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冥界迷子センター  作者: てっぺい


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第21話 プラトンくん

『——お客様のお呼び出しを申し上げます。紀元前三四八年、古代ギリシャのアテナイからお越しの、プラトンくん。享年八十歳。……繰り返します。プラトンくんをお預かりしております。心当たりのある保護者の方は、至急、冥界めいかい迷子センター第一ターミナルまでお越しください』


 ピンポンパンポーン。

 無機質で事務的な電子チャイムの音が、蛍光灯のチカチカとまたたく殺風景な待合室に響き渡った。


 私、迷子センター受付係のナナシは、インカムの言語設定を再び「古代ギリシャ語」に合わせながら、盛大なため息をついた。


「……また紀元前のアテナイかよ。嫌な予感しかしないぞ」


 受付カウンターの向こう側。黄色いプラスチック製パイプ椅子の前に、立派なひげを蓄えた一人の老人が立っていた。


 ゆったりとした古代の衣服をまとっているが、その下から覗く肩幅がやたらと広く、八十歳という年齢を感じさせないほど胸板が厚い。


 西洋哲学の基礎を築いた偉大なる哲学者にして、アカデメイアの創設者、プラトン。


 しかし彼は、パイプ椅子に座ろうともせず、腕を組んでその安っぽいプラスチックの座面をじっとにらみつけていた。


「……不完全だ。あまりにも不完全極まりない。この黄色い物体は、確かに『座るためのもの』という性質を帯びてはいるが、真なる『椅子のイデア』の、ただの劣悪な影にすぎない。このような洞窟の壁に映った影絵のような椅子に、私の魂を預けるわけにはいかない」


「あのー、プラトンさん。影でもなんでもいいんで、とりあえず座ってもらえます? 立ちっぱなしだと疲れるでしょ。お茶、れましょうか」


 私が紙コップを差し出すと、プラトンはふっと哀愁を帯びた目を向けた。


「水すらも、完全なる『円』の器に注がれなければ真理には到達しない……。ああ、私は結局、現世で理想の国家を創り上げることはできなかった。私が教育した君主たちはことごとく失敗し、私の哲学はただの机上の空論だと笑われたのだ。私の人生は、真理の影を追いかけるだけの……」


 偉大な哲学者が、己の思想の限界に絶望し、黄昏たそがれの未練を語り始めた——その時だった。


「……あの、すみません。一つだけ聞いていいですか? あなたが今言った『不完全』という言葉の定義、それ自体が論理的に破綻はたんしていると思うんですけど」


 待合室の奥から、ねっとりとした、最高にイラつく声が響いた。


「えっ?」

 プラトンが振り返る。


「だいたい、『イデア』なんていう実体のない概念を勝手に絶対的な正解だと定義して、現実の椅子を『影』だと見下すの、エビデンスがないですよね? その椅子、普通に座れるっていう『事実』があるのに、それを否定するあなたの思想のほうが控えめに言って頭悪い人だと思いますよ」


 そこに立っていたのは、ヨレヨレの布をまとい、首から草むしり用エプロンを下げ、片手に鎌を持ったハゲ頭の老人だった。


「ソ……ソクラテス先生ッ!?」


 プラトンが目をひんいて叫んだ。

 私も思わずカウンターから身を乗り出した。


「ちょっと! 奥さんに引きずられて成仏したソクラテスじゃないですか! なんでまた迷子センターにいるんですか!」


「あ、受付のお兄さん、お久しぶりです。いやね、妻のクサンティッペに『神々の庭の草むしりをしてこい』って言われたんですけど。そもそも『雑草』の定義って何ですか? 神が創った命に、雑草とそうでない草の優劣をつける論理的根拠が見当たらなくて、妻にそう問い詰めたら、鎌を投げつけられたので逃げてきたんですよ」


「ただのサボりじゃないか! 奥さんにまた水ぶっかけられますよ!」


「まあそれは置いておいて」

 ソクラテスは私を完全にスルーし、目の前で感動に打ち震えているプラトンに向き直った。


「おおお……っ! ソクラテス先生! ずっと、ずっとお会いしとうございました! あなたが理不尽な死刑を宣告されて毒杯をあおったあの日から、私はあなたの教えを世界に広めるために、筆を執り続けたのです! 私の著作の主人公は、すべて先生なんですよ!」


 プラトンは涙ぐみながら恩師に歩み寄った。美しき師弟愛の再会——かと思いきや、ソクラテスはジト目でまばたきを加速させた。


「あー。それなんですけど、プラトンくん、ちょっとやりすぎですよね?」


「……え?」


「僕、向こうの世界で君が書いた本、全部読んだんですよ。『ソクラテスの弁明』あたりまでは良かった。事実ベースだったから。でもね、『国家』とかあの辺りから、明らかに僕が言ってないことまで『ソクラテスが言った』ことにしてるでしょ」


「い、いや、それは……先生の偉大な思想を、私なりに発展させて……」


「発展? それ、事実の捏造ねつぞうですよね? 僕はね、『無知の知』って言ったんですよ? それなのに、君の本の中の僕、なんか世界の真理を全部知ってるみたいな顔して、対話相手を長文のウンチクでボコボコに論破する嫌なジジイになってましたよ」


「嫌なジジイなのは生前からの事実ですけどね」と私がボソッとツッコミを入れると、ソクラテスはピシャリと反論した。


「受付の人、黙っててください。……いいですか、プラトンくん。君は僕を『イデア論』のスピーカーとして利用しただけだ。ロジカルに考えましょう。僕が言っていないことを僕の言葉として後世に残す行為は、僕へのリスペクトですか? それとも、自分の思想に権威付けをするためのプロパガンダですか? はい、答えて」


「うっ……! そ、それは……! 先生の死があまりにも理不尽で、私はただ、先生こそが最高の哲学者であったと世界に証明したくて……っ!」


「だからといって、他人の口を勝手に使うのは倫理的欠陥ですよね? だいたい、君のその『イデア論』も穴だらけだ。現実を『洞窟の影』だと否定して、空想の理想郷に逃げ込んでるだけじゃないですか」


「ち、違います! イデアこそが魂の向かうべき究極の……!」


「はい、出た。『究極』って何ですか? その定義は? エビデンスは? 君、僕の弟子なのに、ちっとも論理的じゃないですね。論破されて顔真っ赤にしてるだけじゃないですか」


 プラトンの顔が、怒りとストレスででダコのように真っ赤に染まっていく。


 恩師への強烈なリスペクトと、自分の人生の集大成である哲学を、張本人からネチネチと全否定される地獄の公開説教。


 現代で言えば、博士論文の発表会で、一番尊敬している指導教授から「君の研究、根本から間違ってるよね?」と詰められているような状態である。


「先生……あなたは……あなたはいつもそうだ! 自分では本を一冊も書かないくせに! 人が一生懸命考えた思想の揚げ足を取って、マウントを取るばかりで!」


「事実を指摘されたからって感情論に逃げるのは、哲学の敗北を意味しますよ?」


 ソクラテスがドヤ顔で言い放った、その瞬間だった。


「……あーもう、うるさいッ!! 理屈こねるなこのクソジジイ!!」


 プラトンがキレた。

 偉大な哲学者は、突然、服をバサッと脱ぎ捨て、筋骨隆々《きんこつりゅうりゅう》のぶ厚い胸板を露わにした。


 彼が若い頃、イストミア大祭で活躍したレスリングの猛者もさであり、「プラトン」という名前も当時のリングネームであったという歴史的事実が、ここにきて最悪の形で発現した。


「えっ? ちょ、プラトンくん? 論理の飛躍が……」


「これが物理のイデアだァァァッ!!」


 ダァァァンッ!!

 プラトンは、ソクラテスのふところに猛スピードでタックルを決め、そのまま見事な弧を描いて背後のリノリウムの床にジャーマン・スープレックスで叩きつけた。


「ギャァァァッ!!」


 冥界迷子センターに、西洋哲学の祖の情けない悲鳴が響き渡る。


「イデアが実在しないだと!? 今お前が背中で感じているこの痛みこそが、逃れようのない現実であり、私の中に実在する怒りのイデアだ!! 本に書いて後世に残してやった恩も忘れおって! 絞め落とすぞ!!」


「ギブ! ギブ! 暴力の定義が……首の骨の限界値が……タップ! タップしてますからァ!!」


 首を締め上げられながら白目を剥くソクラテスと、馬乗りになって八十年の鬱憤うっぷんを晴らすように締め上げるプラトン。

 アテナイが誇る二大哲学者の、あまりにもIQの低い肉弾戦である。


「あー……はいはい。未練もイライラも、物理でスッキリしたみたいですね」


 私は完全に死んだ魚の目で、手元のタブレットの「引き渡し完了」ボタンをタップした。


 ピロン、という電子音と共に、二人の足元に真っ白な光の道が現れる。


「ほら、ソクラテスさん。奥さんに怒られる前に早く草むしり戻ってください。プラトンさんも、恩師に再会できてよかったですね」


「ぜえ、ぜえ……! ああ! 受付の青年、感謝する! 長年抱えていた思想への未練が、師匠をぶん投げたことでどうでもよくなった!」


 プラトンは晴れやかな顔で立ち上がり、床で伸びているソクラテスの襟首をガシッとつかんで引きずり起こした。


「さあ、行くぞ先生! あの世のレスリング場で、私の新理論『関節技のイデア』を体で教えてやりますからね!」


「やめ……やめて! 妻の草むしりの方がまだ論理的だ! クサンティッペェェェーッ!!」


 ソクラテスの情けない絶叫を響かせながら、古代ギリシャの最強の師弟は、光の中へとズルズルと消えていった。


「ふぅ……。結局、どんな高尚な哲学も、筋肉と暴力の前には無力ってことだな」


 私が、ソクラテスが落としていった草むしり用の鎌をゴミ箱に放り込んだ、その時だった。


 ピンポンパンポーン。

 休む間もなく、そして私のささやかな希望を無慈悲に打ち砕く、無機質なチャイムが響き渡る。


 それに続いて流れてきたアナウンスに、私はモップのをへし折らんばかりの力で握りしめた。


『——お客様のお呼び出しを申し上げます。紀元前一三二三年頃、エジプトの王家の谷からお越しの、ツタンカーメンくん。享年十九歳。……繰り返します。ツタンカーメンくんをお預かりしております——』


「……って、今度は紀元前の古代エジプト!? しかもあの超有名な『悲劇の少年王』のお出ましじゃないか!」


 私は、慌てて古代エジプト語の通訳機と、彼が「ファラオの呪い」で暴走した時のための厄除けのお守りを探し始めた。


「死後三千年も経ってからお墓を掘り起こされて、世界中を騒がせた王様だぞ! 絶対に呪いと未練の塊に決まってる……! どうか黄金のマスクとか被ったまま来ないでくれよ!」


 どうやら今日の冥界迷子センターも、私を平和な定時退社へと導いてくれる気は毛頭ないらしい。私は深い絶望とともに、次なる「歴史のロマン溢れる迷子」を迎える覚悟を決めた。

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