入り口であるこの無機質な待合室で、ようやく『家族』になれたのだ。
「きゃあ、きゃあ」
両親の温もりと涙に包まれた赤ん坊は、もう泣いていなかった。
安心しきったように笑い声を上げ、小さな手で義経の鎧をポンポンと叩いている。
私は、視界がぼやけてタブレットの画面がうまく見えないのを誤魔化すように、袖で乱暴に両目をこすった。
そして、震える指で「引き渡し完了」のボタンを力強くタップする。
ピロン、という電子音と共に、三人の足元に真っ白な光の道が現れる。それは、今まで見たどの光よりも、優しく、そして暖かく輝いていた。
「……行きましょう、あなた。私たちの、本当の居場所へ」
「ああ。もう二度と、お前たちを離しはしない」
義経は赤ん坊をしっかりと抱きかかえ、静御前と肩を寄せ合いながら立ち上がった。
「受付殿。この子の体を温めてくれて、本当に感謝する。……この恩は、あの世から見守ることで必ず報いよう」
義経が深く頭を下げると、私のカーディガンに包まれた赤ん坊も、ニコッと天使のように笑いかけてくれた。
「……どうも。向こうでは、三人で、絶対に幸せになってくださいね」
私が鼻をすすりながら深く頭を下げると、血塗られた歴史から解放された、世界で一番美しく愛おしい家族は、温かい光の中へとゆっくりと歩き出していった。
三人の姿が完全に消えた後、待合室には私の制服のカーディガンだけが、綺麗に畳まれて置かれていた。
「ふぅ……。歴史なんてクソ食らえだ。最後に勝つのは、絶対に愛なんだよ」
私は、まだほんのりと赤ん坊の温もりが残るカーディガンを羽織り直し、誰もいなくなった待合室の天井を見上げた。心に満ちた温かい余韻を噛み締め、今日こそは安らかな気持ちで帰れそうだと息を吐き出した、その時だった。
ピンポンパンポーン。
休む間もなく、そして私の感動の余韻を完膚なきまでに打ち砕く、無機質なチャイムが響き渡る。
それに続いて流れてきたアナウンスに、私は羽織ったばかりのカーディガンを思わずきつく握りしめた。
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦二〇二六年、日本の埼玉県、実家の子供部屋からお越しの……ええと?』
いつもは無機質で事務的なはずの女性のアナウンスが、かつてないほど困惑し、完全に素のトーンで読み淀んでいる。
『……っ、れ、煉獄の業火を纏いし虚無の執行者、レイヴン・ノア・ディストピアくん。享年三十五歳。……繰り返します。レイヴンなんとかくんをお預かりしております——』
「……はぁ!? 西暦二〇二六年って、ゴリゴリの現代じゃないか! しかも享年三十五歳で実家の子供部屋からって、どう考えてもヤバい奴の気配しかしないぞ!」
私は、源平の哀しい歴史の涙を引っ込め、かつてない強烈な地雷の臭いに頭を抱えながら、受付カウンターの奥へと駆け込んだ。
どうやら今日の冥界迷子センターも、私を感動の余韻に浸らせておく気は毛頭ないらしい。私は深い絶望とともに、次なる「好奇心のバケモノ」を迎える覚悟を決めた。




