第20話 サイレンススズカくん
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦一九九八年、日本の東京、東京競馬場からお越しの、サイレンススズカくん。享年五歳。……繰り返します。サイレンススズカくんをお預かりしております。心当たりのある保護者の方は、至急、冥界迷子センター第一ターミナルまでお越しください』
ピンポンパンポーン。
無機質で事務的な電子チャイムの音が、蛍光灯のチカチカと瞬く殺風景な待合室に響き渡った。
私、迷子センター受付係のナナシは、先ほどの巨大恐竜や天才建築家の騒動で荒れたカウンターの中から、慌てて「冥界通販」で取り寄せた最高級のニンジンと角砂糖を抱え込んだ。
「五歳っていっても、馬の五歳は大人のアスリートだ! しかも、あの『異次元の逃亡者』だぞ! あんなトップスピードで壁に激突されたら、せっかくガウディが直してくれたアーチが粉々に……!」
私は、ハチ公の時のように首輪をつけるべきか、それともティラノサウルスの時のようになだめるべきか、パニックになりながら自動ドアの方を身構えた。
……しかし。
待合室には、地響きも、いななきも、壁の壊れる音も響かなかった。
カツッ……カツッ……。
ひどく静かで、痛々しい、不規則な蹄の音だけが聞こえてきた。
「え……?」
私が恐る恐るカウンターから顔を出すと、黄色いプラスチック製パイプ椅子の横に、一頭の美しい栗毛の馬が立っていた。
黄金色に輝くような滑らかな馬体。しかし、その全身は滝のような汗でびっしょりと濡れ、荒い息遣いで肩が激しく上下している。
そして何より痛々しいのは——彼の『左前脚』だった。
手根骨粉砕骨折。
本来ならその場でもんどり打って転倒し、騎手を巻き込む大惨事になってもおかしくないほどの致命傷。その左前脚は、痛みに耐えるように宙に浮いたまま、ブルブルと小刻みに震え続けていた。
「スズカ、くん……?」
私が声をかけても、彼は暴れることも、嘶くこともなかった。
ただ、三本になった足でしっかりと踏ん張り、その大きくて澄んだ瞳で、待合室の奥——あの世へと続く出口の方を、真っ直ぐに見つめていた。
人間の偉人たちは、権力を失ったことや、裏切られたことに怒り、泣き叫んだ。
しかし、この美しく気高いアスリートは、一切の文句を言わない。ただ、流れる汗と一緒に、ポロポロと大きな涙の粒を落としながら、じっと前だけを見据えていた。
彼の未練は、命を落としたことへの恐怖ではない。
(……走らなきゃ)
言葉を持たない彼の魂の声が、静まり返った待合室の空気を伝って、私の胸に直接流れ込んでくるようだった。
(走らなきゃ。あの大欅の向こうへ。ゴールは、まだ先にある。僕の背中には、大好きな人が乗っているんだ。僕が転んだら、あの人が怪我をしてしまう。だから、絶対に倒れちゃいけない。最後まで、運ばなきゃ……っ)
「沈黙の日曜日」と呼ばれたあのレース。
圧倒的なスピードで後続を突き放し、誰もが彼の勝利を確信した第四コーナー。骨が砕けるという絶望的な激痛の中で、彼は本能のままに倒れることを拒み、必死にバランスを保って、背中の騎手を安全に下ろすまで立ち続けた。
死の瞬間のその強烈な「責任感」と「走り切りたかった」という純粋な夢の残骸が、彼をこの冥界の入り口で、永遠に終わらないレースの中に縛り付けているのだ。
「……もう、いいんだよ」
私は、用意した角砂糖をカウンターに置き、ゆっくりと彼の元へ歩み寄った。
「お前は、本当に偉かった。あんな痛い思いをして、自分の命が消えかかってるのに、背中のパートナーを最後まで守り抜いたんだ。お前は立派に、ゴールしたんだよ」
私が震える手で、汗に濡れた彼の首筋をそっと撫でると、スズカは「ブルルッ……」と短く鼻を鳴らし、私の顔を見た。
その瞳には「本当に? あの人は、無事だったの?」と問いかけるような、深く、優しい光が宿っていた。
「ああ、無事だよ。お前が守ったあの人は、その後もずっと、お前のことを世界で一番速くて素晴らしい馬だって、誇りに思って生きてる。……お前は、最高の相棒だ」
その言葉を聞いた瞬間、スズカの瞳から、せき止めていたものが溢れるように、止めどない涙がこぼれ落ちた。
ヒヒィーン……。
細く、かすれた嘶き。それは、ようやく背中の重荷を下ろすことができた、安堵の泣き声だった。
その時だった。
ウィーン。
センターの自動ドアが、静かに開いた。
「……ルルルル……」
ひどく優しく、温もりに満ちた声だった。
そこに立っていたのは、一頭の美しい栗毛の牝馬だった。スズカの輝くような馬体によく似た、穏やかで気品のある姿。
ワキア。
スズカがまだ幼い頃、病気でこの世を去ってしまった、彼の実の母親である。
「……ッ!」
スズカは、折れた足をかばいながら、弾かれたように顔を上げた。
母親の姿を見つけた瞬間、孤高の逃亡者だった彼の瞳が、甘えるような、幼い少年のそれに戻った。
ワキアは静かに歩み寄り、痛みで震える我が子の首筋に、自分の顔をすり寄せた。優しく、何度も何度も、その汗と涙を舐めとるように撫でる。
(一人で、よく頑張ったわね。痛かったでしょう。怖かったでしょう。でも、あなたは誰よりも速く、誰よりも美しかったわ。私の、自慢の息子よ)
母の愛に包まれた瞬間。
不思議なことが起きた。
スズカの宙に浮いていた左前脚から、痛々しい熱と呪縛がスゥッと抜け落ちていくように、ゆっくりと、彼がその脚をリノリウムの床に下ろしたのだ。
カツッ。
しっかりと体重の乗った、力強い蹄の音。
粉砕されたはずの骨は、あの世の光と母の温もりによって完全に癒やされ、本来のしなやかな脚に戻っていた。
「ヒンルルルッ!!」
スズカは、痛みが消えた脚でその場で軽やかにステップを踏み、嬉しそうに、そして誇らしげに、高らかに嘶いた。
私は無言で、涙でぐしゃぐしゃになった顔を袖で乱暴に拭いながら、タブレットの「引き渡し完了」ボタンをタップした。
ピロン、という電子音と共に、二頭の足元に現れたのは——真っ白な光の道ではなく、どこまでも果てしなく続く、緑鮮やかな『永遠の芝生』だった。
「……行けよ、スズカ。向こうの世界には、ゴールもコーナーもない。お前の好きなだけ、どこまでも真っ直ぐ、誰よりも速く走っていいんだぞ」
私が鼻をすすりながら声をかけると、スズカは私の方を振り返り、優しく瞬きをした。
そして、母であるワキアと並んで、緑の芝生へと踏み出していく。
一歩、二歩と進むごとに、その脚はかつての圧倒的なスピードと躍動感を取り戻していく。
やがて二頭は、風そのものになったかのように、美しく、楽しげに駆け出し、光の彼方へと駆け抜けていった。残されたのは、青草の清々しい匂いだけだった。
「ふぅ……。動物の未練ってのは、どうしてこうも純粋で、人間の心をえぐってくるんだろうな。……畜生、涙が止まんねえや」
私は、スズカが食べなかった最高級のニンジンを胸に抱きしめながら、誰もいなくなった待合室でしばらくの間、一人で泣き続けた。
やがて、気持ちを落ち着かせ、床に落ちた涙の跡をモップで拭き取ろうとした、その時だった。
ピンポンパンポーン。
休む間もなく、そして私の感傷など一切お構いなしに、無機質なチャイムが響き渡る。
それに続いて流れてきたアナウンスに、私は濡れた目元をこすりながら、思わず天を仰いだ。
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。紀元前三四八年、古代ギリシャのアテナイからお越しの、プラトンくん。享年八十歳。……繰り返します。プラトンくんをお預かりしております——』
「……また紀元前のアテナイ!? 西洋哲学の超大物じゃないか!」
私は、悲しみを強制的に上書きされるようなスケールの案内に頭を抱えながら、慌てて古代ギリシャ語の通訳機を探し始めた。
「アテナイの哲学者といえば、以前来たあの超絶めんどくさい『論破王』ソクラテスの弟子だぞ! 絶対に理屈っぽい未練を持ち込んでくるに決まってるし、また待合室の備品の定義とかにウザ絡みされる未来しか見えない……!」
どうやら今日の冥界迷子センターも、私を感動の余韻に浸らせておく気は毛頭ないらしい。私は深い絶望と胃痛の予感とともに、次なる「めんどくさい哲学者」を迎える覚悟を決めた。




